到達者
「うそ……」
セレナが驚きの声を漏らす。
アゼル・リュゼインはセレナにひとつ目礼を返すと、つづいてリウレンのほうを向いた。
「お会いしたかった、先生」
根拠はない。
だが、その言葉には真実の響きがあった。
なにかを堪えるような震え。
王が――なぜ?
そして、先ほどの言葉が引っかかる。
(……ある方から、聞き及んでいた)
ある方。
推論の歯車が、脳裏のどこかで回転を始める音を、リウレンは確かに聞いた。
(塔主を超えて、王と直接会話をする?
それは無理だ。
塔の住人は――今回のような特例がない限り、塔を出ることを許されない。
終理を達し、塔を去る者はいる。
だが、そのときは塔をあげて送り出す。
ロエル先生のときが、僕の記憶では最後だ。
けど……)
リウレンは、ゼルとの会話を思い出す。
(あの男は現れた。
戦場の空に、己の優雅な顔と上半身を、途方もなく巨大な旗に描かれた肖像画のように、くっきりと映し出して――)
目の前の、この虫も殺さぬような、ただただ無力で美しいだけに見える男ならば。
坐したまま塔の人間とつながりを持つことも、あるいは可能なのかもしれない。
むろん、何かしらの制約はあるのだろうが。
そして、もうひとつ。
王命終理。
王からの命題は、どうやって塔へ届く?
塔主シェラン・ナージュの執務室にも、リウレンは何度か顔を出したことがある。
彼女の性格通り、無駄な物や華美な装飾品のない、実務的な部屋だった。
王と通じるための、迷宮の遺物めいた道具があるとすれば、それは。
七階。
塔の学者でも、ごく限られた貢献をなした者だけが辿りつく場所。
「さすがです、リウレン先生」
ハシバミ色の目に紗を落として沈思していたリウレンへ、王が一歩近づく。
「私の言葉の断片と、ご自身が見てこられた景色。
それだけで、おおよその真実の姿を再現してしまう」
小柄なリウレンと比べれば、王は頭ひとつ分は背が高い。
そのアゼルが、やや腰をかがめて囁いた。
「ええ、先生。
貴方のご推察の通りです。
あなたの素質を私に教えてくださった方――
それは、今この時点における禁学の塔第七階、唯一の到達者」
そして重大な秘密を打ち明けるような小声で告げる。
「ヴァルゼル・トゥア」
予期していたその名を、リウレンは唾と共に飲み込んだ。
セレナが隣で、はっと息を吸う。
シェランは何も言わない。
王はシェランたちの前をゆっくりと歩きながら、謳うように語りはじめた。
「あの方が語る未来には、空想で終わらないだけの理論の裏付けがありました。
ノースウェル=ガザルの鉱石から生みだした力を別の装置に蓄える。
装置から取り出した力で、時計のような小型の機械を魔法や遺物に頼らず動かす。
国中の夜光虫を解放して、夜の作業を楽にできる人工的な明かりを民が手にする。
嵐の東風を受けて羽根を回す機械――それをあの方は嵐輪と呼んでいましたが――をセリナ平原に建て、動力源とする。
その力を世界中の地下に張り巡らせた特殊な導管で、アノジェアの主要な都市へ送る。
オル=イェ族の磁記回廊と協力して、空を浮かぶ船を造る。
南方大陸からの脅威を物理的に排除する遠大な壁を西と南の沿岸に建てる。
嵐域とその壁に守られアノジェアは安眠の地となるでしょう。
そして最後に――ノイセアなき夜を昼に変える、と。
その一節だけは、私にも意味を判じかねましたが」
泉のまわりには、まだレフネイアの青い残光が漂っている。
その神秘のただなかで語られる未来像は、あまりにも世俗的で、あまりにも巨大だった。
鉱石が力を蓄え、導管を通じてそれが解き放たれる――そうした個々の原理なら、リウレンにも分かる。
だがトゥアは、それらを知識として知っているのではない。
組み合わせ、繋ぎ替え、世界そのものの形を変えようとしている。
リウレンは一瞬、自分がどこに立っているのか分からなくなりそうになる。
「そして、あの方はこうも言っておられました。
レジグナ。エイユト。リサネル。ニレイエル。
この四柱の神話は、我々が見るこの世界の現象と深いところで通じ合っている。
だが、エルイル――この神だけが、その存在根拠を神話にしか持たない。
魔法。
そして落花。
我々に大きな代償を強いるこの力は、一体なにに根差しているのか、と。
ですが、それすら些細なことだと、あの方は断言するのです。
我らはいずれ、神なき黄昏の世界の住人となる、と。
でもね、先生」
王がふと足を止める。
「私はこうも思うのですよ。
あの方の思い描く美しい世界ですら、結局は――
人の願いを奪うことでしか己の命を繋げない、救いのない絶望の螺旋階段にすぎないのではないか、と」
アノジェア王アゼル・リュゼイン――
この名について、リウレンは幾度も耳にしてきた。
白亜の城の中での出来事が、すべて塔に伝わるわけではない。
だが、漏れ伝わる話の多くは、この男を美しいだけで意思を持たぬ飾り物、元老院の傀儡に過ぎないと断じていた。
目の前の男は、本当に同じ王なのか?
