第14話 歯の中では、海が上に流れる
海へ入る準備をした。
泳ぐ準備ではない。
海王の歯へ入る準備である。
「違いは?」
マレナが、私の腰へ太い縄を結びながら聞いた。
「工具を持っていくかどうか」
「海を甘く見てる人の答えだね」
「泳げません」
「今さら言う?」
マレナの手が止まった。
寝台へ横たわったセイルまで目を開ける。
ヴァルドだけは驚かなかった。
「この娘は空からも落ちる」
「落ちたのは一度です」
「余が知るだけで一度だ」
「話を増やさないでください」
海へ入るといっても、歯の内部がすべて水で満ちているとは限らない。
竜王の歯は火山洞窟だった。精霊王の歯は森だった。王の歯の内部は身体そのものではなく、国土を巡る力が景色になった場所だ。
だから息はできる。
たぶん。
工具屋の試し方としては不確かだが、王の歯へ入るための説明書は残っていない。母の記録にも「息ができなければ戻れ」としか書かれていなかった。
実用的ではある。
親切ではない。
せめて今回は、確かめる人が外にいる。私一人の判断ではない。
「その顔で入るつもり?」
「息ができなければ、すぐ引いてください」
「合図は」
「綱を強く二回」
「潮の合図と混ざる。強く一回は戻れ。細かく叩くのは痛み。引き続けたら入口が崩れてる」
マレナが勝手に決め、私の腰の結び目をもう一度締めた。
正面、横、斜め上。三方向へ順に引いても、結び目の位置は動かない。
「苦しいです」
「生きて帰れば緩める」
頼もしい人を選びすぎたかもしれない。
入口の輪は、セイルの奥歯へそのまま掛けられなかった。
真珠のような表面に凹凸がなく、金属の爪が滑る。ヴァルドの鱗を組み込んだ縁材も、海王の力へ触れるたび熱を持った。
別の王の素材は境界を越えられても、長くはなじまない。
「患者の素材が必要です」
セイルは首に掛けていた白い小片を外した。
「即位のとき、王の歯から自然に剥がれたものだ」
歯片ではなく、薄い真珠の膜に見えた。触れると、内部で波が往復している。
「切っても?」
「必要なだけ使え」
「返せません」
「口を開けぬ王に、飾りは要らぬ」
軽く言ったつもりらしい。
銀盆の粥は、今朝も減っていなかった。
私は白い膜を細く裂き、入口の輪へ巻いた。
金属の熱が消える。
セイルが口を開ける。
「右、安定。左、少し上がる」
マレナの声を聞きながら、輪を奥歯へ掛けた。
白い膜が歯の表面へ張りつく。
輪の内側に、青い穴が開いた。
「行きます」
「待て」
ヴァルドが命綱をつかんだ。
「綱はマレナへ預けます」
「余も持つ」
「一人が二人になると、逆へ引かれたとき困ります」
「余が外すとでも?」
「私だけを見て、周りを見なくなる可能性があります」
ヴァルドの金色の目が細くなる。
三日前なら、ここで言い返しただろう。
彼は綱から手を離した。
そのまま寝台の側へ移り、セイルの顎と二つの水鏡を一度ずつ見た。
「余は患者を見る」
「お願いします」
「私が潮と入口を見る」
マレナが綱を自分の腰へ回す。
役割は三つに分かれた。
私は青い穴へ足を入れた。
冷たい。
次の瞬間、上へ落ちた。
「うわっ」
白い崖が足元から遠ざかる。
海は頭上にあった。
青い水面が天井のように広がり、そこから何本もの滝が上向きに流れている。私の身体も滝の一本へ引かれ、空へ向かって落ちていた。
息はできる。
安心したのは一瞬だった。
命綱が張り、腰から身体が二つ折りになる。
「ぐえっ」
最近、空中でこの声を出すことが増えた。
綱をたどって白い崖へ戻る。崖の側面には細い足場があり、その先で道が二つに分かれていた。
右へ青い潮。
左へ白い潮。
二つを分ける中央の岩へ、黒い糸が網のように巻きついている。
鏡で見た白い突起だ。
近くで見ると、自然な岩ではない。
何枚もの白い板が可動するように組まれ、潮の強さに合わせて左右へ傾いている。
歯の一部を利用した、巨大な仕切りだった。
黒い糸は仕切りを補強しているのではない。
可動部へ食い込み、右へ傾いた板を戻らなくしていた。
「測ります」
命綱を細かく三回叩く。
外から一回、返ってきた。
可動鏡の先へ測り針をつけ、黒い網へ近づけた。
触れる直前、上向きの滝が横へ曲がる。
工具ごと腕を持っていかれた。
「っ!」
針を離す。
可動鏡は黒い網へ絡まり、柄が手から抜けた。
命綱を強く一回引く。
戻れ。
けれど、腰の綱は上向きの潮へ巻かれた。引き上げる力が横へ逃げる。
入口の輪が白い崖の上で滑った。
真珠の膜が一枚、剥がれる。
青い穴が細くなる。
「マレナ!」
外から縄が飛んできた。
一本ではない。
細い縄を格子に編んだ網が境界を越え、内部の尺度へ広がった。上向きの滝を横切り、私の身体を受け止める。
網の端が白い崖の突起へ巻きつく。
引く方向が変わった。
私は網をつかみ、入口まで這った。
青い穴を抜けた途端、マレナと一緒に床へ転がる。
セイルが口を閉じた。
外れかけた輪をヴァルドが押さえ、入口が消える。
「三呼吸の診察で、よく工具を一本なくせるね」
マレナが息を切らしながら言った。
「三呼吸以上ありました」
「そこ?」
「鏡は中に残りました」
「見えてたよ」
彼女は床へ広がった網を指でたどった。
網の一本に、可動鏡の切れた留め紐が絡んでいる。
「あの白い仕切りも見えた」
「知っているんですか」
「歯の道具は知らない」
マレナの顔から、さっきまでの呆れが消えた。
「でも、あれは潮門だ。二つの港へ水を分ける、あたしたち潮路師の道具だよ」
海王の歯の中に、王都の職人だけでは作れない道具がある。
マレナは黒い糸が残した跡を、濡れた指でつまんだ。
「しかも、古い。あたしの師匠の作り方だ」




