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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第2章 それでも君は、取りもどすの
25/28

鏡面の鹿

 空が堕ちた。


 そうとしか表現できなかった。


 頭上の大気が圧搾され、凄まじい風圧が泉の水面を叩き割る。

 水柱が上がり、九輪草が根こそぎ薙ぎ倒された。

 戦っていた者も、戦わせていた者も、等しく動きを止める。


 ヤタナギだった。


 頭部の漆黒から尾の純白へと流れる羽並みが、急降下の勢いに逆立っている。

 嵐域の暴風をも叩き伏せるあの翼が、泉の上空でただ一度、壁のように広がった。


 着地。


 地面が震える。

 鉤爪が土を深く抉り、泉のほとりに堆積していた泥と草が散る。

 ヤタナギは着地と同時に首を低く伸ばし、漆黒の嘴をレプカに向けて一声、鳴いた。


 空間そのものが軋む咆哮だった。


 レプカの鎖が空を走る。

 だがヤタナギの翼の一振りがそれを弾き返し、鎖ごとレプカの小柄な体を地面に叩きつけた。


 ネイルヴァが蹄を鳴らして聖鳥に突進する。

 枝角が黒ずんだ胸部に迫る。

 ヤタナギは首をひねって角を避け、反動でその巨体を旋回させた。

 尾羽が鞭のようにしなり、黒炎の鹿の胴を横殴りに打つ。

 ネイルヴァが甲高い悲鳴を上げ、九輪草の群生を掘り返しながら転がった。


 ガルジズが低く舌打ちし、距離を取る。

 その判断は速い。

 だが、それは余裕の表れではなかった。


 ヤタナギの黒い瞳には、この場のすべてが敵であるという本能に根差した烈しい怒りの震撼がある。


 聖鳥が三者を相手取っている隙に、アゼルが動いた。


「退きましょう」


 メイルレートの腕を取り、自ら肩を貸して引きずるようにしながら、泉のほとりへ向かう。

 他の三人の騎士もそれに続く。

 誰一人として無傷の者はいなかった。

 仮面のひとつが割れ、素顔の半分が泥と血に汚れている。

 別の一人は片腕を庇うように胸に抱えていた。


 シェランがセレナの背を押し、泉に向かわせる。

 セレナはまだ骨笛を握ったまま走った。

 衣服の胸元に鼻血の染みが広がっている。


 ヤタナギの背に隠れるように、一時の休息を得る。


 言葉が出ない。


 アゼル・リュゼインの豪奢な金髪は泥にまみれ、騎士の外套は裂け、シェランの双剣の片方は刃こぼれしている。

 メイルレートはアゼルの肩を借りてなお足を引きずり、冠蝕の騎士たちは互いに支え合うようにして歩いていた。


 そして、セレナ。


 この場で最も非力であるはずの教え子が、唇から顎にかけて乾いた血の跡を残しながら、それでもリウレンのそばまで駆け寄ってくる。


(みんな、傷だらけだ)


 喉の奥で何かが詰まる。


 さっきまで感じていたあの無力感が、再び足元から這い上がってくる。

 推論は剣にならないと、あのとき思い知った。

 そして今もなお、自分だけが何ひとつ傷を負っていない。

 何ひとつ為していないからだ。


   *   *   *


 ヤタナギは強かった。


 レプカの鎖を翼で弾き、ネイルヴァの突進を嘴で受け止め、ガルジズの間合いには巨体の旋回だけで踏み込ませない。

 三対一にもかかわらず、聖鳥が押している。


「巫女」


 呼びかけは短かった。


 余燼の巫女が、ゆっくりと歩き出す。

 戦場の端にいた白い外套の小さな影が、ヤタナギの視界に入る位置へと移動していく。


 リウレンの背筋が凍る。


(まずい――)


