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竜王の歯医者ですが、虫歯一本がダンジョンになっています  作者: sakumaaa
第三章 海王の逆流

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第12話 海が、空へ落ちていた

 海が、空へ向かって落ちていた。


 比喩ではない。


 沖合から何本もの水柱が垂直に立ち上がり、雲の中へ吸い込まれている。


 魚も、海藻も、小舟まで。


 全部まとめて、空へ向かって上っていた。


 一、二、三。


 数えている間にも増えていく。


 七本目が途中で二つに分かれたところで、数えるのをやめた。


「ヴァルド。海では、あれが普通なんですか」


『海へ来たことのない人間でも、普通ではないとわかるであろう』


「確認です」


『三日前、四季の乱れた森を見たときも同じことを言っておったぞ』


 竜王の背へ巻いた固定帯を握り、眼下をのぞき込む。


 父の手掛かりを追うつもりだった。


 王都の記録と工具商の名簿を当たり直せば、二本刻みに近い仕事をした職人くらいは見つかるかもしれない。


 けれど、その調査へ手をつける前に海王から書状が届いた。


『潮の巡りに、わずかな乱れあり』


 王様の「わずか」は信用しないほうがいい。


 ヴァルドも同じ結論だったらしく、私たちは父の調査をいったん後へ回し、海へ向かった。


 白枝塔を飛び立って半日。


 森の匂いは消え、風が塩気を帯びている。


 工具鞄の内蓋には、アステルからもらった若葉。


 脇袋には二つの黒い異物。


 母の割れた鏡と事故記録の写しは、油紙で包んだ。


 一つも落とせない。


 今回は、固定帯を三重にしてある。


『少しは学習したようだな』


「誰かさんが、乗り物としての乗り心地を改善してくれないので」


『余は貴様の乗り物ではない』


「乗り物なら、もう少し旋回が滑らかです」


 ヴァルドの翼がわざと傾いた。


 私は三重の固定帯へ腕を絡めたまま動かない。


 この程度は予想済みである。


 そのとき、水柱の一本が大きく曲がった。


 こちらへ来る。


『伏せろ!』


 黒鉄色の翼が、私を覆った。


 水の塊が翼へぶつかり、白い飛沫が霧のように散る。


 水煙が晴れた。


 ヴァルドの角に、銀色の魚が一匹引っかかっている。


『…………』


「似合ってますよ」


『取れ』


「飛行中に立つのは危険です」


『取れ』


 手を伸ばす前に、魚は自力で跳ね、風へ乗って海へ落ちていった。


 ヴァルドの喉から低い音がする。


 魚には王の威厳が通じないらしい。


 笑いを飲み込んだところで、港町が見えてきた。


 二本の岬が腕のように海へ伸び、その内側へ白い町が築かれている。


 左右に二つの港。


 その間を、太い中央水路が貫いていた。


 岬の奥には、大きな貝を伏せたような白い宮殿がある。


 双潮宮。


 問題は、その左右だった。


 右の港では、海底が見えるほど潮が引いている。船は傾き、沖の深みへ引かれかけていた。


 左では逆に、海水が防潮堤を越え、石段を上って家々へ入り込んでいる。


 同じ海とは思えない。


 それでも、人々は逃げていなかった。


 右では男たちが海底へ下り、傾く船へ丸太を噛ませている。


 左では家々の間へ縄が張られ、排水の列が高台まで続いていた。


 町の中央には二本の潮塔。


 巨大な潮車を備えた塔だが、一基は泥へ沈み、もう一基は鎖で閉ざされている。


 海だけが狂っている。


 人の手は、まだ動いていた。


『海王からの書状には、「わずかな乱れ」とあったな』


「王様って、どうして重病を擦り傷みたいに書くんでしょう」


『威厳だ』


「診察の邪魔です」


『余を見るな』


 ヴァルドが双潮宮の前へ降りた。


 私は固定帯を外す。


 今度こそ、自分の足で普通に降りる。


 そのつもりだった。


 濡れた石畳から、細い激流が足首をさらった。


「え」


 身体が浮く。


 ヴァルドの手が伸びるより早く、横から太い濡れ縄が飛んできた。


 腰へ巻きつく。


「踏ん張りな!」


 鋭い女の声と同時に縄が引かれ、私は石段へ転がされた。


 工具鞄だけは抱えたまま。


 一回転。


 空から落ちたときよりは、かなり上達している。


「三つ数えたら、また潮が吹く。二つで立ちな」


 二つ数える前に立った。


 女は私を起こすより先に、腰へ巻いた縄を右、左と引いていた。


 結び目の確認だ。


 どの方向へ力が掛かっても抜けない。


「宮前の逆潮も知らない余所者が、階段の端を歩くんじゃないよ」


 縄の先にいたのは、日に焼けた女だった。


 短い黒髪には、乾いた塩が白く残っている。


 厚手の作業着は、膝も肘も何度も当て布をされていた。


 腰には、大小の鉤と金具。


 衛兵ではない。


 現場の人だ。


「助かりました」


「礼は海王陛下の歯を見てからにしな。あんたが噂の人間の歯医者かい?」


「リタです。こっちは竜王ヴァルド」


「見ればわかるよ。魚を角に乗せて飛ぶ竜なんて、ほかにいない」


 ヴァルドの目が細くなった。


 女は気にしない。


「あたしはマレナ。潮路師だ。二つの港の水路を預かってる」


「道案内ですか?」


「お目付け役」


 即答だった。


 マレナの目が工具鞄へ落ちる。


「中を見せてもらうよ」


「患者の前なら」


「危険な刃物を持ち込ませないためだ」


「危険のない工具なんて、役に立たない物ばかりですよ」


「だったら、なおさら見る」


 笑わない。


 腰の道具を見る。


 海水で白く曇ってはいるが、泥は落とされ、刃先と鉤だけはきれいに整えられていた。


 使われている道具だ。


「患者の体を勝手に切ったりはしません。触る前に本人へ聞きます」


 私は一度区切った。


「中で何か起きたら、外から引き戻してください」


「竜王が邪魔しても?」


「構わず」


 ヴァルドの尾が石畳を叩いた。


 マレナは一瞥しただけで、縄の端をこちらへ投げる。


「いいだろう。持ってやる」


「え?」


「妙な真似をしたら、あんたごと引きずり出す」


 マレナがヴァルドを見る。


「竜王が怒ったら?」


「それでも引いてください」


「頼もしいです」


「嫌味かい?」


「本気です。命綱を預けられる目を探してました」


 マレナが少しだけ眉を上げた。


 ノエの言葉は正しかった。


 私がヴァルドを見るなら、別の誰かが周囲を見る。


 この人は、逆潮と見知らぬ私の両方を見ていた。


「マレナ! 竜王陛下へ何という口を!」


 宮殿から、青い礼服の男が駆けてきた。


「竜王陛下、遠路のご到着、歓迎申し上げます! 海王陛下はご健勝で、ただ潮の調整へ少々の――」


 足元から、重い音が響いた。


 地鳴りではない。


 誰かが奥歯を噛み締め、痛みを押し殺しているような音だった。


 右の港から、一気に海が引く。


 大型船が傾き、乾いた海底へ横腹を打ちつけた。


 同時に左では、高波が防潮壁を越える。


 役人の顔色が変わった。


 マレナが宮殿を見上げる。


「ご健勝な王様が、丸三日、水一滴飲まずに耐えてるんだよ」


 縄を巻き直し、その端を私へ押しつける。


「歯医者。あの頑固頭に、口を開けさせられるかい?」


 私は縄を握った。


「まずは、問診からです」

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