第16話 潮は、患者の呼吸を待たない
工房へ入ってきた海は、工具を選ばなかった。
新しい潮返しも、師匠の潮蝶番も、まとめて流そうとした。
「ヴァルド、出口!」
「命令するな」
言いながら、竜王は入口の石壁へ両腕を突いた。
押し寄せた水が彼の脚へぶつかり、左右へ分かれる。床の工具が浮き、私の足元を抜けていった。
マレナが網を投げる。
壁から壁へ広がった網が工具を受け止めた。
「潮返し!」
「持ってます!」
「師匠のほう!」
そちらだった。
白い潮蝶番は水路の縁を越え、海へ落ちかけている。
私は作業台へ腹ばいになり、腕を伸ばした。
指先が届かない。
ヴァルドの外套が横から飛び、潮蝶番へ巻きついた。
そのまま引き戻される。
「外套は濡らすなと言ったはずだ」
「言われてません」
「今言った」
「もう濡れてます」
ヴァルドの額に青筋が浮いた。
マレナは潮蝶番を抱き締めたまま、初めて声を上げて笑った。
警報が四度目を鳴らす。
笑いは止まった。
「両方の港から逆流してる。中央の潮門が完全に止まった」
「セイルは?」
「持たせてる。長くは無理だ」
潮返しは、まだ水の箱でしか試していない。
綱の結び方も、歯の中での合図も決め切っていない。
けれど潮は、こちらの準備を待たなかった。
双潮宮へ戻ると、セイルは玉座の前へ膝をついていた。
口を閉じ、両手で床を押さえている。銀青の髪から水が滴り、指の間を二方向へ流れていた。
「開けられますか」
「開けば、今より悪くなる」
「閉じていても、もう潮は止まっていません」
昨日と同じ言葉だった。
状況は、昨日より悪い。
セイルが顔を上げる。
「何をする」
「中へ入って、黒い糸が潮門をどこまで止めているか確かめます。今日は私一人ではありません」
マレナが潮返しを肩へ担いだ。
「あたしも入る」
「潮路師を王の歯へ入れた例はない」
「海王が三日飯を抜いた例はあるの?」
セイルが黙る。
「本人の許可が必要です」
私が言うと、マレナがこちらを見る。
「私には聞かなかったね」
「今から聞きます。入りますか」
「入る」
「危険です」
「知ってる」
「泳げますか」
「あんたと一緒にしないで」
十分だった。
セイルの白い膜で入口の輪を補強し、寝台の鉄柱を支点に二本の命綱を分けて通す。
私の綱はヴァルド。
マレナの綱は宮殿の潮番が持つ。
ヴァルドは私を見る。潮番は二つの水鏡を見る。
私の綱は短い一回で右、マレナの綱は短い一回で左。どちらも細かい連続でセイルの痛み、強く引き続ければ停止。
マレナとは、肩へ結んだ短い綱でつながる。一回で近づけ、二回で離れろ。
「セイル。中で私たちの判断が割れた場合、止める合図を優先します」
「治療が遅れてもか」
「止まったまま戻れないなら、外から状況を伝えてください。続けるかは、そのあと決めます」
セイルが若葉を見つめる。
「余が続けろと言い、潮番が止めたら?」
「止まります」
「余の歯だぞ」
「港もつながっています。患者本人だけでは見えない場所を、潮番に見てもらう約束です」
ヴァルドの手が、命綱を握り直した。
精霊王領で決めたことを、別の国でも使える手順へ変える。誰か一人が勇敢なら成り立つ方法にはしない。
セイルは最後に潮番を見た。
「止めるべきと見たら、余へ構うな」
潮番が深くうなずいた。
「陛下より先に、水鏡を見ます」
王へ向ける返事としては、たぶん正しくない。
安全を預ける相手としては、正しかった。
「余の役目は」
セイルが聞いた。
「痛ければ合図してください。止めたいときも」
「潮を抑えながらでは、縄を引けぬ」
私はアステルの若葉を取り出した。
セイルの手へ載せる。
「この葉へ力を流してください。色が消えたら停止。右へ曲げれば右、左なら左。患者本人の合図を、別の王から借ります」
「精霊王の葉か」
「返せとは言われていません」
「あとで請求されるぞ」
ヴァルドが言った。
「焦げた森の修理代と相殺してもらいます」
「なぜ余が払う」
「燃やしたからです」
セイルが、痛みの途中で小さく笑った。
口がわずかに開く。
入口の輪が青く光った。
「今です」
私とマレナは同時に境界を越えた。
上向きの海が身体をさらう。
マレナは落ちなかった。
腰の縄を白い崖へ投げ、鉤を掛け、自分の身体を振り子のように足場へ移す。
私は肩の短い綱を二回引いた。
「離れろ?」
「見本が上手すぎて腹が立ちました」
「合図を私情に使うな!」
潮返しを二人の間へ固定する。
黒い網へ奪われた可動鏡は、まだ中央の潮門へ絡まっていた。柄だけが流れに揺れ、鏡面は黒い糸の奥を向いている。
「先に鏡を回収します」
「道具より診察」
「あの鏡で奥が見えます」
「なら診察だ」
マレナが潮返しの半円板を開いた。
右から来た潮が薄板へ当たり、左へ逃げる。左の潮は反対の板が受ける。二つの流れが中央の軸で打ち消し合い、短い静かな場所ができた。
私はそこへ身体を入れ、可動鏡の柄をつかんだ。
抜けない。
黒い糸が鏡の留め金へ食い込み、白い潮門と一緒に脈打っている。
「糸を四本の鉤へ分けます」
「待て。流れを見せて」
マレナが鏡面へ顔を寄せた。
鏡の中では、黒い糸が一本ずつ別方向へ伸びていた。
右の港へ二本。
左の港へ二本。
中央には、太い束が一つ。
「網じゃない」
「編まれているように見えます」
「潮へ結んである。右を引けば左が締まり、左を引けば右が締まる結びだ」
マレナが潮返しから片手を離し、黒い糸の一本を指した。
「これを一本だけ抜けば、反対の二本が潮門を引き倒す」
外から命綱が細かく震える。
セイルの痛み。
アステルの若葉が、入口の向こうで右へ大きく曲がった。
「右が危ない!」
マレナが半円板を右へ向ける。
潮返しが右の流れを受けた。
そのぶん左の黒い糸が締まり、白い潮門へ亀裂が走る。
海は、患者の呼吸を待ってくれない。
こちらが片方を支えれば、もう片方が壊れる。
中央の太い束が、ゆっくり二つに裂け始めた。