 ヤタナギの黒い瞳が、巫女の姿を捉えた。


 次の瞬間、聖鳥の動きが止まった。


 翼が痙攣するように震え、首が大きく仰け反る。

 ヤタナギの嘴から、それまでの咆哮とはまるで違う声が漏れた。


 悲鳴だった。


 甲高く、引き裂かれるような、苦痛の叫び。

 巫女の顔を見た者に起きる現象――視界の中心が焼け落ちるあの錯覚が、聖鳥をも襲っていた。

 人間よりもはるかに鋭い視力を持つがゆえに、その苦痛もまた人間の比ではないのだろう。

 ヤタナギは頭を振り、目を逸らそうとする。

 だが聖鳥の視野は広い。

 正面から外しても、巫女の白い影は視界の縁に残り続け、その隅からじわじわと灼熱が侵してくる。


 嘴を地面に打ちつけ、翼で己の頭を覆おうとする。


 その隙を、レプカは逃さなかった。


 うち伏せられていたはずの小柄な体が跳ね起きる。

 鎖が唸りを上げて伸び、ヤタナギの右の腿に巻きつく。

 もう一条が、後頸を回って絡みつく。


 鎖のレプカ。

 定めた獲物を決して逃さない捕捉者。

 ガルジズがレプカに仕掛けた異端の魔法は、被術者の本質をその者の手に呪われた得物として生み出す。


 墨鎖の重さに引かれ、ヤタナギが膝をつくように身を沈める。

 悲鳴がまた上がる。

 今度はそれは、ほとんど泣き声に近かった。


 そしてガルジズの視線が、泉のほとりに集まった一行を舐めるように這う。

 その目が、セレナの手の中にある骨笛を見つけた。


「おっと」


 ガルジズが弾かれたように走る。

 シェランが剣を構えるより早く、騎士の一人が前に出るより早く、ガルジズはセレナの眼前に踏み込んでいた。


 セレナは笛を握りしめたままあとずさる。


「大人しくなったところだ。

 またおっぱじめられちゃぁ、かなわない」


 伸びてきた手が、セレナの指のあいだから骨笛をもぎ取る。

 抗おうとした細い腕を、ガルジズは鬱陶しげに払った。

 次の瞬間、鈍い音がして、セレナの身体が九輪草の群生の中を転がった。

 鼻先から散った血が、白い花弁に痛々しく飛び散る。


「万策尽きたってことよなぁ!」


 勝ち誇った声が、燃え残りの匂いの中に響く。


 だが、その笑みは、次の瞬間わずかに歪んだ。


 ネイルヴァの様子が変わっていた。

 黒く塗り潰された神獣の毛並みが、なお黒いまま、鏡のような艶を帯びていた。

 夜を溶かして磨き上げたようなその毛皮の表面に、周囲の炎も、砕けた石も、血の筋も、歪んで映り込んでいる。

 黒炎の鹿は本質を奪われたまま、鏡面の獣という神話の概念だけを取り戻しつつある。


(同じ神話的な生物との闘争に敗北したことで、生命の危機が巫女の呪詛を深化させた……?)


 ガルジズと同じくしてネイルヴァの変貌に気が付いたリウレンが、無力と知りながらまた思考を走らせる。


 余燼の巫女が一歩前へ出た。

 白い指先がフードに触れ、その顔が露わになる。


 見た者の奥底を焼きつくすはずの、あの顔。


 けれどネイルヴァは怯まなかった。


 黒炎に塗り潰された毛並みは、痛みすらそのまま映し返すだけだ。

 巫女の死角は届いているはずなのに、それを上回る何かが、神獣の内側で暴れていた。


 そのとき、レプカの鎖に縛られたまま、ヤタナギが喉の底から悲鳴めいた怒声をあげた。

 ヤタナギの暗褐色の双眸に鋭い灼熱が宿る。


 それを見たリウレンは、まだ言葉にならぬ異常な不吉の感覚に半ば強いられるようにネイルヴァに首を向けた。


(アゼルを傷つけられたことへの、ほとんど災厄そのものの憤怒。

 そしてそれは……)


