不可能証明
リウレンは最後の一行を書き終えると、その頁を手帳から丁寧に切り離した。
証明の末尾に目を落とす。
震えはもうない。
セレナがくれた小さな魔法が、まだ指先に残っていた。
リウレンは伝承の書き起こしから始まる頁の束を、泉に向けてそっと手放した。
薄い紙片は風に乗り、その一枚一枚がゆるやかな弧を描いて舞う。
やがて水面がそれを受けとめた。
波紋はひとつずつ広がり、光の絵筆が水面に儀式的な模様を描く。
紙片はどれも重なることなく落ちて、その下へ沈んでいく。
時間が、息をひそめるように流れた。
神は振り向かないとゼルは言った。
絶望と諦観の螺旋の先にしか未来は訪れない。
そして今日もまた、すべては徒労だったと森を穢す火に身を焼かれながら思うことになるのかもしれない。
その恐怖のなかで、時は淀み、息苦しさだけが募ってゆく。
明けない長い夜、親の帰りを待つひとりきりの子どもが感じるような、永遠に似た数舜を経て――
水面の奥底から光の泡が沸き立つ。
リウレンの言葉が溶けた水は、泉の縁を越え、根を伝い、土に染み、枝に昇る。
証明の一語一語が樹液となって森の血管を巡るかのように、木々の葉が内側から光を帯びていく。
泉のそばの老樹が、その枝先を淡い青に灯す。
隣の木がそれに応え、またその隣が続く。
光は伝播し、連鎖し、加速する。
レフネイアの森が、輝きはじめた。
やがて森全体がほの青く染まり、歌のような音が樹冠の間を渡っていく。
かつてリウレンが星鳴の台から見つめたあの光と、同じものだった。
不可能証明が、レフネイアの森に認められた。
あの日と同じ現象が、今、目の前で起きている。
だがその意味は、あの日とは正反対だった。
ヴァルゼル・トゥアの証明は、世界からひとつの夢を剥ぎ取った。
リウレンの証明は、世界にひとつの不滅を刻んだ。
煙が途絶え、焦げた匂いが遠のいていく。
泉の上空では、森の発光で一帯の空が浄化されたように黒煙の流れが消えていた。
歌を運ぶ青い光が延焼の先兵であった下火の乱流を鎮め、その先で炎が力を失うのを、一行は確かに目にした。
青い光の中で、セレナが両手で口を覆っている。
シェラン・ナージュの目が見開かれ、レプカですらその小さな瞳を瞬きもせず森に据えていた。
不可能が世界に刻まれた。
この森を人の火で焼き尽くすことは、もはや誰にも夢見ることすらできない。
* * *
リウレンは泉のほとりに座ったまま、森の歌に耳をすませていた。
それはきっと人間の魔法使いが弦を爪弾いて聞かせた旅の曲。
苦しい旅路で一度だけあった休息の暖かい思い出の歌。
そして、怯える少女を寝付かせるために謡った子守唄。
ここに彼女はいたのだ。
気の遠くなるような昔。
ここで、彼女は歌っていた。
リウレンのハシバミ色の目の中で、その横顔の素描が結ばれる。
長い耳と腰まである艶やかな髪の毛が、細くしなやかな全身が、泉のほとりに描かれていく。
やがてそれは色を持ち、動き出す。
幻視が始まる。
* * *
森はまだ若かった。
背の低い雑木と下草が、泉を囲むようにまばらに茂っている。
泉のそばには簡素な小屋が建っていた。
丸太と石を組んだだけの粗末な造り。
だがその継ぎ目には、人の手よりずっと小さく、ずっと器用な手が残した丁寧な仕事の痕があった。
旅の仲間――人の半分ほどの背丈の工匠が、彼女のために建ててくれたものだ。
泉の縁に、長い耳を持つ女性が座っている。
彼女は歌っていた。
旅の記憶を。
仲間たちとの日々を。
偉大な王とともに、人と竜の命運を賭した最後の旅路に赴いた。
王はその身を犠牲にして、竜の秘密を暴き、世界を守った。
仲間たちはそれぞれの場所に散り、あるいはその生を終えた。
オル=イェ族の工匠も。人間の魔法使いも。
彼女だけが残された。
それでもその歌声は、哀しみよりも追憶に満ちていた。
大切なものを胸の奥へ納めるように、彼女は歌い続けた。
彼女はただ歌い続けた。
* * *
幻視の中で、幾つもの季節が浅瀬の水のように優しく流れた。
そして、あの夜が来る。
学者と名乗った男が、彼女に取引を持ちかける。
その要求の詳細までは、リウレンにはうまく聞き取れない。
だが、ひとつだけ分かる。
彼女は聞いたのだ。
男の望みが叶えられたとき、世界に響くことになる悲鳴を。
まだ誰にも聞こえていないその声を、彼女の長い耳が捉えた。
だから彼女は力を使った。
循環魔法。
己の神格の名の下に、須臾の間に無限の反復を世界の最深部で走らせる禁忌の技法。
それは半神の身体をさえ耐えられぬ代償を要求する。
だが彼女はためらわなかった。
放逐された身であろうとも。
