018『蜘蛛の目』
娘の牢が移されるのを待ち、毒殺魔の入浴が行われる。
軽罪の囚人に髭を剃ってもらってから枷を外されて、用意された浅いタライにどうにか浸かる。
渡された使いさしの貴族石鹸で、痩せの全身を器用に、くまなく洗っていく。
「あ、牢番さん。その蜘蛛を、あっしにくれやしませんか?」
空の牢を掃除する牢兵が殺そうとした礫ほどの大きな蜘蛛を、禊済みの毒殺魔が強く所望した。
普段なら懲罰するも、どうせだからと、2年付き合いの牢兵が気を使う。
指でつまんで鉄格子の隙間に放り投げる。
「へへ、ありがとう」
毒殺魔は展開した板寝台に寝そべり、紺青の指腹で、胸板に乗せたその蜘蛛を見つめている。
命令待ちで監視を続ける3人の牢兵が、怪物娘に心を乗っ取られたのかと恐々している。
しかし毒殺魔アザンには知ったことではなかった。
「よく見りゃ、蜘蛛ってのは2つの目じゃなく、8つもあるのか。そうなると、こいつには俺がどう見えてやがんだ?」
牢を移るまでに紫髪の小さな娘は、この大きな蜘蛛をずっとずっと見つめては、どこも見ない赤瞳を強く輝かせて、その蜘蛛の目にこの世界がどうやって見えているのか、ずっとずっと毒殺魔へ解説し続けていた。
それでも毒殺魔はわからないから、蜘蛛の目を見つめる。
「死刑囚12番、手紙は書けるか」
「あいにくと文字を知らねえし、書くべき相手はみんな死んじまってんで」
毒殺魔は、蜘蛛の目を考え続ける。
「死刑囚12番、神官様が祝福をお与えなされる」
「来てもらってご苦労ですけど、あっしには野暮ってもんです」
毒殺魔は、蜘蛛の目で見る自分をよく思い浮かべる。
「死刑囚12番アザン・ゲモン」
毒殺魔は蜘蛛を――
「アザン・ゲモン!!」
「へいへい、牢番さん。そろそろですかい?」
寝台から下りた毒殺魔が、蜘蛛を丁寧に置いて返事する。
「そうだ。もうやり残したことはないな」
「ま、時間なら仕方がない。厠だけ済まさせてくださいや」
鉄球を手にする毒殺魔が、一本道へ塞がれる監獄の廊下を歩いていく。
彼の牢番が訊ねる。
「あの魔族娘みたいにずっと蜘蛛を見ていたな。何かわかることでもあったのか?」
毒殺魔は首を横に振る。
「いやいや。あっしには結局わからずじまいでした。でもあの娘がそのうち解き明かしてくれるでしょう」
「そうか」
牢番の立ち入りはここまでだった。
渡り廊下の掠れた白レンガより先には、白ローブの神殿兵が、ロングソードを掲げて並んでいる。
毒殺魔は笑顔で言い残す。
「自分の怒りで悪魔憑き同然になったあっしにまだ神の加護があるんなら、天国に行くために残る分ぐらい、あの娘にやりますわ。だから牢番さん、気味は悪いかもだけど、あの娘にちょっとは手加減してやってくださいな」
「俺に言ったところで、現実はそう変わらんぞ」
「なら、あっしがまた毒を使って、神様になりますか。ははは」
被る白フード下の眉がひそまるその道を、毒殺魔はたったと進んでいった。
皇妃のお目通りがなされる手前、セレッタ・バープルストは早朝から徹底的に洗浄され、神官の治癒魔法まで徹底的に施して虐待痕なく万全させる。
一通り嫌がるセレッタに手錠のみかけて待たせると、数分もしないで水色ドレスのレインと、もりもりかつらの侍女みつばが、漆喰まで塗り直す真っ白の尋問室に入ったのだった。
レインが、その美貌に倍掛けする氷刃を牢兵達に突き刺して、全員を退室させる。
部屋の中央の拘束椅子に、きょとんと、件の少女が赤瞳を向けていながら、レイン達をなんら見ていなかった。
「こんにちは、セレッタちゃん」
みつばは声をかけるも、無反応だ。
