余燼の巫女
「ははは……っ、はっはっはっはっはっは!」
ガルジズだった。
土と血にまみれたままの男が哄笑している。
笑いながら、憑りつかれたように震える手でリウレンの左右の目を指さしている。
ハシバミ色の右目と、黄金に染まった左目。
その色の違いを認めた途端、ガルジズはついに堪えきれなくなったように地面を叩いた。
「そういうことかよ……!
ああ、巫女、お前はこれを知ってたんだなぁ!」
その声に、まだ呆然としていた皆の視線が集まる。
アゼルが眉を寄せる。
シェランが剣を支えに立ち上がり、無言でガルジズと巫女の間へ半歩出ようとする。
だが、ガルジズはもう戦う気配を見せなかった。
笑いをようやく収めると、男は泉のほとりの一行をぐるりと見渡した。
セレナはまだ地に片手をついたまま、荒い呼吸を整えている。
アゼルの脇腹の裂傷は塞がったとはいえ、血の跡までは消えていない。
騎士たちは互いの無事を確かめるように視線を交わし、レプカはまだ記憶の接続がうまくいかないのか眉を寄せている。
ヤタナギは翼をたたみ、なお主のすぐそばを離れない。
その光景すべてを見て、ガルジズは口角をつり上げる。
「俺らは引き上げるぜ、邪魔して悪かったなぁ。
行くぞ、巫女」
白い外套の小さな影は、すぐには動かなかった。
「待って」
初めて、余燼の巫女が声を発した。
細い声だった。
少女のようにも聞こえる。
けれどその一語の奥には、年齢では測れない長い時間が沈んでいた。
暗い場所で、誰にも触れられないまま、ただ燃え残ってきたものだけが持つ翳り。
ガルジズが肩越しに振り返る。
「もういいだろう、巫女。
お前の言った通りになったじゃねぇか。
あとは戻って――」
巫女が、ゆっくりと顔を向けた。
フードの奥から、焦げつく顔がガルジズを見据える。
「ひい……こっちを見るなよぉ」
大げさに肩をすくめて後ずさる。
「分かった、分かったよ。
じゃあさっさと用事をすませろ」
巫女は小さく頷いた。
それから、茫然としていたリウレンのほうへ歩いてくる。
九輪草の焼け跡を、ためらいなく踏みしめて。
誰も動けなかった。
シェランは剣を構えようとして、すぐには足が出ない。
灰の竜の祝福で火傷や切り傷は癒されたが、いまだ疲労は色濃く残っている。
セレナだけが、掠れた声で「先生」と呼んだ。
アゼルは白い影を見つめたまま凍りついている。
巫女は、リウレンの前で止まった。
「初めまして、リウレン先生」
リウレンは顔を上げる。
右目の中で、巫女の顔が燃えた。
初めてフードを外した彼女を見たときと同じだ。
蝋燭の火に炙られた紙のように、顔の輪郭が黒く崩れ、焼け、何度瞬きをしても像を結ばない。
見ようとするほど、視界の中心だけが焦げていく。
けれど、黄金に染まった左目は巫女の顔を捉えている。
右目が映す炎と重なるように、ひとりの女の顔がある。
青ざめるほど白い肌。
少し痩せた頬。
長い孤独がそのまま刻まれたような目元。
そして、見覚えのある骨格。
リウレンは息を呑んだ。
初めて見る顔のはずだった。
だが左目がその輪郭を受け取った瞬間から、推論は止められなかった。
目と鼻と口の配置。
頬の稜線。
顎の細さ。
その素描を頭の中でなぞり、時間を逆回転させるように少しずつ若返らせていく。
二十代の顔を十代へ。
十代を少女へ。
ある一点で、その顔がぴたりと重なった。
リウレンの知る、ひとつの顔と。
唇が震える。
「イルシリア……?」
巫女は頷いた。
「そう、イルシリア」
巫女は間髪を入れずに継ぐ。
「でも、君のイルシリアじゃない」
リウレンの鼓動が跳ね上がった。
遠い日のイルシリアの声がよみがえる。
(きみのいるこの正しい未来には、
まだきみのことを知らない、もう一人のわたしがいるにちがいないよ。
だから――わたしたちは、きっとまた会える)
リウレンは何も言えなかった。
イルシリアは、最初から答えを教えてくれていた。
なのに僕は、いつかその時が来ることに一切の準備をしていなかった。
巫女は続けた。
「君のイルシリアが、この世界に落ちてきた日から、私の悪夢が始まったの」
淡々とした声だった。
感情を殺しているのではなく、何度も何度も反芻した末に、もう熱を失ってしまった声。
「誰もが私を忘れ始める。
近くにいても、私に気づかなくなる。
時間が経つほどに、酷くなっていった。
いまのように、私に目を向けるだけで目を焼かれたように錯覚する。
誰も私の顔を見ることができないの」
推論は、リウレンの内面の声を無視し冷酷に組み上がっていく。
(同じ存在が同時に現れたことで、本来のイルシリアがこの世界から拒絶された。
塔のイルシリアは僕との結びつきでこの世界に存在の根を下ろし……
逆にこの子の存在は薄れゆき――余燼の巫女となった)
彼女を見るとき燃えていたのは、僕らの視界ではない。
それは奪われ続けた彼女の存在そのものの炎。
「君たちの様子を、私は悪夢のなかでずっと見ていた。
夢だけじゃないよ。
起きているときですら、白昼夢で君たちの暮らしが見えた」
巫女の声が、ほんの少しだけ揺らいだ。
「君たちは、楽しそうに笑ってた。
一緒に勉強して、子どもの世界を一緒に冒険してた」
沈黙。
その沈黙を縫うように青い蝶が舞う。
巫女が手を伸ばすと、その掌に蝶が止まった。
