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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第2章 それでも君は、取りもどすの
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二重信仰

 翌日の昼頃、リウレンたちはついに森の中央部のその地に辿り着いた。


 細道があけると、九輪草の群生がそこかしこで淡い紅や白の花弁を揺らしている。

 旅の終わりを彩るその景色に、セレナが感嘆を漏らすのが背後から聴こえてきた。

 

 そこでリウレンはレプカに枷を外され、手帳と筆を与えられる。


 リウレンは、花々を踏みしだかぬよう注意深く群生を分けいってゆく。


 レフネイアの泉。

 塔で言えば、大講堂ほどの広さをもつだろうか。

 水質の異常なほどの透明度が、これもまた常ならざる神秘の地であることを告げる。

 リウレンは、立ったまま水面を覗き込む。

 泉に映る己の瞳は、ハシバミ色。


(当たり前だ、他になにがあるというんだ)


 黄金の瞳。


 神格との接続の証左である金色の揺蕩い。

 それとは異なる、とレプカは言った。


 ――貴様も真偽を確かめられない。


 悪夢の名残のように、レプカの声がこだまする。


(考えるのは、あとにしよう。

 ここでまず為すべきことをする)


 深く澄んだ泉をまた覗きこむ。


 今度は、自身のある宣誓が胸中に宿り、レプカの呪詛めいた告白への追想を塗り替える。


(……確かにそこに在った命が消えるなんて、そんな理屈は僕が、否定してみせる。

 ――それが僕の、不可能証明となる)


 そう誓った。


 だからまだ、この森を燃やさせるわけにはいかない。


 泉に着き上空がひらけたことで、見上げると森の延焼地帯から流れくる濃灰の煙がノイセアを翳らせている。

 また水源の湿った匂いにまじり、まだうっすらとしたものだが野焼きの焦げ臭さが鼻腔を刺激している。

 