幸い時間をたっぷりもらった。根気よく話しかける。
「私の名前はミツバ。こっちのお姉さんはレイン。セレッタちゃんに聞きたいことがあるんだけど」
無反応は変わらない。しかし赤瞳を覗いてみつばは気づき、続いてレインも理解した。
「この前ハスエーにドレスの緑染料について、その毒性なり贈り物の作法なり詳しく述べておったが、同じようなことをずっと考え続けているのか?」
「うん。今は蜘蛛さんの目で、どうやったらこの世界を全部くまなく見ることができるかなって」
みつばが相槌で差し込みかけるのをレインが手平で突き、このままセレッタに続けさせた。
「暇だったから大きな蜘蛛さんの目の中を数えていたんだ。でも蜘蛛さんには8つ以上はなかった。同じ虫さんなのに、蜘蛛さんには目の中の目がないんだね。だから8つの目で私や牢屋の中を見つめていたことになる。でも人の目は2つで犬さんやゴブリンさんだってそうで、それぞれの黒目が真ん中の点から色んなものを見渡しているわけだけど、蜘蛛さんはどうやってその点を掴んでいるのかと思ったら違うんだね。蜘蛛さんは目が見えないから尾の糸を長い八本脚に絡ませて、だから八角形の糸の巣が一番扱いやすいんだなって。だから私の考えてたのって、蜘蛛さんだと生き方から違うから、人には当てはまらないんだなってわかった」
「ふむ、もう少し簡潔に説明のみをまとめろ」
話の7割を理解したレインは、小さいセレッタに容赦なくツッコんだ。
みつばとしても可哀想な女の子のイメージが先行していたが、これなら遠慮なしに質問を叩きつける方が早いと判断する。
「その人の目のことでセレッタの見解を聞きたいのだけど、その目の見えるものつまり視覚を取り出し、外部出力つまり絵として他の人に見せる場合に、そのままだと世界のすべてを描画せずに撮影者が無意識に重要度選別の処理を行って視覚としてしまうことがわかったの。それでお姉さん達は今、その問題の解決を人の目に像が写るつまり視覚になる前段階で外部出力させるアプローチを試しているのだけど、まずセレッタ、この前段階で取り出した時の絵ってどういうことになっているか具体的に答えてくれる?」
何の余地もなくセレッタが回答する。
「それはとても簡単だよ。適当な点の遠さを元に世界の見え方がとってもぐにょぐにょしてしまう。目の間は点を真ん中にして何があるかわかるぐらいだけど、右と左の端にいくほどぼやけてしまうし多分暗い。ただミツバチおばちゃんの困っている問題の中で、『しかく』がわざと写さなかった石ころさんだったり、お馬さんだったりは、かろうじてだけど絵に見えると思う」
「『ミツバお姉ちゃん』ね」
「ミツバ『チ』お姉ちゃん」
……こだわりがあるのか、それ以上の訂正をさせられないみつばだ。
聞き入るしかないレインの咳払いで、みつばは続けた。
「セレッタ、ならこの視覚化前段階で取り出された情報を、魔法のからくりの中で、人が見て何もかもが描かれている絵に仕上げるには、このからくりに人が行う視覚化処理を無修正で行わせるのが適当なんだけど、まずこの視覚化処理について、わかる範囲で教えてくれる?」