 その劫火が、ネイルヴァの鏡面に映る。


「だめだ!」


 続いて起こる出来事を瞬間的に脳裏に描いたリウレンの叫び。


 次の瞬間、ネイルヴァの黒い毛並みから炎が噴き上がった。


 「――な」


 ガルジズの顔から、笑みが消える。


 ネイルヴァが絶叫した。

 耳を塞ぎたくなるような悲鳴。


 黒炎は毛先からではなく、肉の内側から逆立つように燃え上がり、神獣は見境なく駆け出した。

 爪が草を根ごと掘り起こし、尾が木立が一打ちで手折る。

 触れたものすべてに火が走る。

 泉のほとりに咲き乱れていた九輪草が、たちまち赤黒い炎に呑まれていく。


 リウレンの思考が、軋みを上げながら回り始める。


 ――人の子は、レフネイアを燃やせない。


 それがこの森に受領された不可能証明だ。

 レフネイアの伝承と二重信仰の罰、そして森に残された痛みの記憶を繋いでようやく辿り着いた。


 だが、神話の時代から生きてきた獣ならどうだ。

 半神よりも前に、神々よりも先に森に棲んだ古代種がいないとは言い切れない。

 ならば、僕の証明は――


「おい、待て……そいつァ違う……!」


 暴走したネイルヴァの体当たりが、ガルジズの身体を横薙ぎに吹き飛ばした。

 背中を強く叩きつける形で地に落ちたガルジズは、呻き声だけを残してそのまま押し黙った。


 ネイルヴァは止まらない。

 その軌道を目で追って、はっとする。


 無秩序に暴れているように見えて、違う。

 枝を薙ぎ、石を砕き、人を巻き込みながら、それでもあの獣は、ある一点へ向かっている。


 こちらだ。


 リウレンのいる、泉のほとりへ。


「下がって!」


 冠蝕の騎士の一人が前に出る。

 黒炎をまとった影が突っ込んできて、騎士は身体ごと弾き飛ばされる。

 アゼルが身を翻し、剣圧で進路をずらそうとしたが、爪の一撃が脇腹を裂く。

 シェランが咄嗟にリウレンの前へ回り込み、降り注ぐ火の粉を身に受ける。


 一人、また一人と倒れていく。


 誰もが満身創痍だった。

 アゼルの頬には血が流れ、シェランの袖は焼け、騎士たちの外套は黒く焦げている。


 そしてついに、リウレンを庇う者がいなくなる。


 黒炎を引きずったネイルヴァが、正面から迫る。


 そのとき。


 遠くで倒れていたセレナが、焼けつく喉から声を絞り出した。


「この子は……っ、熱いって、叫んでます……!