リウレンは、衝撃とともに自問する。
頭脳が軋みをあげる。
学者でもないこの人間が、ヴァルゼル・トゥアの深奥に触れながら、それを荒唐無稽と退けず受け入れている。
そしてその末路についても、何かしらの直観がある。
魔法の代償は忌避され、詠唱による神格存続の仕掛けはやがて機能不全に陥る。
神は消え、祈りなき世界が幕を開ける。
だが人の業は変わらず、別の名で同じ争いが繰り返されるだけなのかもしれない。
願いや祈りの代わりに人は、価値を増した鉱脈と、新たな機械のための土地を奪いあう。
その論理的帰結に、この男は僕のような知識と推論の果てではなく、ヴァルゼル・トゥアとの対話の中で辿り着いていた。
「もちろん……それをあの方も認識している、と私は思います。
だからこそ、あの方は言ったのです。
いずれ私は、かつて私の最高の生徒だったリウレン・ルゼリアに屈する、と」
王がリウレンを直視する。
「先生。
あの方は待っています。
貴方が第七階に辿り着く、その日を」
心臓が、ひどく近くで鳴った気がした。
そのとき――
「へえ、凄いやつがいるもんだなぁ!
ヴァルゼル・トゥアかぁ。
だが壁のくだりは、ちょびぃっとだけ困っちまう。
覚えとくぜ、王さま」
粗野な声が割って入った。
そのとき初めて、この場の全員が闖入者の接近を知った。
――シェランやレプカのような歴戦の者でさえ、アゼルが語る禁忌めいた未来像に意識を引かれていたのだ。
その間隙をついて、闖入者はいつのまにか間合いの内へ入り込んでいた。
「俺たちにも紹介してほしいくらいだぜ。なぁ――巫女」
言葉の切れ目ごとに、相手が感じる嫌悪を味わうような、ねばつく間がある。
「邪魔してわるいねぇ、おふたりさん」
視界の端で、シェランがセレナを庇うように前へ出た。
レプカもまた、いつでも動けるよう身構える。
「じゃあ俺たちも、この王さまを真似して自己紹介してやろうかなぁ!」
だが男は、警戒を嘲笑うだけだった。
「俺はぁ、ガルジズ・ナイヴス。
分かりやすく言やぁ、この火遊びの張本人さ」
外套の胸元の留め具を、男は荒っぽく引きちぎる。
それを王の足元へ放る。
アゼルは拾い上げ、一瞥した。
「……背扉の民」
「正解っ!てなぁ」
男は歯を見せて笑う。
「で、こっちの女。
こいつは、余燼の巫女。俺らはそう呼んでる。
お前らの言葉で言えば、教主さま、みたいなもんだなぁ!」
そこで初めて、ガルジズは巫女のほうへ半歩だけ身を引いた。
戯けた口調はそのままなのに、その仕草だけが妙に慎重だった。
ふざけているようでいて、触れてはならないものの境界だけは知っている――そんな気配がある。
ガルジズが己の右わきに手を広げてみせる。
「こいつの言葉は、灰になった連中のぶんまで重てぇ。
だから俺たちは従う。
――たとえ、次に燃えるのが自分でもなぁ」
白い外套。
深くかぶった白いフード。
小柄な女が、そこにいた。
余燼の巫女は、ゆっくりとフードを外す。
そして、その顔は――
「……っ!」
リウレンがその顔に目を向けた瞬間、視界の中心が黒ずんでいく。
巫女の顔が、蝋燭の火に炙られた紙のように燃え落ちる。
目が、焼けるように熱い。
リウレンは反射的に目を閉じ、瞼を細く開ける。
その視界の先で、やはりその顔は黒く崩れてゆく。
同じことの繰り返しだった。
シェランやセレナも、同じ錯覚に襲われたのか、眉を寄せ、何度も瞬きを繰り返している。
アゼル・リュゼインだけが、無言で巫女を見つめていた。
その目は閉ざされていないだけで、どこか虚ろだ。
「ああ、ああ!
分かるぜぇ……こいつの顔、見えないよなぁ!」
ガルジズ・ナイヴスは歓喜に近い声で叫ぶ。
だがその直後、巫女の肩先が揺れた。
その意味合いを読み取るとすれば――それは不満、だったろうか。
人の不幸を喜ぶな、とでも言うような軽微な意思表示。
だが、それだけでガルジズは口元の笑みを薄めた。
従順、という言葉では足りない。
もっと古い種類の畏れだった。
そしてガルジズは己の役割を思い出したとでもいうように、ひとつ肩を竦めてから続ける。
「で、こいつが言ったんだよ。
ここに火を放てば、必ず王さま、あんたとそこのちっこい先生がここに出てくるってなぁ」
二人を交互に舐めるように見つめる。
「なぜ……」
片目を顰めたまま、リウレンは疑念を漏らす。
この事件はすべて、アゼル・リュゼインをおびき出すための罠だった。
だとすると、僕の役割はなんだ?