「ミツバチの言う『しかくかしょり』は知らないけれど、お師匠から見えるまでに何が頭の中で起こっているかを一晩中喋っていたことがあるの。それでね、お師匠は左右の目から頭の中に入る時に2つの水桶を一つの瓶へ注いだ結果を頭の中の目が見たんだと頑なだったんだけど、私はそれじゃ足りないって思うんだ。私が思うに、世界を見るときには目に入って頭の中で再び見るところまでは間違いないけれど、その再び見るまでが単に一つの瓶の水で表すのが難しくて、目に写る中で、どこにどれぐらい遠いかを全部地図に記してから、動いているか止まっているのか正体は騎士さんなのかをいちいち当ててわかって、それから頭の中の目でやっと見ることになる。そんなことを1秒の間にいくらでも繰り返すのにいちいち全部を頭の中の目で見たら目を回すから、大事なものを真ん中にして捉え続けることにした。だからさっき言った写らないものがどうしたって出てきてしまう。ならそのからくりさんでそういう『しかくかしょり』をするのなら、繰り返し続けることを諦める代わりに、頭の中で地図を作るところを削ればいいのかな。でもそれだと、何を真ん中にして絵を描けばいいのかわからないから、絵にはなるけどぼやけちゃうよ??」
「その流れ、もっと細かく答えることって」
「ミツバ」
レインが止めてみつばはやっと気がつく。
手錠のままセレッタは大あくびをかいて、拘束椅子の鉄の背もたれに寄りかかってしまっている。
「この娘を監獄から出す。私かカインか勅命するから1日かかるぞ。問答の続きはそれからだ」
尋問室の分厚い鉄扉をレインが品なくバンバン叩くと、獄長自らが死刑囚の非礼を詫びる。
扉ではない獄長までも、レインがその頭を平手でバシバシ叩いている。
小さな娘を死刑囚として虐待していた憶測よりも、飛びすぎる問答に耐えかねてのただの八つ当たりだ。
セレッタのどこも見ない赤瞳のように、レインの琥珀瞳の奥では宇宙が広がってしまっている。
夕方の鐘の頃、新式写真機を受け取るキシリルが、その異様にさっそく気がつく。
「これ本当に新発売の新品か?」
「外板の漆塗りに斧刃を損ねたような跡がありますよ?」
大きなレンズをつけた箱をカインとハスエーの2人がこねくりまわすと、大小数々の傷だらけだ。
定時終業から駆けつけたケルディナール所長が、これの入手経緯を鑑みて推定する。
「おそらく聖王教団の騎士なりを撮影しそこねて、破壊処理も間に合わなかったのでしょうな」
「ということは、鹵獲品ですか?」
「発売まもなくて、そんな使い方してるったらこりゃ……」
この湿板式写真機は、石英レンズの人造目を自ら持っている。
つまり何があろうと撮影者の介在なく、ただ環境による撮影条件に左右される形で写真が成立してしまう。
――軍事において、正確な情報を示すことの出来る確実が保障されてしまった。
「ミツバの掘り下げが、正しかったか」
さすがのカインも三白眼を瞑り、目頭を指でつまんで堪えている。
影から書筒を受け取ったキシリルが、一応の調査報告を付け足す。
「シガン捕虜の件ですが、シガン外務卿、スピオーネル辺境伯の双方の正式回答として被害加害の人物や場所に該当なし。ただし、この撮影にはハルテラ商会の高品質印画紙が使われています。自害した撮影者の蘇生は失敗」
「目的はスピオーネル領の切り崩しじゃなくて、念写式写真と、それに基づいた記録の信頼破壊ですか……」
「オーラ側は、いつから欠陥を知っていたとみる」
3者の注視を浴び、数拍してケルディナールが答える。
「念写式写真の実用化は30年前。この新式の出来や発表時期を図ると……5年前には把握していないと、このような工作には出られないでしょうな」
「クソが。あの禿髭ジジイ。レインに好々とひっかかるどころか、はじめからひっかき返してやがった」
チェストに用意されたピッチャーをそのまま飲み干したカインが吠える。
「チェルベッカを総動員してミツバの開発を支援しろ。あと写真ギルドのメンツ全員に出頭命令」
「御意」
キシリル、ハスエー、ケルディナールが傅く頃には、6月半ばの半月は星空の最上まで昇っていた。




