緋銀のコイン
ガルジズは、なおも嗜虐の笑みを崩さなかった。
「冠蝕の騎士。
いいぜ、そういうの、嫌いじゃねえ。
――巫女」
余燼の巫女が、九輪草を踏んで一歩前に出る。
白い外套の裾から、病的なまでに白い手がのびた。
その掌に、ひとかけらの青がいる。
蝶だった。
ノイセアの光を受けて、その翅は薄い硝子のように透ける。
巫女の手から離れた蝶はひらひらと宙を渡り、レプカのそばまで来た。
レプカは一言も発さない。
ただ煩わしげに片手を払って、蝶をはたき落とそうとした。
だが蝶は、あまりに軽やかに、その指先を避けた。
次の瞬間、ノイセアの降光のなかで、見えなかったものが浮き上がる。
レプカの周囲に、無数の粒子が漂っていた。
蝶の鱗粉。
青白い燐光をまとったそれが、いつのまにか彼の肩へ、頬へ、睫毛へと降り積もっている。
レプカが低く呻いた。
そのまま顔を上げる。
蝶を見て、そしてその先に立つ巫女を見る。
「あああああああああ!」
絶叫が泉のほとりを引き裂く。
「始めるぜ、王の試練てやつをな!
そいつを縛る鎖を解き放て――ヴェイルズ!」
レプカが両手で顔を覆う。
指の隙間から覗く目に、濃墨を溶かしたような淀みが宿っていた。
――ヴェイルズ。
その名に、リウレンの眉が寄る。
ヴェイルズ塩湖。
この森の北東、塔から見れば北東方に位置する、青い蝶の産地として知られた土地の名だ。
だが今、ガルジズはそれを地名としてではなく神格かのように口にした。
「僭王アゼル・リュゼイン……」
レプカが呟く。
さっきまで目の前を舞っていた蝶は、もういない。
鱗粉のきらめきも、いつのまにか掻き消えていた。
けれど、その代わりにレプカの右手には、それまで何もなかったはずのものが握られている。
長い鎖。
重たい鉄の輪が九輪草を薙ぎ、花のあいだを這うように伸びていた。
「貴様を誅し、玉座を正しい主の元へ返す……!」
言うや否や、レプカが跳ぶ。
鎖が唸りをあげて伸び、アゼルの喉笛へと走った。
「いいぞ、小男!
そいつに王の資格があるのか、お前が試してやれ!」
リウレンは立ち尽くすしかなかった。
眼前で何が起きているのか、その仕組みだけなら追える。
だが、分かったところで何ひとつ止められない。
彼は学者だ。
迷宮探索のような危険な役回りをゼルに委ねてきたように、鍛えた身体も、とっさに飛びこむ胆力も持たない。
脳裏では、いくつもの推論が狂奔していた。
ガルジズの口にした詠唱めいた呼びかけ。
ヴェイルズ塩湖に産する青い蝶。
巫女が放った一匹。
鱗粉に包まれた直後、レプカの身に発現した変化。
手にする長尺の分銅鎖――
それには異端の魔力が現世に漏れ出たことを示す濃墨の薄い皮膜が纏わりついている。
おそらく、あの蝶の鱗粉は巫女の不可視を一時的に解き、レプカは巫女の顔を見た。
見てしまった。
そしてレプカは、リウレンの知識の範囲にない神格の名のもとに、他者へ発現してその精神を侵す異端の魔法を起動させられた。
見えざるものを視る、または、聞こえざるものを聴く。
異端の神格が坐す虚ろな世界からの呼びかけは、そういった形を取る。
少なくともリウレンの知る文献には、そう記されていた。
ゼルもそうだ。
あの夜――
僕が最後に見た黒衣の金猫による闇の薫陶が、ソルナの領域へと引き込む端緒となったはずだ。
そこまで考えてリウレンは歯噛みした。
推論は剣にならない。
今この場でどれだけ正しく仕組みを言い当てても、レプカの鎖を止める力にはならない。
王の救護へ動こうとしたメイルレートたちの前へ、ガルジズが躍り出て道を塞ぐ。
アゼルは冠蝕の騎士を呼んだ細剣で、そのままレプカと応戦していた。
その身のこなしは変わらず優美だが、隙をついて相手の胸を突き、首を掻き切ろうという気迫が見えない。
やがて王の額に汗が滲む。
押されている。
そこへセレナの叫びが飛ぶ。
「シェランさん!
