第13話 海王は、口を開けない
患者が口を開けなければ、歯は見られない。
当たり前の話だと思っていた。
海王の場合、口を開けると港が壊れるらしい。
「帰れ」
青い石の玉座から、海王セイルが言った。
見た目は三十歳前後。長い銀青の髪を一つに結び、片手で頬を押さえている。声は静かだが、玉座の足元から水がしみ出していた。
痛むたび、力が漏れている。
広間の左右には、二つの港を映す水鏡があった。
右の水鏡では、海底へ落ちた船を人々が縄で起こしている。左では、屋根まで来た水を桶でかき出していた。
患者の顔と、患者が背負うものが同時に見える部屋だった。
「診察を断る理由を聞いても?」
「余が口を開けば、右の潮は引き、左の潮は満ちる」
「閉じていても、今そうなっています」
「程度が違う」
セイルが奥歯へ力を入れた。
床の水が引く。
代わりに、彼のこめかみに青い筋が浮いた。
「三日前までは、余が噛み締めれば潮を戻せた。今は口を閉じている間だけ、崩れる速さを抑えられる」
「眠ってませんね」
「王が眠れば、二つの港が入れ替わる」
「最後に食べたのは?」
セイルの視線が、反射のように右の水鏡へ動いた。
「港ではなく、あなたがです」
「その問いに何の意味がある」
「三日間、口を開けていないなら、食べてもいない」
セイルは答えなかった。
玉座の横に置かれた銀盆には、手をつけていない薄い粥があった。湯気はもうない。
「痛むのは、開けたときだけですか」
「初めは右を噛んだときだけだった」
「今は?」
「右を緩めれば左が引かれる。左を押さえれば右が疼く」
「何もしなければ」
「両方だ」
答えるたび、セイルの視線は二つの水鏡へ動いた。
自分の右と左ではない。
港の右と左を見ている。
「最初に痛んだ日は」
「半年前」
「三日前まで黙っていた?」
「潮は戻せていた」
「痛くないとは聞いてません」
セイルの眉がわずかに動く。
王は国土の異常を症状と呼ぶ。自分の痛みは、報告へ入れない。
「味が変わった、眠れない、冷たい物がしみる。港に出ない異常も、全部教えてください」
「眠っておらぬことは、もう見抜いたであろう」
「一つ。残りは?」
セイルはしばらく黙り、銀盆を見た。
「水が、鉄の味をする」
三日間、港の被害しか口にしなかった人が、初めて自分の舌の話をした。
「海王陛下」
「セイルでよい」
「ではセイル。倒れるまで噛み締めたあと、港は誰が守るんですか」
水鏡の中で、船が一本の縄を切った。
マレナが舌打ちする。
彼女は謁見の間へ入ってから、礼を一度もしなかった。代わりに二つの水鏡を交互に見ている。
「右の港、あと半刻で沖へ戻る。左は排水路が詰まり始めた」
「余が持たせる」
「三日前もそう言った」
「マレナ」
「王様でも、潮へ命令するときは数字を出して」
この国では、職人が王へ容赦しないらしい。
居心地がよかった。
「診察に必要な時間は?」
セイルが私へ尋ねた。
「最初は三呼吸」
「三呼吸で何がわかる」
「何もわからない可能性が高い、とわかります」
「役に立たぬな」
「見てもいないのに治せると言う歯医者よりは」
ヴァルドが喉の奥で低く笑った。
セイルが彼を見る。
「貴公は、この娘に歯を預けたのか」
「一度、殺されかけた」
「ヴァルド」
「事実だ」
「その紹介で口を開ける患者はいません」
「二度目で治した」
セイルの視線が、ヴァルドから私へ戻る。
「なぜ二度目を許した」
「余の話を、初めて聞いたからだ」
短い答えだった。
けれど、セイルの頬を押さえる指が少し緩んだ。
「三呼吸だけだ」
「嫌なら途中で閉じてください」
「閉じれば、指を噛むぞ」
「鏡を使います」
私は工具鞄から長い可動鏡を出した。
七度作り直した鏡。ヴァルドの火を見て、アステルの四季を映した道具である。
柄の継ぎ目には、父の二本刻み。
その横へ、私が足した三本目の浅い傷がある。
父の道具ではなく、今は私の道具だと見分けるための印だった。
マレナが水鏡の前へ立つ。
「口を開けたら数える。右と左、危ないほうを先に言う」
「お願いします」
ヴァルドはセイルの背後へ回り、玉座を片手で押さえた。
「余は何をする」
「動くな」
「それだけか」
「貴様は力を使わぬほうが役に立つときもある」
「患者の前で言わないでください」
セイルの口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのかもしれない。
すぐに痛みで消えた。
「始めます」
セイルが頬から手を離す。
ゆっくり口を開けた。
広間の床を水が走る。
「一つ!」
マレナの声。
可動鏡を奥へ入れる。
海王の歯は、真珠のような白さだった。奥歯の中央へ、細い青の線が走っている。
ひびではない。
水が流れている。
「二つ! 右が引く!」
鏡の角度を変える。
青い線の奥に、黒い糸が見えた。
一本ではない。何十本もの細い糸が編まれ、白い突起へ巻きついている。
「三つ! 左が上がる!」
鏡を抜く。
セイルが口を閉じた。
歯が鳴る。
広間全体が大きく揺れ、水鏡の中で右の海が沖へ走り、左の波が防潮壁へぶつかった。
セイルは玉座の肘掛けをつかんだまま、息を吐いた。
「見えたか」
「黒い糸が、歯の中の白い突起へ絡んでいます」
マレナが振り返った。
「突起?」
「先が二つに分かれていました。あれが潮を左右へ分けている?」
「潮分けだ」
答えたのは、セイルだった。
初めて聞く言葉なのに、彼は迷わなかった。
「ご存じだったんですか」
「王位を継いだ日から、歯の中にある」
セイルは水鏡を見た。
「先王は、二つの港を守る治療器具だと言った」
「誰が治療したんです」
「王都から来た調査官と、その連れていた職人だ」
母の事故記録を封じた者たちと、同じ肩書だった。
私は可動鏡の三本目の傷を親指でなぞった。
黒い糸は、病気の中へ隠れていたのではない。
治療だと信じられ、十年以上そこに置かれていた。




