第15話 工具は、一人で作るものではない
借りた作業台には、知らない工具が多すぎた。
つまり、いい工房だった。
「触るなとは言ってないけど、勝手に分解するなとは言っておくよ」
背後からマレナの声が飛んでくる。
私は手に取った輪を静かに戻した。
「見ただけです」
「留め金を半分抜いて?」
「中が気になって」
「工具屋ってみんなそうなの?」
「腕のいい人だけです」
潮路工房は、双潮宮の真下にあった。
壁の半分が海へ開き、床を何本もの水路が走っている。水車、鎖、浮き、網。道具のほとんどが濡れることを前提に作られ、鉄の代わりに白い金属と硬い貝殻が使われていた。
火と乾いた木に慣れた私の工房とは、何もかも違う。
作業台の中央には、水を満たした透明な箱が置かれていた。
海王の歯で見た潮分けを、板と糸で小さく再現したものだ。
右の水口から強く流す。
中央の白い板が傾き、左へ回る水を減らす。
「この形を考えたのは、あなたの師匠?」
「十二年前。二つの港を一緒に広げたときだよ」
マレナは古い設計板を作業台へ置いた。
海王の歯にあった仕切りと同じ形だった。ただし黒い糸はなく、板の根元には太い軸が一本ある。
「王都の調査官へ渡したんですか」
「宮殿から写しを求められた。王の潮を安全に分ける研究だってね。師匠は喜んで渡したよ」
「歯の中へ入れるとは?」
「聞いてない」
マレナが設計板の端を押さえる。
怒っているのに、紙を傷めない力だった。
「師匠は五年前に死んだ。あたしが聞ける相手は、もう海王陛下しかいない」
「セイルは、治療器具だと聞かされていた」
「聞かされたことと、黙ってたことは別だよ」
返す言葉がなかった。
私は透明な箱へ、自分の試作品を入れた。
輪状の留め具の予備部品へ、アステルの若葉を細く切って巻いたものだ。葉は力の流れへ反応する。黒い糸が潮を引く方向を見つけ、その手前へ鉤を落とす。
右の水口を開く。
若葉が曲がった。
鉤が黒い糸の模型へ届く。
「合いました」
「まだ」
マレナが左の水口も開いた。
二つの流れが中央でぶつかる。
若葉は左右へ引かれ、鉤の軸へ巻きついた。細い金具が一回転し、留めが外れる。
試作品が箱の底でばらばらになった。
「……水を二つ同時に入れるとは聞いてません」
「海王の歯には二つ流れてた」
「先に言ってください」
「先に聞いて」
マレナは箱の底で外れた留め金を拾い、逆向きに差し込んだ。もちろん、今度は最初から止まらない。
「港の道具は、逆から力が来たくらいで人を刺しちゃ駄目だ。使うのは腕のいい人ばかりじゃないからね」
痛いところを突く人が、この世界には多い。
私は箱の底から部品を拾った。
曲がった金具。ほどけた葉脈。外れた鉤。
直せる。
左からの力を受ける脚を足し、回転しないよう軸を太くすればいい。材料なら、ヴァルドの鱗も母の接合材も残っている。
一人でできる。
そう考えて、透明な箱の向こうを見た。
マレナは壊れた試作品ではなく、水のぶつかった位置を見ていた。指先を流れへ入れ、渦の形を確かめている。
私には、ただ乱れたようにしか見えない水だった。
「何が違ったんですか」
「潮は、押されたほうへ逃げるだけじゃない。狭いところへ戻ってくる」
「どう直せば?」
「それをあたしに聞く?」
「聞いてます」
マレナの指が止まる。
「あなたの潮門を、小さく作りたい。歯の中で使える形にするには、私の輪と鉤が要ります。でも、二つの潮を受ける部分は私には作れません」
「さっきまで一人で作る顔だった」
「失敗しましたから」
「素直だね」
「道具が壊れたときだけは」
人が相手だと、もう少し時間がかかる。
それは言わなかった。
マレナは工房の奥へ行き、大きな木箱を開けた。
中から、白い半円形の金具を出す。手のひらほどの大きさで、中央に何枚もの薄板が重なっていた。
「潮蝶番。流れが右から来ても左から来ても、軸だけは真ん中へ戻す」
「使わせてください」
「嫌だ」
「今、出したのに?」
「師匠が最後に作った予備だ。切れば二度と同じ物は作れない」
私は潮蝶番をのぞき込んだ。
薄板の一枚ずつに、細い角度がついている。水を受けた板が隣を押し、その力を反対側へ逃がす仕組みらしい。
確かに、同じ物は作れない。
「では、切りません」
「諦めるの?」
「分解して、形を測って、別の材料で作ります」
「分解も駄目」
「さっき、触るなとは言ってないと」
「屁理屈だけは速いね」
マレナは潮蝶番を私の前へ置いた。
「外から測る。開き方はあたしが教える。部品は、壊れた水門のを使う」
「あれは大きすぎます」
「小さくするのが歯医者の仕事だろ」
「流れを戻すのは潮路師の仕事です」
私たちは同時に、壊れた試作品へ手を伸ばした。
指がぶつかる。
「そこは私が」
「あたしの工房」
「私の工具です」
「患者はうちの王」
「では、半分ずつ」
「工具を半分にする気?」
ヴァルドが工房の入口で腕を組んでいた。
「余の出番はなさそうだな」
「水門の廃材を押さえてください」
「余は万力ではない」
「動く万力は便利ですよ」
彼は不満そうに作業台へ来た。
マレナが水門の太い軸を置く。
ヴァルドが片手で押さえ、私が切り、マレナが水へなじむ角度まで薄く削る。
「印から一度もずれてません」
「余を万力として採点するな」
一人で作るより、ずっと遅かった。
手を止めて説明し、相手の言葉を聞き、同じ部品を何度もやり直すからだ。
それでも夕方、透明な箱の中央で、新しい蝶番は二つの流れを受けて真ん中へ戻った。
黒い糸の模型へ、四本の鉤が同時に掛かる。
今度は壊れない。
「名前は?」
マレナが聞いた。
「まだ試作品です」
「名前がないと、合図で呼べない」
「では、潮返し」
「そのままだね」
「専門用語が少ないほうがいいんです」
工房の上で、鐘が鳴った。
一度。二度。三度。
港の警報だった。
右と左の水路が、同時に工房へ逆流してきた。
試す時間は、そこで終わった。