 時間が、ない。


 リウレンは手帳を開き、筆を取った。

 枷を外された手首にはまだ赤い痕が残っている。

 リウレンは泉のほとりに腰を下ろし、まず伝承を書き起こした。

 几帳面に整った文字が、しかし思考の停留を感じさせない速さで綴られてゆく。


   *   *   *


 今はレフネイアの森と呼ばれるこの地も、かつては別の名で呼ばれていたという。


 古い記録によれば、ここにはひとりの長耳種の女性が暮らしていた。

 神の血を引く半神で、人の何倍もの時を生き、泉のほとりの小屋で長い歳月を独り過ごしていた。

 かつては偉大な王の旅に従ったとも伝わるが、その仲間たちはすでに去り、最後には彼女だけが残された。


 伝承が語るのは、ある夜の出来事だ。


 ひとりの男が森を訪れた。

 笑顔を絶やさぬ男で、各地の少数民族の言葉を調べている学者だと名乗った。

 男は幼い少女を連れていた。

 少女の顔は虚ろで、言葉を発することはなかった。


 男は一夜の宿を乞い、彼女はそれを受け入れた。


 不可解なのは、ここから先だ。

 多くの伝承が失伝や要約によって細部を失っているのに、この夜のことだけは、なぜか異様な仔細を伴って伝わっている。


 夜半、男は本性を現した。

 求めていたのは言語の調査ではなかった。

 男は少女の服の上から胸元に刃を走らせ、傷つけた。

 虚ろだった少女の顔に、はじめて表情が生まれたという。


 男は長耳種の女性に告げた。

 この子は命の危機に瀕すると、いかなる人語にも属さぬ言葉をしゃべるのだと。

 傷は一晩もすれば消える。

 だから教えろ、と男は言った。

 さもなくば、この子を裂いて、この子自身から直接聞きだすこともできる、と。


 神の名を介さず世界に直接働きかける言葉、それが男の求めたものだったと、いくつかの伝承は綴る。

 だから彼女――孤独な半神は、残された力を使うことを決めた。


 伝承が共通して伝える最後の場面は、こうだ。


 男は何か底知れぬものを垣間見たかのような顔で、息絶えていた。

 少女は怯え、泣いていた。

 彼女は少女のそばにひざまずき、こう伝えたという。


 あなたの中にあるその言葉の記憶は、私がもらいます。

 代わりに、あなたにあげましょう。

 優しい森の歌を。


 彼女は歌った。

 かつて旅の途中で聞いた、人間の魔法使いの歌。

 やがて少女は眠りに落ちた。


 彼女は己に近しい幻獣を呼び、眠る少女を人里まで届けるよう託した。


 確かなのは、その夜以降、長耳種の女性の姿を見た者がいないということだった。


 代わりに、森が変容した。


 泉を中心に、森は異様な速さで繁茂し、道を呑み、やがて小屋も、その痕跡すらも、緑の奥底に沈めた。


 人々はいつしか語るようになった。

 あの女性は森に溶けたのだ、と。


 だが語彙も文法も異なる最古の伝承を読み解くと、共通して綴られる表現があることを僕は突き止めた。


 彼女は落花した、と。


 だが半神の落花が何を意味するのか、伝承は答えない。

 ただ結果だけが残った。

 森は生き続け、泉は枯れず、その地はいつしか彼女の名で呼ばれるようになった。


 レフネイア、と。


 そしてまた長い時が経つ。


 幾人もの冒険家や魔法使いがこの森に挑み、そのすべてが退けられた。

 光を受けて見るものに己の姿を映し返すという不思議な鹿が、泉の周囲で現れて探索者の目を惑わしたと詩人の歌は言う。

 しかしついに泉は人の手によって再発見される。

 森の変容以来の最初の到達者は、アノジェア後期王朝初代の王――灰の王だと、ある伝承は語る。


   *   *   *


 リウレンは筆を止め、書いたものを読み返した。

 それから、伝承の下に自分自身の言葉を書き足していく。


 ここから先は伝承ではない。僕の推論だ。


 伝承の半神は落花し、姿を消した。

 だが森は残った。

 彼女の消滅と森の変容を、伝承は偶然として扱わない。

 ならば彼女は消えたのではない。

 別のかたちで残ったのだ。

 おそらく、この森そのものとして。


 だが、疑いは残る。


 彼女は本当に神格だったのか。

 半神という語は、伝承ではしばしば修辞としても用いられる。

 長命と異能を、そのまま神の血と呼んでいない保証はない。

 これを確かめる方法が、ひとつだけある。


   *   *   *


 リウレンは筆を置き、立ち上がった。

 煙の臭いが一段と鼻につく。

 東の方角を見透かすと、遠い樹々の間に日中でもそれと分かる火の粉の爆ぜり。


「先生……」


 祈るようなセレナの声。

 彼女には、リウレンが何か取り返しのつかない代償をこれから払おうとしているように見えたのかもしれない。


(安心してよ。

 僕はもう誰の泣き顔だって見たくないんだ。

 ましてや君の涙なんてね)