陛下は、剣で人を斬れないんです!」
シェランの目が見開かれる。
だが、なぜセレナがそんなことを知っているのか聞きただす愚は犯さなかった。
次の瞬間には、彼女の身体が低く地を這っていた。
獣じみた身の運びでアゼルとレプカのあいだへ滑りこみ、右腰の長剣、左腰の短剣を同時に抜く。
アゼルを絡め取ろうとした鎖を、二振りの刃で十字に受け止めた。
凄まじい衝撃がシェランの両腕を痺れさせる。
それでも彼女は歯を食いしばり、視線だけでセレナを振り返った。
「セレナ、笛を!」
その言葉に何かを悟ったのだろう。
ガルジズが、弾かれたようにセレナへ駆けようとする。
だが、その前へメイルレートが割り込んだ。
「通さぬと言ったはずだが、背扉の賊」
「聞こえちゃいねえなぁ、そんなもの!」
軽口とは裏腹に、ガルジズの踏み込みは鋭い。
メイルレートもまた半歩も退かず、二人のあいだで火花のような殺気が飛散した。
その隙に、セレナは懐から骨笛を引き抜く。
(お願い……ヤタナギ……!)
祈るような思いで、吹く。
高い音が泉の上へ駆けあがり、晴れかけた空へ溶けていく。
だが――返事がない。
あの巨鳥が空を裂いて来る気配は、どこにもなかった。
「驚かせるじゃあねぇか」
ガルジズが、あからさまに安堵をにじませて笑う。
シェランと冠蝕の騎士の一人がアゼルを守り、他の騎士二人がセレナの前へ出る。
メイルレートはガルジズを食い止めている。
膠着状態。
だが均衡は脆い。
どこか一箇所でも崩れれば、すべてが一気に瓦解しかねない。
その全てを、リウレンは見ていることしかできない。
「じゃあ、こっちも奥の手ってやつを見せてやるかってなぁ!」
ガルジズが喉を鳴らすように笑った。
「来いよ――ネイルヴァ」
背後の森の細道から、細長い影が歩み出る。
枝分かれした角。
そのすぐ下、横へひらく大きな耳。
鹿だと分かる。
だが、ただの鹿ではなかった。
全身を覆う毛並みは黒い。
だが、ところどころ鬼火めいた炎が貼りついている。
燃えているのに、肉は焼け落ちない。
二重信仰の罰による爛れのような呪詛の痕跡。
「こいつはなぁ、俺たちが泉に近づいたときに出てきて、いきなり猛り狂ってきたんだ。
そのときは白かった。
雪みてぇに、真っ白によぉ」
ガルジズは愉快そうに続ける。
「それが、毛並みの色をちょくちょく変えやがる。
ときどき、周りの景色をそのまんま映して、鏡みてぇにもなってなぁ」
くく、と喉奥で笑う。
「おかげで俺と巫女は、いっとき見事にはぐれちまった。
こういうのを神話の獣って言うんだろうな。
だがよ――
こいつが鏡面を見せたとき、巫女がその見えねぇ顔で覗きこんだら、こうなっちまった。
元の名なんざ知らねぇ。
だから巫女がつけてやったのさ。
ネイルヴァ、ってなぁ」
そのあいだにも、レプカの鎖がまたアゼルへ走る。
シェランがそれを斬り払う。
鎖の軌跡に散った九輪草の花弁が、血のように舞う。
リウレンの呼吸が浅くなる。
(この獣は……)
幻視のなかで見た、レフネイアの唯一の友。
白く、ときに鏡面を帯びた鹿。
あの哀しい幻獣の面影が、黒炎をまとったこの獣の輪郭に重なった。
同じものだと断言はできない。
だが、もしそうなら。
巫女はレフネイアの森に残されていた神話の残滓に、己の呪いを上塗りしたことになる。
「こいつらごと燃やし尽くせ、ネイルヴァ!
火遊びの再開だ!」
甲高く尾を引く鹿の鳴き声が、耳の奥を裂いた。
次の瞬間、ネイルヴァが地を蹴る。
一直線に、メイルレートへ。
ガルジズはその進路から身を外し、自身は逆にアゼルとレプカの側へ踏み込んだ。
「アゼル・リュゼイン!
