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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第2章 それでも君は、取りもどすの
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 黄金の左目が、過ぎ去った風景を映していた。

 子どもの頃の僕と、イルシリアの過去を知るより前の先生がいる。

 先生の研究室。

 夜光虫に照らされた調度の輪郭が淡く滲んでいた。

 その中で、ふたりは向かい合っていた。

 先生は椅子の背に軽く身を預け、こちらを見ている。

 口元には、うっすら愉しむような気配がある。


 覚えている――


 そう思ったとき、リウレンの意識は目の前の子どもに重なっていた。

 己を見守る視線を、今度はその子どもの位置で受けている。


「ルールは二つ。いつも通りだ。分かるね?」


 僕はうなずいた。

 それは、先生が好んでいた遊びのひとつだった。


「お互いに題を出す。聞いたほうは、それについて思うことを述べる。内容は何でもいい。

 ただし、話す中に嘘をひとつだけ混ぜなければならない」


 先生はそこで言葉を切り、僕の顔を見て、理解できているかを確かめるように微笑んだ。


「では始めようか。

 そうだね、君から私にひとつ問うてみたまえ」


 僕は、胸の内であたためていた一語を差し出した。


「余白」


 先生はすぐには口を開かなかった。

 その沈黙が、かえって僕を緊張させた。


「余白には二種類ある」


 いくばくの間を置いてから聴こえた先生の声には、意図的に抑揚を殺した無機質さが感じられた。


「ひとつは、書き手が意図して残した空白だ。

 書けなかったのではない。書かなかった。

 読み手の視線をそこへ導き、自分の力で答えへ辿りつかせるための仕掛けだね。

 優れた書物には、必ずこれがある」


 先生は、机に開いたままの本へ指先を置いた。


「もうひとつは、書き手自身が見落とした空白だ。

 思考の死角に生まれた隙間、と言い換えてもいい。

 本人はすべてを書ききったつもりでいる。

 だが紙の上には、書かれなかった問いの痕が残る」


 僕はうなずきながら聞いていた。


「私が読みたいのは、後者だ」


 先生は顔を上げ、こちらを見た。


「書き手の見落とした隙間にこそ、その人間の本質が潜んでいる。

 余白を暴くことは暴力か、救済か。

 答えはまだ出ない。

 けれど、読まないという選択は、私にはない」


 僕はしばらく、先生が隠した嘘を探した。


「……最後のところです」


「ほう」


「先生は、読まないという選択は私にはない、と仰った。

 でも先生にも、自分では開かないと決めているページがあると思います」


「不正解だ」


 僕は面食らった。

 当たっていると思っていたのに。


「私は、自分で開かないと決めたページなど持っていない。

 読まないという選択が私にはないと言ったのは、本当だよ。

 たとえそれが、自分自身のものであっても」


「じゃあ、嘘は――」


「余白には二種類ある、と私は言っただろう」


 先生は、本の上から指を離した。


「嘘はそこだ。

 本当は、三つある」


 僕は黙った。


「三つ目は、書かれたあとに消された余白だ。

 消したのが書き手か、読み手のほかの誰かか、それは分からない。

 ただ、後者であるなら――それは読んだうえで、なかったことにするということだ。

 書き手の意図を、願いを、永遠に葬る。

 これがいちばん罪深い」


 先生の声は穏やかだった。


「先生は……それをしたことがあるんですか」


「いいや。まだない」


 先生は微笑んだ。


「まだ、ない」


 先生は同じ言葉をもう一度だけ繰り返し、それから話を次へ移した。


「では、私から。

 ――死について語りたまえ」


 僕は、あまり迷わなかった。

 独房の夜に、何度も何度も考えたことだったから。


「死は――」


 口を開いた途端、頬を何かが伝った。

 涙だった。

 なぜ泣いているのか分からなかった。

 この題については、もう考え尽くしたはずだった。

 怖くもない。悲しくもない。

 それなのに、涙だけが次から次へと溢れてくる。


 手の甲で拭おうとして、そこで止まった。


 手が大きい。

 子どもの手ではなかった。

 指は長く、手首にはまだ痛々しい痕が残っている。

 二重信仰の罪を受けた、自分の手だ。


 先生の部屋は、まだここにある。

 夜光虫の光も、積み上がった本も。

 けれど、見下ろした膝の高さが違った。


 僕はもう、大人になっている。


 幻視の中の先生は、変わらない姿で向かいに座っていた。

 深い皺と、黒い髪と、すべてを見通す目。

 この部屋にいた頃のまま、あの頃の先生のまま。

 子どもの僕は、もうどこにもいない。

 答えなければならないのは、今の僕だ。


「先生」


 声が、あの頃とは違う低さで響いた。


「独房にいた頃、僕には何も持ち物がなかった。

 あったのは、何冊かの本と、壁と、鍵の音だけでした。

 それでも僕は先生に出会って、外に出て、イルシリアと友だちになって……いろいろなものを手渡された。

 でもそのひとつひとつが何だったのか、その時の僕には分からなかった」