 笑いかけて、そう軽口を叩きたかった。

 だが声は出ない。


 手が、震えていた。

 これから行う償いのために、ゼルがいなくなった夜のことを思い出さなければならない。


 あの黒い目の奥に沈んでいたもの。

 そこへ自分が最後の一滴を落としたのだと、リウレンは知っている。


 お前と喜びたかったと告げるゼル。

 それでは駄目なのだと、決別の論理で諭すゼル。

 そして僕の目の涙が、魔力に淀む彼の瞳に映りこみ――


 そのときゼルの心に落ちた深い絶望を、リウレンは反転させる。


「泉よ、循環する黒雨を貴方の永遠は知っている――レフネイア!」


 天蓋を破って降り注ぐ黒い雨。

 泉が氾濫し九輪草の紅や白を散らして奔流する。

 そのすべてが森を水底に沈めていく。

 その情景を、リウレンは脳裏に強く思い描く。


 ――魔法は発現しない。

 リウレンの目はハシバミ色のままだ。


 シェラン・ナージュとセレナの、悲鳴にも似た呻きを背に感じる。

 森の炎は消えない。

 だが、リウレンの狙いは最初からそこにはなかった。


「……不可能証明」


 仮面の使者が茫然と漏らす。

 リウレンにとっては初めて聞くその声も、だがこの瞬間、彼の気をひくことはない。


 大きな虚脱がリウレンを襲う。

 体の内側から皮膚を剝がされるような痛みに、思わず己の手を見る。

 手首から指先にかけて赤黒い爛れが一気に浮き上がっていた。

 ひび割れた箇所から血がにじみ、脈打つたび、焼けるような熱が手先に向けて走る。

 顔面にも、痛みはまだ薄いが熱い腫れの感覚があり、手と同じ爛れが額や頬を侵食しているはずだ。

 息が、荒くなる。

 リウレンは片膝と右手を泉のへりにつき、左手を手帳ごと胸にあてた。


(……やっぱり、そうだ。

 これは)


 二重信仰の罰。


 ゼルがあの夜ソルナの名を口にしたとき、彼の身にも同じ理が働いていたのかもしれない。

 おそらく、ゼルは暗室の祝福によりその理を超克し、僕を眠らせた。

 だが今、確かなのは僕自身に起きたことだけだ。


 本来、人は信仰を誓った神の名の下においてのみ、魔法を行使できる。

 僕はいま、その制約を破ろうとして、世界の法に罰された。


 レフネイア。

 それは今は森の名として知られている。

 だが、元となる伝承の人物は零落した神格の名なのだ。

 ただの森が、ただの泉が、人間の可能性を封じるなどということがあってよいはずがない。

 ずっと、そう思っていた。


 詠唱の末尾に添えたレフネイアの名。

 この身に生じた二重信仰の罰。

 それらが意味するのは……


 リウレンは泉のほとりに座り直し、今この身に起きた事実を書き連ね、証明へと組み上げようとする。

 けれど、いつものような整った字を綴ることができない。

 腕から指先にかけて走る爛れが、脈打つたび鋭い痛みを送りこんでくる。

 震えが止まらない。


「先生」


 足音とともに、その声がリウレンの耳朶を打つ。

 セレナだ。

 セレナはリウレンのそばで膝を折り、その掌で爛れと血に蝕まれて震える彼の指を包みこむ。

 レプカも彼女を止めなかった。


「イルナフ先生に神さまの背中のお話を聞いてから、ずっと気になっていたんです。

 だけど、何もできなかった。

 だからせめて、先生だけに背負わせたくないんです」


 セレナの目に浮かぶ青空が、夕日差す黄金へと暮れてゆく。


「先生の怯えも後悔も、今だけ少し私に預けて――リサネル」


 詠唱からはほど遠い、ただの願い。

 それでも、セレナの手のぬくもりから、小さな魔法が伝わってくる。

 震えが、少しずつ収まってゆく。

 

「……ありがとう、セレナ」


 セレナは首を振ると、リウレンの最後の仕上げを邪魔しないようにとシェランたちの元に帰ってゆく。


 もう、震えはない。

 痛みを堪えるだけの強さを、いま彼女にもらったから。

 リウレンは息を整え、証明の最終章を書き記してゆく。


   *   *   *


 レフネイアは神格だ。


 僕はいまエルイルの信徒として、レフネイアの名を詠唱に用いた。

 魔法は発現しなかった。

 だが二重信仰の罰は生じた。

 レフネイアは、単なる森の名ではないのだ。

 世界の理が信仰の対象として認める、神の名だ。


 この森は、神格の落花が遺した姿だ。


 神は、ただ無償で魔法を授けるわけではない。

 人がその力を用いるたび、自らの名を呼ばせることで、消失を先送りにしている。

 そう考えれば辻褄が合う。

 名が残るかぎり、神は完全には消えない。


 酔いどれの歌、産婆が母子を励ます叫び、挨拶の端に朝露のように生まれる祈り、そのすべてから搔き消されないかぎり。

 この泉が枯れず、森が生き、その名が呼ばれるかぎり、レフネイアは存続する。


 ならば――


 レフネイアを、人の子が生みだした炎で燃やし尽くすことはできない。

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