お前が本物なら見せてみろよ――力を!」
* * *
黒炎の鹿が地を踏むたび、九輪草が燃えた。
ネイルヴァは一直線にメイルレートへ突進する。
メイルレートが剣を構え、伸びきった枝角を狙って横薙ぎに払う。
だが刃は硬質な音を立てて弾かれた。
次の瞬間、鹿の頭突きがその長身を正面から打ち据える。
メイルレートの体が宙に浮き、草と泥の上へ叩きつけられた。
息が詰まる音がした。
彼は即座には起き上がれない。
そして、ネイルヴァの眼がアゼルを捉える。
仮面の男たちが一斉に王の前へ出る。
シェランは双剣を返し、鹿の側腹へ刃を入れようとするが、ネイルヴァは水面を滑るように身を捻り、すり抜ける。
目標は最初からただひとつだった。
王だ。
セレナは動けなかった。
メイルレートはまだ倒れたまま。
ネイルヴァの蹄が抉った土から炎が走り、九輪草の茎を這い上っていく。
白い花弁が縮れ、黒い灰へ変わる。
森が、少しずつまた燃え直していく。
そのとき、シェランがセレナのそばへ来た。
仮面の男たちが必死にアゼルの前を塞ぐ。
その一瞬の隙を使って、シェランはセレナの肩を掴んだ。
「セレナ」
低く、短い呼びかけだった。
「君に、心の声を聴く力があるのは知っている」
セレナは息を呑む。
だがすぐ、頷いた。
「怒りだ。
怒りの音を探してくれ」
セレナはシェランを見上げる。
「ヤタナギは、東方の危機を救ったアノジェア王への返礼として贈られた鳥だ。
陛下が――本物の王であるなら、あの鳥はいま、激しい怒りのさなかにいるはずだ。
君はその音の方角を見つけて、この場所を教えてやればいい」
迷いのない声だった。
だからセレナも、もう迷わない。
目を閉じる。
意識を広げる。
他者の心の気配は、セレナには呼吸のように届く。
だが今は、そのすべてが邪魔だった。
人の怯え。
焦り。
怒声。
祈り。
それらを一つずつ伏せていく。
泉の水音も、燃える草の爆ぜる音も、鹿が土を蹴る衝撃も、いったん遠ざける。
もっと遠く。
もっと先へ。
鼻の奥がつんと熱くなる。
何かが唇を伝った。
血だ、と分かった。
けれど、止めない。
(どこ……ヤタナギ)
鼻血が顎を濡らし、衣服へ落ちていく。
頭の芯が軋む。
そのとき、膝に存在の軽やかな重みを感じた。
ミラリスだ。
「にゃぁお」
その鳴き声が、セレナの熱をいくらか冷ました。
目を閉じたまま、ミラリスをひと撫でする。
遠くへ。
さらに遠くへ。
この森の外縁も、その向こうの風の層も越えて――
(いた!)
嵐の音がした。
それはただの羽音ではない。
荒れ狂う雲塊が身を捩るような、巨大な怒りの羽ばたき。
悲しみでも、恐怖でもない。
生国の恩人の裔を襲う輩への純粋な瞋恚。
ヤタナギだ。
そして、その怒りは捌け口を探している。
広大な森のある一点を拾い上げるのは、聖鳥が持つ人の数倍の視力をもってしても難しいのだ。
セレナはヤタナギの心音の居場所を正しく見出した。
南西。
セレナは目を開いた。
と同時に、ある記憶が鮮やかによみがえる。
塔を出たあの日、初めてヤタナギの背に乗ったときのこと。
シェランはあの聖鳥の名を、アノジェアの言葉ではない発音で、正確に呼んでいた。
セレナの耳は、一度聴いた音を忘れない。
「八咫凪――!」
叫び、南西へ向けて骨笛を吹く。
音が、矢のように晴れた空の奥へ飛んだ。
* * *
細剣が、レプカの鎖に絡め取られた。
引き戻す間もなく、剣ごと腕を持っていかれ、アゼルは体勢を崩す。
そこへ騎士の一人が身を投げこみ、王を庇いながら短剣で鎖を弾いた。
だが反動でその騎士も後退し、九輪草の群れを踏み荒らす。
「陛下、この剣を」
騎士の一人が、己の腰にある剣をアゼルへ手渡そうとする。
アゼルは空になった手を一瞥して肩をすくめる。
細剣を手放していたことに、その時気づいたのだ。
「気に入っていたのですが」
「呑気を仰る余裕がいつまで続くことやら」
地面から声が飛ぶ。
メイルレートだった。
まだ起き上がれないまま、それでも口だけは達者だ。
「起き上がれないのに随分よく喋りますね、メイルレート」
「不本意ながら我ら冠蝕の騎士、日頃より陛下の屁理屈のお相手をして居ります故」
アゼルは口元だけで笑う。