 先生は何も言わない。

 あの頃と同じように、辛抱強く、僕の言葉を待っている。


「彼女が最後に笑った時、僕は泣くことしかできなかった。

 泣きながら、彼女がくれたものの目録を、頭の中で必死にめくっていた。

 一緒に読んだ本のこと。

 星鳴の台で聞かせてくれた神話のこと。

 握ってくれた手の体温。

 全部覚えていた。

 でも、それが何だったのかは分からなかった」


 声が詰まった。


「今なら分かります。

 あれは僕がどれだけ本を読んでも解き明かせなかった秘密の答えだった。

 僕がずっと見つけられなかったものを、イルシリアはとっくに手渡してくれていた」


 涙が、顎を伝って足元へ落ちた。


「だけど、気づいたのは失ってからでした」


 拭っても拭っても涙が出た。

 大人の体で、あの頃のままの先生の前で泣いている。

 滑稽だと思った。

 けれどその思いとは別に、涙は勝手に流れ続ける。


「死とは……答え合わせのできなくなった秘密のことです。

 誰かと過ごした時間の中には、言葉にしなかった問いがいくつも埋まっている。

 相手がいるうちは、いつか口にできると思っている。

 明日でも、来年でも、もっと先でも。

 でも、その人がいなくなると、問いだけが残る。

 答えはもう確かめようがない。

 秘密のまま、永遠に閉じられる。

 書き換えることも、別の答えを夢見ることもできない。

 それが、死です」


 先生は長いこと黙っていた。

 この先生が過去の影でしかないことを、大人の僕は知っている。

 だから、今の僕が発した言葉に自然な答えをすることはできないはずだ。


「嘘は」


 先生が、ようやく口を開いた。


「ないね」


「……はい」


「ルール違反だ」


「はい」


 この流れは、僕の記憶にあるものと変わらない。

 けれど。


「いいや」


 先生は立ち上がった。


「見つけたよ、嘘を」


 そして、しゃがむのではなく――大人になった僕と、同じ高さで向き合った。

 先生の瞳に映っている僕だけは、子どものままだった。

 それなのに、その言葉は、まるで今の僕に答えるように返ってきた。


「君はいま、『別の答えを夢見ることもできない』と言ったね。

 そこが嘘だ。

 夢見ることをやめた人間は、そんなふうには泣かない」


 どうしてだろう。

 過ぎた日の残影でしかないはずなのに。


「書き換えられないと知りながら、なお別の形を望んでいる。

 取り戻せないと知りながら、なお手を伸ばしている。

 だから君は泣いている。

 すべてを諦めた人間は、もっと巧く黙る。

 君はまだ、そこまで行っていない。

 違うかね?」


 僕は答えられなかった。

 涙は止まらないのに、その言葉を否定することもできなかった。


「なら、泣きながらでも構わない。

 それを埋めなさい」


 先生の声は落ち着いていた。


「失ったものを、なかったことにするためではない。

 痛みを見えない場所へ追いやるためでもない。

 もしまだ二人だけの大切な秘密があるのならば、それを君の足元に埋めなさい」


 僕は、涙で歪んだ視界の中で先生を見つめた。


「秘密は、手元に置いておくものだと思っていました」


「子どもはそう思うだろう」


 先生は言った。


「だが本当に大事なものは、抱えて歩けば重すぎる。

 失えば追いすがりたくなる。

 答え合わせができないからこそ、解き明かしたくなる。

 だから埋めなければならない。

 失われたものを、自分が立つ場所に変えるために」


 先生が窓へ向かって歩き出す。

 追いかけようとして、追いかけられない。


 その時、先生の脇を、小さな影が駆け抜けていった。


 子どもの僕だった。

 あの頃のままの、背の低い、痩せた子ども。

 先生を追うのではない。


 夜光虫の光が滲み、部屋の輪郭がくずれる。

 気づけば幼い僕は、居住小塔の私室の扉の前に立っている。

 左手に、何かを抱えている。

 右手で扉を押し開けると、そのまま部屋の隅へ走っていく。


 机の脇。

 夜光虫の灯りが届きにくい、床板の継ぎ目のそば。

 子どもの僕はそこで膝をつき、指先で床に触れた。


 抱えていたものが、光を帯びて三日月の形を成す。

 掌に収まるほど小さいのに、見誤りようもない。

 それは地に落ちて瞳を閉じたレイジュール――あの赦しの星の欠片だった。

 子どもの僕は、それをためらいなく床下へ押し入れる。

 誰にも見つからないように。

 けれど、自分だけは二度と忘れないように。


 泉のほとりで、大人のリウレンは左目を押さえた。

 涙は、もうなかった。


 己の言葉を待つ同行者たちにリウレンは告げる。


「左目の黄金、これが本来の僕の目の色。

 それを誰かが魔法で覆い隠した。

 そういうことですね?

 レプカさん……シェランさん」


 結論だけを感傷なく言い置いて、呼んだ順に二人へ目を向ける。


 レプカはリウレンを見つめ返すだけで、声を発さない。

 だが、シェランは深く息を吐いた。

 長いあいだ、誰にも言わずに抱えてきた重石を、ようやく下ろすように。


「……ああ。

 先代塔主――ルノーシャ・ヴェイレム。

 彼女がおまえの黄金の視力を封じた。

 そして今も塔で眠りについている」

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