なぜ僕が、王を釣る撒き餌に選ばれたのか。
「俺たちはなぁ、王さま。
この森を燃やしたくて、こんなことを仕出かしたんじゃぁないんだよ。
燃えちまったらそれはそれでおもしれぇけどなぁ!」
ガルジズ・ナイヴスが王ににじり寄り、ぐいとその顔に下から己の顔を寄せた。
「俺たちは、俺らの王を探しているのさ。
――持たざる者の王。
友も、家も、弔いの火すら持てねぇ連中の王だ。
飾り椅子にふんぞり返るだけの王さまじゃ、話にならねぇ。
自身も生まれながらにして奪われた者であり――
それゆえに王である。
そんなねじくれた奴がどこかにいやぁしねえかって、世界中をほっつき歩いてんのさ」
持たざる者の王。
その言葉の意味なら、リウレンにも分かった。
伝承によれば、アノジェア王家の子が手にして生まれる有色のコインは、最果ての壁の主が王家へ支払う裏切りの代価だ。
最果ての壁。これはトゥアの未来図にあった南方城壁を指すのではない。
ノースウェルに伝わる、観たものを発狂させる凶星を人の目から遠ざける神話の地名だ。
その主は、最果ての壁の番人としての役目をアノジェア最初の王オーレサルに押しつけ、姿を晦ました。
その代わり、王族の子には莫大な力を保証する遺物を必ず渡すと誓約した。
見方を変えれば、アノジェア王の血筋の中で、初代オーレサルだけがコインを持たず、己の力だけで玉座を勝ち取ったことになる。
背扉の民。
彼らは後期王朝の正統を拒み、さらに前期王朝においても始祖オーレサルを神聖視する。
ならば、持たざる者とは。
オーレサルと、偽りの血統に支配される非搾取層、その双方を指すはずだ。
それがリウレンの持つ文献上の知識だった。
「正直俺は、あんたには興味がなかった、王さま。
だが言うんだよ、巫女が。
お前ら二人に会いたいってなぁ」
ガルジズ・ナイヴスが王から顔を離し、距離を取る。
それからまた王に振り返って、獲物を前にした舌なめずりとともに言い放った。
「だから、聞くぜ、王さま。
お前は、どっちだ?
――僭王、アゼル・リュゼイン。
お前はこの俺に、今この場でお前の持つコインを見せられるのか?」
それは深刻な罪の告発だった。
シェランの何かを言いかけた唇がきつく結ばれた。
目の前で無言を貫くアノジェア王への配慮が、かろうじて声を上げるのを押しとどめたのだろう。
アノジェア王にとって、有色のコインを持つことは、王家の象徴などではない。
それはこの国の王であるための、もっとも根幹にある資格そのものだ。
その占有に疑義を差し挟まれるということは、王個人への侮辱では済まない。
統治の正統そのものに、刃を突きつけるに等しい。
リウレンもまた、いまこの場で発されたのが、この国そのものの存立を揺さぶる言葉だと理解していた。
セレナも胸の前で手を合わせ、不安げにやり取りを見守っている。
レプカの気配も変わっていた。
いま交わされたのが、単なる侮辱や挑発ではないことを、彼も悟ったに違いない。
にもかかわらず――
王はそれを軽くいなした。
「さあ……あいにく今は持ち歩いていませんね。
王宮のどこかに置いてありますよ。
どこにしまったかも忘れてしまいました」
僭王という語に潜む重さを、まったく意に介さない雑談の口調。
拍子抜けするような、ごくごくあっさりとした告白だった。
「あんな物騒なものを使って、大それた奇跡を起こすなんてごめんですからね。
それにね、こんな私に仕えてくれる者たちは皆言うんです。
そんな力を使わずに済むよう、自分たちが居るのだって」
アゼルは腰の剣を引く。
まるで手入れを命じるために、付きの者へ手渡すかのような優美な動作だった。
そして――虚空に剣先で何かを描く。
すると、泉の上空から降り注ぐノイセアの煌めきの中でも、はっきりとそれと分かる秘密の文字が、リウレンたちの目にも映った。
アゼルの背後の森から、あの焚き火の夜にセレナが見た仮面の集団が現れる。
四人。
仮面の意匠はアゼルと同じイセイナとミルゥの神話。
「メイルレート、貴方の言う通りでしたね。
これは私に仕掛けられた罠でした」
「勿論勿論。
陛下以外には自明の盤面でしたがね」
仮面の一人が、親しげにアゼルへ返す。
「先刻美化された台詞を耳にしましたが笑止千万。
陛下が我儘で隙だらけだから、我らが居るのですよ」
「ご高説は後でしっかり承りますよ。
その代わり」
アゼルは、リウレンたちに視線を遣った。
「あの方々の安全をどうか。
私の――冠蝕の騎士たち」