 苦しいって、泣いてます……!」


 リウレンは息を呑む。

 ネイルヴァの目は、怒りに濁ってはいなかった。


 その眼を、僕は知っている。

 レフネイアの幻視の中で眠りに落ちた少女を運ぶ白い姿。

 鏡面の鹿は、落花のはじまったレフネイアに悲しそうに瞼を合わせた。

 そのとき僕は、レフネイアのすぐそばにいたのだ。

 これは襲撃ではない。

 この神獣は僕のところへ、辿りつこうとしている。


 ――助けを求めて。


 その理解とともに世界が反転した。


 視界が白くひび割れ、次の瞬間には、泉のほとりに立っていた。


   *   *   *


 レフネイアがいる。

 落花の前の半神の姿。

 明るい髪を風に揺らし、透き通るような指先で泉の水面を撫でている。


 だが、さっき見た幻視と違うことがあった。

 矮人種が建てた粗末な小屋の屋根に火が回っている。

 泉を取り囲む森にも炎が走り、木立が赤々と焼けていた。


「このままいけば、森は燃え、私は姿を消すでしょう」


 レフネイアは、燃え広がる森を振り返りもせずに言った。


「だけど、新しい証明を書いて君に渡す時間はない」


 リウレンは唇を噛む。


「……どうすれば」


 レフネイアが、こちらを見た。


「あの子から貰った言葉を」


「あの子……?」


「フィノリア」


 その名が落ちた瞬間、思考がきしんだ。

 何かの最後の欠片がどこかに当て嵌まり、推論がうなりを上げようとしたが、急激に回転を落としてゆく。

 このことを考えてはならないとでもいうように、見えない楔が脳の奥へ打ち込まれる。


 レフネイアは続ける。


「今から言うのは、古代から今なおこの星の空を巡る竜の名前。

 影のない灰の竜」


 炎が小屋の梁を食い破り、崩れ落ちる音がした。

 リウレンが聞いたその名は、丸太が燃える破裂音に紛れてゆく。


「その灰を浴びた者は、すべての病が癒える。

 かつて偉大な王が人に災いをなす竜をふたつに裂き、世界を祝福する存在として空に放った。

 灰の竜はその片割れ。

 あの竜を呼べば、あの子にかかった黒炎の呪いも、ここにいるみなさんの傷も、きっと」


 そして、レフネイアの伏せられた瞳が愁いに曇る。


「ですが、あなたは大きな代償を支払うことになる」


「もう……何も失うわけにはいかないんだ」


 レフネイアはしばらく何も言わなかった。

 やがてその傍らに、白い姿が現れる。


 雪のような毛並みの鹿。

 まだ角は若く、けれど立ち姿には森そのもののような気高さがあった。


 レフネイアはその鹿の首筋を、愛おしげに撫でる。


「私の代わりに森を守ってくれて、ありがとう」


 それから、彼女は囁いた。


「ユルカ」


 それは長い森の暮らしを共にした友の、本当の名前。


   *   *   *


 次の瞬間、幻視は砕けた。


 ネイルヴァが、現実の世界でひときわ大きな悲鳴をあげる。

 黒炎が跳ね、九輪草の花弁が燃え上がる。

 泉を囲む森の根元まで、炎の舌が這い寄っていた。


 リウレンは息を吸う。


 言葉を組み立てるのではない。

 証明を書くのでもない。

 セレナが、震える指で自分の手に渡してくれた、あの小さな魔法と同じ。

 ただの願い。


「影のない灰の竜イシュレイムをここに――レフネイア」


 リウレンのハシバミ色の瞳に、濃墨の一滴が落とされ広がってゆく。

 異端の魔法。

 二重信仰の罰が降ることはなかった。


   *   *   *


 風が変わる。

 リウレンは思わず顔を上げた。


 泉の上空を、巨大な何者かが横切っている。

 竜の腹だ。


 あまりに雄大で、その全貌は視界に収まりきらない。

 空そのものがうねっているように見える。

 その竜もまた、燃えていた。だがそれは黒炎ではない。

 燃えながら崩れず、焼けながら壊れず、ただ灰だけを生みつづける。

 祝福へと反転したかつての災厄の火だった。


 雪のように、灰が降る。

 ひとひら。

 ふたひら。

 その一片が、ネイルヴァの肩へ落ちた。

 黒炎に覆われた皮膚が、その部分から白へ戻っていく。


 もう一片が、裂けたアゼルの脇腹に触れる。

 血の色が薄れ、傷口が閉じる。

 シェランが、信じられないものを見る目で自分の手の甲を見つめる。

 倒れていた騎士たちも、焼け爛れた痛みから解放されたように息をついた。


 ネイルヴァの速度が落ちる。


 なお燃えながら、なお苦しみながら、それでも神獣は一心にリウレンの元へやってくる。

 もう周囲を焼き払おうとはしない。

 目の前まで辿りついた神獣が、小さく鳴く。


 今度は悲鳴ではない。

 かすれた、安堵の声だった。


 リウレンは震える手を伸ばす。


 幻視の中でレフネイアがそうしたように、白さを取り戻しつつある毛並みにそっと触れた。

 熱い。

 けれどもう、焼き殺す熱ではない。

 長く患っていたものが身体の外へ抜けていく、その最後の残り火の熱だ。


 神獣は目を閉じ、喉を鳴らした。


「ありがとう、ユルカ」


 この森をこんなにも長い間見守ってくれて。


 それはリウレンの言葉ではなかった。


 レフネイアに託された、ただ一言の手紙だった。


   *   *   *


 気づけば、レプカもその場に立ち尽くしていた。

 瞳を覆っていた濃墨は晴れ、彼は訝しげに自分の両手を見比べている。

 そこにあったはずのものがない、そのことを不思議がるように。


 ヤタナギは怒りを解き、傷だらけの翼をたたんで、アゼルの傍らへ身を寄せていた。


 誰もが、自分の身体を確かめるように見下ろす。

 傷が、塞がっている。


 空を巡る竜は、なお灰を降らせながら、ゆるやかに遠ざかっていく。

 

   *   *   *


 最初に異変へ気づいたのは、リウレン自身ではなかった。


「……先生?」


 セレナの声が、ひどく遠くから聞こえる。


 駆け寄ってくる気配がある。

 アゼルが何かを言っている。

 シェランが周囲を警戒しながら、なおリウレンへ手を伸ばそうとしている。

 けれど、それらすべてが、薄い皮膜の向こう側で起きていることのように曖昧だった。


 左の視界だけが、現実から半歩ずれている。

 泉の水面。

 焼け残った花。

 血の跡。

 そのひとつひとつの輪郭が、二重写しになる。


 まるで今見えている世界そのものが、薄い硝子でできていて、その向こう側にもう一枚、別の景色が重なっているみたいだった。


 リウレンがそう感じた刹那――


 世界から音が失せ、硝子の視界にひびが入った。

 そして光すらも奪われ、何も見えなくなる。

 やがて、ひびわれることで生まれた四つの断片が、それぞれに異なる映像をリウレンに仄見せる。


(これは……予知?)


