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竜王の歯医者ですが、虫歯一本がダンジョンになっています  作者: sakumaaa
第三章 海王の逆流

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第17話 抜けば、二つの港が沈む

 黒い糸を抜けば、異常は止まる。


 竜王と精霊王の歯では、そうだった。


 海王の歯で同じことをすれば、二つの港が沈む。


「右を緩めて!」


 マレナが叫ぶ。


「左が割れます!」


「だから半分だけ!」


「半分がどこですか!」


「潮へ聞け!」


「会ったばかりです!」


 言い争っている間にも、中央の束は裂けていく。


 私は潮返しの右板を指一本分だけ閉じた。


 右の流れが強くなる。


 左の黒い糸がわずかに緩んだ。


 亀裂が止まる。


「そこ!」


 マレナが潮返しの軸へ留め具を打ち込んだ。


 二つの流れが、ぎりぎり同じ強さになる。


 静かな場所は消えた。


 私たちは左右から押され、白い崖へ背中をつけた。


 黒い糸は抜けない。


 潮門にも触れられない。


 できたのは、壊れる直前で止めることだけだった。


「戻るよ」


「鏡が」


「置いていけ」


 可動鏡は中央の黒い網へ絡んだままだった。


 七度作り直し、二人の王を診た鏡である。


 手を伸ばしかける。


 マレナが肩の短い綱を強く一回引いた。


 近づけ。


「道具は作り直せる」


「それ、嫌いな言葉です」


「あんたの身体は一つしかない」


 ヴァルドと同じことを言う。


 嫌いなのに、二人目から聞くと少し違って聞こえた。


 私は鏡から手を離した。


 二人で入口へ戻る。


 境界を越えた途端、セイルが口を閉じた。


 潮の轟音が遠ざかる。


 私とマレナは床へ座り込み、同時に息を吐いた。


「潮返しは?」


 ヴァルドが聞く。


「残してきました」


「工具を二つも失ったのか」


「一つは中で働いています」


「言い方を変えるな」


 セイルは寝台の縁へ座ったまま、アステルの若葉を握っていた。


 春の色が半分ほど抜けている。


「黒い糸は、潮門と四本の潮へ結ばれています」


 私が言うと、彼は驚かなかった。


 マレナが気づく。


「知ってたね」


「形までは知らぬ」


「抜けないことは?」


「先王から、潮分けを外せば二つの港が失われると聞いた」


 マレナが立ち上がった。


「それを先に言え!」


 潮番たちが息をのむ。


 セイルは目をそらさなかった。


「黒い糸が異物だとは知らなかった。あれを含めて潮分けだと思っていた」


「あんたが知ってることを全部言わなきゃ、こっちは何が異常かも選べない!」


「余が即位してから、港は広がった。漁に出られる日は増え、嵐で沈む船も減った」


「その代わり、あんたが三日飯も食えなくなった」


「十年、役に立った」


 言い切る声だった。


「右の港には、冬でも船が入れるようになった。左の畑へは塩の薄い水を送れる。潮分けがなければ、昨年の嵐で三つの町が沈んでいた」


 右を語るときは右の水鏡へ、左を語るときは左へ指が動いた。


 自分の頬には、一度も戻らない。


 セイルは、自分を弁護しているのではなかった。


 道具が救ったものを、一つずつ数えている。


「では、師匠の潮門は役に立った」


 マレナが言う。


「黒い糸がなくても、潮を分ける形は残せる」


「十年支えた仕組みを、疑いだけで壊せぬ」


「疑いじゃない。あたしは中で見た」


「余は中を見られぬ」


 その一言で、二人とも黙った。


 王は国土のすべてを感じるのに、自分の歯の内部だけは見られない。セイルが信じたのは王都の説明と、実際に良くなった港だった。


 十年黙っていたことは間違いだ。


 十年信じたことまで、愚かだとは言えなかった。


 私も今、初めて中を見たのだから。


 知らなかった責任は、私にもある。


 父なら、どう答えるだろう。


 一人の王が痛みに耐えれば、何万人もの暮らしが良くなる。壊れるまでは使えばいい。壊れたら王を代える。


 正しい数字だけを並べれば、そうなる。


 セイル自身まで、自分を同じように数えていた。


「十年役に立ったことと、これから残すことは別です」


「代わりがない」


「作ります」


「簡単に言うな」


「簡単ではありません。だから、知っていることを全部話してください」


 セイルの指が、色を失いかけた若葉を包む。


「先王から受け取ったのは、王都の調査記録と潮門の保守箱だ。余は歯の中へ入れぬ。痛みが出るまでは、開けたこともなかった」


「どこに?」


「地下の宝物庫だ」


 保守箱は、工具箱だった。


 工房へ運び、作業台で開く。


 中には白い替え板、黒い糸の束、手回し軸が二本。油紙へ包まれた設計図が入っていた。


 マレナが潮門の設計図を広げる。


「師匠の形だ。でも、この黒い結びは違う」


 私は手回し軸を持ち上げた。


 持ち手の木は腐っていたが、金属の長さと歯の数には見覚えがある。


 ノエから受け取った押収目録を開く。


 手回し器具、三本。


 そのうち一本の欄外に、母の字で小さく用途が書かれていた。


 流れを止めず、支えを渡すための軸。


 目の前の軸は、先端を削られ、黒い糸を巻く部品へ変えられていた。


「母の道具です」


「印があるの?」


「印ではありません」


 歯の数が一つだけ違う。


 私なら削らない場所を、母は患者の力を逃がすために削る。古い器具の丸い鏡にもあった癖だ。


 父の二本刻みとは違う。


 これは、母が使っていた形だった。


「事故で回収できなかったはずの道具が、海王の保守箱にある」


 セイルが設計図の端を押さえた。


「王都の調査官は、治療技術の共有だと説明した」


「半分は本当です」


 母の軸は、十年、二つの港を支えた。


 黒い糸は、その働きを利用して王の歯へ食い込んだ。


「抜くだけでは駄目です」


 私は保守箱の部品を一つずつ並べた。


「黒い糸が引き受けていた力を、別の道具へ渡してから抜きます」


「何へ渡す」


 マレナが聞く。


 答えを探して設計図を見る。


 潮門は一つ。


 港は二つ。


 王の歯へ、すべてを戻せばまた同じになる。


「道具一つでは足りません」


 私は二つの水路を見た。


「港のほうにも、潮を持ってもらいます」

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