だがその眼差しは、すでに戦場全体を冷ややかに見ていた。
(整理しよう)
シェランがレプカを抑えている。
ネイルヴァは騎士たちが食い止めているが、長くはもたない。
ガルジズはまだ余力を残している。
メイルレートは倒れたまま。
セレナが何かをしようとしている。
リウレンは――
視線の端で、泉のほとりに立つ小柄な学者の姿が映る。
戦えるわけではない。
だが、あの人はいつも、他の者には見えない何かを見ている。
考える時間は、そこまでだった。
ネイルヴァが騎士の一人を弾き飛ばし、アゼルへ突っ込んでくる。
残る騎士たちが壁になるが、鹿の体当たりは重く、二人目も吹き飛んだ。
お前が本物なら見せてみろよ――
ガルジズの挑発を思い出す。
(貴方の命を奪うだけなら……容易いのですが)
アゼルは後退しながら、己の内側で何かが目を覚ますのを感じた。
「闇の中を歩く者――」
その声は、まるで他人のもののように聞こえた。
剣はない。
護衛は削られる。
このまま時が流れれば、守るべきものがひとつずつ減る。
半ば無意識に、アゼルの唇が返しの句を継いだ。
「――花冠の影法師を追う」
周囲の輪郭が滲みはじめる。
騎士たちの姿が、レプカの鎖が、燃えかけた九輪草が、どこか遠いものになっていく。
その朧げな視野の中心に、ひとつの顔が浮かび上がった。
自分だ。
鏡に映したような、もう一人のアゼル。
顔立ちは同じなのに、眉も目も口元もすべてが鋭い。
慈悲や逡巡を削ぎ落とした別の顔。
「地に落ちし花弁の嘆き――」
酷薄なアゼルが、先に詠う。
「――時遡り枝へ還す」
現実のアゼルが、かすれた声で下の句を返す。
(使えば終わる)
もう一人の自分が言う。
(この場にいる者を巻き込まずにあれを放つのは無理だろう。
それでも、使えば終わる)
「空に咲く泡沫の花は――」
「――いまだ名なき夜の祈り」
分かっている。
この魔法を使えば、レプカも、騎士も、もしかするとリウレンもセレナも犠牲となる。
それでも選択肢が削られるたび、追いつめられてゆく。
「忘れえぬ万象のしじまよ」
もう一人のアゼルが囁く。
(使えばいい)
アゼルは答えない。
(誰かが死ぬかもしれない。
だがおまえは王だ。
生きることの価値は、誰より重い。
おまえは、落花しない。
使わずにいる謂れもない。
そうだろう、アゼル)
レプカの鎖がシェランの足を払う。
シェランが片膝をついた。
冠蝕の騎士がネイルヴァの枝角を受けて宙を舞う。
間延びした時間の中で、アゼルは誰に向けたのでもない問いを紡ぐ。
(王、なんでしょうかね私は)
ガルジズと名乗った背扉の民。
お前のコインを見せてみろという告発をアゼルは一笑に付した。
けれど真実は遠くない。
どこから嗅ぎつけたのか。
それとも――あの巫女の仕業か。
思えば、妙なことばかりだ。
ガルジズがそう言い、リウレンたちも同じような仕草をした。
彼らには見えないらしい。
だが私には、余燼の巫女の顔が見えた。
そして、コインはある。
その点に嘘はない。
だが、それはもう――割れた。
緋銀。
その色はこの世界のいかなる鉱石、花、海や空、倒木の裏に潜む虫、嵐域の飛び魚の鱗、そのいずれにも似つかぬ稀な輝きと艶を持つ。
ありえざる色だと誰もが言った。
この色の下に生まれた王の治世がどんなものになるか、どんな歴史家も流浪の占卜民も語りえぬと。
そのコインは、今はもう割れ、ただの力なき破片となっている。
コインが割れた瞬間の、その光景をアゼルの目が遠い過去に覗き込もうとした、その刹那。
アゼルの目から正気の光が抜け落ちる。
唇が綻ぶ。
「咲――」
最後の結び。
そのとき、草を擦る音がした。
「陛下」
メイルレートだった。
泥にまみれたまま両腕だけで這い、アゼルの足首を掴んでいた。
仮面は半ば剥がれ、代わりに流血が頬を隠す。
それでも、その目は爛と輝き王を射抜いていた。
「……メイルレート」
「駄目です」
短い。
だが、それで足りた。
開きかけた唇を閉じる。
抜けかけた何かが、ゆっくりと身体へ戻ってくる。
視界の焦点が、泉のほとりへ、燃える九輪草へ、泥に伏した臣下へと戻っていく。
そして、そのとき――
上空から、何かが来た。




