第12話 海が、空へ落ちていた
海が、空へ落ちていた。
上下を間違えたわけではない。
青い水が沖から何本も立ち上がり、雲へ吸い込まれている。魚も海藻も小舟も、まとめて空へ向かって流れていた。
一本、二本、三本。
数える間にも増え、七本目は途中から二つに分かれた。数をそろえて安心できる種類の異常ではないらしい。
「ヴァルド、あれは普通ですか」
『海へ来たことのない人間でも、普通ではないとわかるであろう』
「念のためです」
『三日前、季節が四つ混ざった森を見ても同じことを聞いたな』
竜王の背へ回した固定帯を握り、私は下をのぞいた。
精霊王領を発ってから半日。森の匂いはとっくに消え、風は塩辛くなっている。工具鞄の内蓋にはアステルからもらった若葉。脇袋には二つの黒い異物。母の割れた鏡と事故記録の写しは、その隣へ別々に収めていた。
どれも落とせない。
今回は固定帯を三重にした。
『学習したようだな』
「誰かが背中を乗り物として整備してくれないので」
『余は乗り物ではない』
「知っています。乗り物なら、もう少し揺れません」
ヴァルドがわざと翼を傾けた。
私は三重の帯へ両腕を絡めた。
学習とは、相手が大人げないことまで計算へ入れる行為である。
海面から伸びた水柱の一本が、急に曲がった。
『伏せろ』
黒鉄色の翼が私を覆う。
水柱が横からぶつかった。分厚い鱗を叩き、白い飛沫となって散る。魚が一匹、ヴァルドの角へ引っかかった。
『……』
「似合いますよ」
『取れ』
「飛行中です」
『取れ』
角へ手を伸ばす前に、魚は尾を振って自力で逃げた。
竜王が低く唸る。
魚には通じなかった。
笑いかけたところで、海の上にある町が見えた。
正確には、海へ突き出た二本の岬に挟まれた町だった。白い石の家々が段々に並び、左右の港を太い水路が結んでいる。岬の奥には、巨大な貝殻を伏せたような宮殿があった。
右の港では、船が海底へ落ちそうな勢いで沖へ引かれている。
左の港では、逆に水が岸を越え、坂道を上っていた。
二つの港が、同じ海とは思えない。
それでも、人々は逃げていなかった。
右の港では、海底へ降りた人たちが船の腹へ丸太を差し込んでいる。左では、家から家へ縄を張り、桶を持った列が高い排水路まで続いていた。
町の中央には、同じ形の高い塔が二本ある。どちらも大きな潮車を抱えているのに、片方は泥へ沈み、もう片方は鎖で閉ざされていた。
異常な海の下で、町だけが手順を守って動いている。
王の歯を治すまで、この人たちの手が潮を相手にし続けるのだ。
『海王の書状には、潮が少々乱れているとあった』
「王様の書状は、どうして病状を小さく書くんでしょう」
『威厳だ』
「診察の邪魔ですね」
『余を見るな』
ヴァルドが双潮宮前の広場へ降りる。
海風が渦を巻き、待ち構えていた兵たちの外套を一斉にめくった。私は固定帯を外し、今度こそ自分の足で降りようとした。
足元を水が走った。
「え」
くるぶしをさらわれ、石段から身体が浮く。
ヴァルドの手が外套へ伸びた。
その前に、横から飛んできた太い縄が私の腰へ巻きついた。
「踏ん張って!」
女の声と同時に、縄が強く引かれる。
私は石段の上へ転がった。工具鞄を胸へ抱き込んだまま、一回転半。
悪くない着地だった。
少なくとも空から落ちたときよりは。
女は私を起こすより先に、腰へ巻いた縄を右、左の順に引いた。どちらから力をかけても、輪は抜けない。
「三つ数えたら次の逆潮が来る。二つで立って」
私は二つで立った。
「宮前の逆潮を知らない人が、端を歩くんじゃないよ」
縄の先にいたのは、日に焼けた女だった。短く切った黒髪へ白い塩がこびりつき、腰には大きさの違う輪と鉤が何十本も下がっている。
兵の制服ではない。厚い作業着の膝と肘には、何度も当て布がされていた。
「助かりました」
「礼は海王陛下の歯を見てからにして。あんたが人間の歯医者?」
「リタです。こちらは竜王ヴァルド」
「見ればわかるよ。魚を角に乗せて飛ぶ竜なんて、ほかにいない」
ヴァルドの金色の目が細くなった。
女は気にしなかった。
「潮路師のマレナ。二つの港の水路を見てる」
「案内役ですか」
「見張り役」
即答だった。
マレナは私の工具鞄へ目を落とした。
「中を見せて」
「患者の前なら」
「危ない物を持ち込ませないためだよ」
「危なくない工具は、壊れた工具だけです」
「ますます見せてもらう」
彼女は笑わなかった。腰の鉤も輪も、海水で白く曇っているのに手入れされ、刃先だけは光っていた。
道具を飾りではなく、使った跡で見る人だ。
「患者の物を勝手に切りません。触る前に聞きます。中で何かあれば、引いてください」
「竜王が怒ったら?」
「それでも引いてください」
ヴァルドの尾が石段を一度叩いた。
マレナはそちらを見てから、私へ縄をもう一度投げた。
「なら、持つ」
「王の歯へ変な道具を入れたら、あんたごと引き上げる。竜王が止めてもね」
「頼もしいです」
「嫌味?」
「命綱を預けられる人を探していました」
マレナが初めて言葉に詰まった。
ノエの指摘は正しかった。私がヴァルドを見るなら、別の誰かが周囲を見る必要がある。
この人は、少なくとも足元の潮と見知らぬ人間の両方を見ていた。
宮殿から、青い外套の男が駆けてくる。
「マレナ! 勝手なことを言うな。竜王陛下、お待ちしておりました。海王陛下はご健勝です。ただ、潮の調整にわずかな――」
地面の下から、低い音が響いた。
獣の唸りではない。
誰かが歯を食いしばったまま、声を押し殺した音だった。
右の港から水が消える。
係留された船が一斉に傾き、乾いた海底へ腹を打った。
左の港では、波が屋根を越えた。
使者の顔から血の気が引く。
マレナは宮殿を見上げた。
「ご健勝な王様が、三日間、一度も口を開けてない」
腰の縄を巻き直し、私へ端を投げる。
「歯医者。あの人に口を開けさせられる?」
私は縄を受け取った。
「まず、話を聞きます」
宮殿の奥で、もう一度、海王の歯が鳴った。