残された力がどれほど心許なかろうとも。
弱り果てた王と、旅の仲間たちとともに守った世界だった。
そのためなら、己の身が朽ちようと構わなかった。
* * *
男が倒れている。
底知れぬ恐怖を垣間見たような顔のまま、事切れていた。
泣きじゃくる少女をあやし、歌を贈り、寝付かせる。
小屋を出てある名を呼ぶと、森の暮らしの唯一の友が白い姿を現した。
それは、ときおりその体に周囲の森を映し返す鏡面の鹿。
最期の願いを伝えると、友は悲しそうに一度瞼を合わせてから少女を引き取りにゆく。
少女を乗せた幻獣の後ろ姿に、レフネイアは小さく頭を下げる。
そのあと。
レフネイアは衰えた体を引きずるようにして小屋に戻った。
寝台に腰を下ろす。
横たわる。
天井の板目を見上げる目に、もう焦点はない。
手足の先から、己が何か別の存在へと変じていくのが分かる。
落花が始まっている。
彼女の体が森に溶けていく。
肌の表面から細い根のような光の筋が伸び、寝台を貫き、床板を潜り、土へと還っていく。
それでもまだ、彼女の唇は動いていた。
歌の最後の一節を紡ぐように。
幻視のなかで、リウレンは小屋の入口に立っていた。
溶けゆく半神のそばへ歩み寄り、膝をつく。
もう輪郭のほとんどを失ったその髪に、そっと手を伸ばした。
幻視の法則は厳密で、指先はやはり宙をさまよう。
けれど。
リウレンは囁く。
「おやすみ、レフネイア」
もう動くことのない長い耳が、その言葉を受けとめたように見えた。
そしてレフネイアは、森になった。
* * *
幻視が退いていく。
青い光が薄れ、森の歌が遠ざかり、現実の輪郭が戻ってくる。
泉の水面に映る空は晴れていた。
曇天が割れて、ノイセアの光芒が泉へと差し込んでいる。
リウレンは目を開けた。
いつの間にか、手を灼いていた赤黒い爛れが薄くなっていた。
ひび割れた皮膚の痛みは残っている。
だが、先ほどまでの、内側から剝がされるような苦痛はもうなかった。
触れば頬の腫れも引いている。
泉のほとりに、白い九輪草がまだ咲いている。
火は遠く、ここまでは届かなかった。
いや――もう、二度と届くことはない。
背後で、堰を切ったような嗚咽が聞こえた。
振り返ると、セレナが崩れるようにしゃがみこんでいた。
両手で顔を覆い、肩を震わせている。
張り詰めていたものがすべて解けたのだ。
リウレンは立ち上がり、彼女のそばまで歩いた。
腰を落とし、背中にそっと手を置く。
「君がいなければ……書けなかった」
セレナは何か言おうとした。
だが言葉にならない。
首を何度も横に振りながら、泣きじゃくることしかできない。
リウレンは急かさなかった。
セレナの背をゆっくりとさする。
セレナが少しだけ落ち着いたのを見届けてから、リウレンは泉に目を戻した。
水面は穏やかに光を返している。
森は青い残光をまとったまま、長い余韻のなかで沈黙していた。
胸のなかで、ふたつの名前が浮かぶ。
(ここで立ち止まるわけにはいかない。
必ず君を連れ戻すよ、ゼル。
それから――イルシリア。
君がこの世界に確かにいたことを、僕はまだ証明していない)
そのとき、乾いた音が森に響いた。
ぱん、ぱん、ぱん。
拍手だった。
仮面の使者が、その優美な手を打ち合わせている。
拍手は途切れることなく続き、青い光の余韻に溶けるように、森の静寂のなかへ広がっていった。
「リウレン先生」
使者がついに声を発する。
焚き火の夜にセレナだけが聞いた、あの謎めいた倍音の響き。
だが今、それは一行の全員に向けられていた。
「ある方から、あなたの非凡は聞き及んでいました。
ですが実際は、その見立てすら控えめでした」
使者は拍手を止めた。
それから仮面に手をかけ、留め具をひとつずつ外していく。
イセイナとミルゥの意匠が、使者の顔から離れる。
「名乗りに先立ち、不躾な賞賛を漏らしたことをお許しください。
そして――初めまして、塔の皆さま」
豪奢な金髪が風になびく。
仮面の下から現れたのは、整いすぎるきらいはあれど柔和な笑み。
切れ長の目は穏やかで、シェランが感じた策謀の仄暗さを覗かせてはいない。
リウレンは知らないその顔を見た。
だが、シェラン・ナージュの息を呑む気配が背後から伝わった。
レプカの全身が弓弦のように張り詰めるのが、視野の端からも感じられる。
「この名はおそらく、ご存じのことかと思いますが――
改めて、礼として申し上げます」
男は一礼した。
それはかつてどこかの戦場の空に投影された、あの優雅な所作と同じものだった。
「私はアゼル・リュゼイン。
このアノジェアの玉座を預かる、凡庸な君主です」