余燼の巫女が微笑むと、蝶は薄青いもやとなり空気に溶けこんでいった。
そしてその白い手をまた外套の裾に隠す。
「私は孤児で、物乞いや掏摸でその日暮らしをしていたの。
だから、誰も私のことに気づかなくなってからは、盗みの仕事が捗るようになった。
そのことには感謝してる」
淡い自嘲。
だがその直後、巫女の声が低く沈んだ。
「でもね。
とても悲しかった」
リウレンは、一言も挟めない。
「私と同じ顔の子が、同じ年頃の男の子と仲良くしている。
私はそれを夢に見る。
そして目を覚ますと、私は次に忍び込む家を探しているの」
九輪草の上を、風が渡った。
踏み荒らされた花弁が、泉の水面に散っている。
「でも事件が起きた。
君が知っている通りの」
知っている。
ヴァルゼル・トゥアの不可能証明。
イルシリアが世界から消された、あの日のことだ。
「あの子は消え、私は残った。
それでも誰も、私を見ることも、見つけることもできなかった」
巫女がちらりとガルジズのほうに視線を向ける。
「それから長い時間が経って、この人が私を見つけた」
ガルジズは黙って腕を組んでいた。
その顔からは、いつもの嗜虐的な笑みが消えている。
「私はこの人たちの仲間に加わり、いろいろなことを学んだ。
君たちの塔のこと。世界の秘密。たくさんのことを」
そこで巫女は言葉を切り、リウレンの顔を見据えた。
「ねえ、先生」
その呼びかけが、リウレンの胸を抉った。
先生。
かつてリウレンが、ヴァルゼル・トゥアをそう呼んだ。
そしてイルシリアと同じ顔をした女性が、同じ言葉でリウレンを呼ぶ。
「君は、君のイルシリアを取り戻そうとしている。
どういう方法でかはまだ、君にも分からないのだと思う。
でも、私には分かる。
君はいずれ、その方法を見つける」
悪夢と白昼夢を通じて、リウレンという人間を見続けてきた者の観察。
そして巫女として覗き見たという世界の秘密。
その二つが、声に確信を与えていた。
「でもね、その時、私はどうなっちゃうのかな?」
恐ろしい問いだった。
ヴァルゼル・トゥアの証明の抜け道を探し、世界の法則を何らかの形で書き換える。
あるいはリウレンが持つ黒い球体に何らかの作用を加える。
摂理を裏側から迂回する、そんな善ならざる思考実験をしたことがなかったとは言えない。
だがその思考のどこにも、目の前の女性の存在は組み込まれていなかった。
リウレンは、絞り出すように言う。
「君は――君の存在は、最初からなかったことになるのかもしれない」
慰めも、嘘もその問いは許してはくれなかった。
自分の口から出た言葉が、別の誰かの声と重なる。
(彼女は――彼女の存在は、最初からなかったことになるのかもしれないね)
かつてヴァルゼル・トゥアがリウレンに渡した通告。
あのとき師が口にした宣言を、今度は弟子が、同じ構造の悲劇の中で繰り返している。
余燼の巫女は頷いた。
動じる様子はなかった。
とうに覚悟していたのだろう。
あるいは、その答えを確かめるために、ここまで来たのかもしれなかった。
「じゃあね、これが、最後の質問」
だがついに、これまでの平坦な語調が崩れ、弱々しく、途切れがちになる。
余燼の巫女の目は潤み、鼻声が語尾に混ざった。
「それでも君は、君のイルシリアを取り戻すの?」
リウレンは、深い絶望のなかですべてを理解した。
(これが、魔法の正体だ)
願いを掠め取る力。
その代償は行使者の未来。
かつて講義で生徒たちに語ったあの言葉の意味を、自分は何ひとつ分かっていなかったのかもしれない。
リウレンは、あるひとつの選択をする自分がどうしても想像できなかった。
影なき灰の竜を召喚したことで僕が失った未来。
巫女が僕を死角から襲い、アゼルがそれを庇って死ぬ。
その未来に繋がる選択を、僕は取ることができない。
それはもう僕の左目の奥で砕け散った。
それが僕が支払った代価なのだ。
全身が震える。
歯の根が合わない。
涙がリウレンの頬を伝った。
「僕は……君を消せない」
ハシバミ色の右目のなかで、巫女の顔が燃え続けている。
黄金の左目のなかで、イルシリアと同じ顔が、リウレンの答えを待っている。
左右の目から流れる涙は同じ色なのに、見えている世界は全く違う。
もう二度と。
どんなに曖昧で儚い存在であっても、存在を否定されるようなことはさせない。
「……そう、誓ったから」
「……ありがとう、先生」
巫女は踵を返した。
ガルジズが、じゃあな、とでも言うように片手をリウレンたちに向けて軽く振る。
背を向けた二人の姿が、森の暗がりへ遠ざかっていく。
その光景に重なるように、黄金の左目が別のものを映し始めた。
小さな影。
白い外套ではない。
余燼の巫女よりもずっと幼い姿。
空を指さしている。
その子の口が動く。
次にくる言葉を、僕は知っている。
(ねえ、知ってる?
レイジュールはね……)
リウレンは巫女の背中に向けて手を伸ばす。
だが彼が追いかけているのは、左目に映るその少女の残影だった。
触れられない。
続きの言葉も聞こえない。
黄金の左目が映すのは、失われた者たちの世界だ。
二度と取り戻すことのできない、あたたかな記憶の残光。
伸ばした手が、力なく下がる。
リウレンは泉のほとりに立ち尽くしていた。