 リウレンは人ごとのように思考を巡らせる。


 最初の断片が弱光を帯びる。

 セレナだ。

 見たこともない、巨大な部屋にいる。


 あまりにも広い。

 壁という壁には扉が並び、その数を一瞬で数えきれない。

 白い扉、黒い扉、飾りのない扉。

 無数の入り口が、円を描くように立ち並んでいる。


 セレナは、その中央でひとり立っていた。


 幼い横顔ではない。

 今より少しだけ大人びた顔つきで、それでも途方に暮れた子どものように、いくつもの扉を見上げている。

 その足元には銀灰の子猫。


 ――なんだ、これは。


 そう考えたはずなのに、推論が働かない。

 部屋の意味も、扉の意味も、なぜセレナがそこにいるのかも、何ひとつ繋がらないまま、その断片はまた闇に沈み、次の断片が微光に縁取られる。


 そこで見知らぬ女が泣いていた。


 黒髪。

 整った横顔。

 けれどその顔立ちは、どこか古い壁画の中の人物めいて、現実の人間よりも先に神話や伝承を思わせた。


 女は、誰かを抱きしめて泣いている。

 悲しみというよりは、謝罪だろうか。

 相手の顔は、焦点が合わずうまく見えない。

 二人の肩に雪が降り積もっている。


 また、次の断片。


 頬に火傷の痕の残る少女。

 そして逆光の中で少女を見つめる背の高い女。


 そして最後の断片が、闇のいちばん深いところから浮かび上がる。

 それは断片ではなかった。

 光景が動き、ある未来を映し出す。


 夜。

 どこかの回廊。

 灯りは少ない。

 石壁に揺れる影は細い。


 余燼の巫女がいる。

 白い指が闇の中から伸びる。

 その先にいるのは、自分だ。

 気づいていない。

 背後から迫る殺意に、まだ気づいていない。


 呼吸が止まる。


 次の瞬間、アゼルが振り向く。


 あの王は、何の迷いもなくリウレンの前へ身を投げ出した。

 白刃が閃く。

 深く、深く、アゼルの胸を貫く。


「――やめろ」


 声にならなかった。

 未来の光景の中で、アゼルの身体がぐらりと傾ぐ。

 血が噴き、床へ散る。

 彼はなお振り返ろうとしていた。

 リウレンを庇えたかどうか、それだけを確かめようとするみたいに。


 その顔が見える。

 王は笑っていた。

 弱々しい、安堵の微笑。


 そして、その笑顔を映し込んだ断片が割れる。


 左目の奥に激痛が走った。


 断片は砕け散り、その破片もまた砕かれてゆく。

 アゼルの姿が、巫女の腕が、血の色が、回廊の闇が、すべて最後には砂になって視界の底へ零れ落ちた。


「――ぁ」


 ようやく漏れた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。


 膝が揺らぐ。


 誰かが腕を掴んだ。

 たぶんアゼルだ。

 現実の、まだ死んでいないアゼル。


 そこに、別のものが重なって見えた。


 空気のなかに、淡い粒が浮いている。


 最初は灰だと思った。

 だが違う。

 もっと軽い。

 もっと曖昧で、光の具合によっては消えてしまいそうな、微かな輪郭。


 泉の縁に、小さな人影が座っているのが見える。

 

 子どもだ。

 けれど次の瞬間にはいない。


 焼けた木立のそばを、尾の長い獣が横切る。

 白いはずのない場所に、白い残像が差す。

 それも瞬きをするあいだに消える。


 レフネイアの泉の上には、数えきれないほどの微光が漂っていた。

 精霊にも見えるし、ただの残り火にも見える。

 だがそのどちらでもないと、左目だけが知っている。


 失われたものたちの痕跡。

 ここにはいないはずのもの。

 もう届かないもの。

 現実と少しだけ噛み合わなくなった世界の継ぎ目から、こぼれ落ちてきた残影。


 リウレンは息を詰めた。


 右目には見えない。

 左目だけが、それを見ている。


「先生、どうしたんですか……?」


 セレナの声が、今度ははっきり届いた。

 だが、どう説明すればいいのか分からない。

 不可能証明を通してレフネイアと接続したこと。

 神とも比肩し得る太古の存在の真名を授かり、異端の魔力でそれを召喚したこと。

 それでもなお、リウレンは落花しなかったこと。


 その代価が何なのか、リウレンは理屈を超えた領域で理解していた。


 日常の些事の中で人知れず埋もれてゆくようなものではない。

 何か、重大な未来が僕の中から失われたのだ。

 そして――


 視線を上げる。

 遠ざかっていく灰の竜は、もう見えない。

 ただ、その去った空の向こうに、無限に広がる星図の残滓のようなものが、左目の奥へ焼きついていた。


 今度は視線を下げる。


 泉の水面に映る自分の顔。

 レフネイアの異常に澄んだ水質が、落ちた左目の視力の分も補って、右目の鏡の絵を差し渡す。


 右はハシバミ色。

 魔法の余韻が去り、元々の色に戻ったのだろう。


 だが左は、ハシバミでも異端の魔力の濃墨でもない。

 白く冴えた薄い金の瞳。


 焚き火の夜、詰所でレプカは言った。


 あのときの貴様の目は、金色だった。

 ――魔力の淀みではない、ただ冷たく輝く黄金の瞳。


 振り返ると、泉のほとりに集まった全員が、左右の色の違うリウレンの目を見ていた。

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