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テトラクロノス  作者: 火とかげ
第2章 それでも君は、取りもどすの
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鎖のレプカ

 翌日、夜明けまもなく一行は詰所を出発した。

 天候は晴れ。

 見上げると錯綜した樹冠がノイセアの光を細く切り裂いている。

 そうして足元に落ちた木漏れ日を頼りに、セレナは歩を進める。

 背にミラリスの重さを感じながら。


 進むうちに、光の乏しい夜間には気付かなかったこの森の特徴が明らかになる。

 

 数種類の広葉樹が混在し、小さな水場の付近では柳が細葉を垂らしている。

 歩めば常に落ち葉が足を受けとめ、足腰の負担は思ったよりも少なかった。

 春の過ごしやすい陽気と日除け帽子も要らない優しい明るさ。

 時折鼻を掠める、古木を燻すような臭いがなければ、心休まる余暇の一日となっただろう。


 倒木のそばを過ぎたとき、白く俯いた花の群れが足元に咲いているのが視野の端をかすめた。


 冬の名残の花――


 セレナは足を止めて振り返った。

 枯れ葉の隙間にも、倒木の下にも、白い花弁ひとつ見当たらない。


 気のせいかと歩き出す。


 今度は白い何かが梢を発ち、樹冠に向かって斜めに森を飛んだ。


 雪のように白い、小さな山鳥――


 名は思い出せない。

 だが、顔を上げた瞬間にはもう、どこにもその姿がなかった。


 そんなことが何度か続き、セレナはこの森の神秘について改めて思いを馳せる。


(レフネイア……受け取った禁忌を泉に隠し、人はそれを思い出せない)


 リウレンの受け売りの言葉を口ずさむ。


 まるでさっきの冬の花、雪白の鳥みたいに――


 その連想すら森の細道を伝うゆるい風に流されて、またセレナは前を向き歩き始めた。 


 詰所と泉のちょうど真ん中あたりに森番の小屋があり、そこでまた一泊するというのが昨夜焚き火前でシェランから聞いた計画だった。


 その日はこれといった事件もなく、丸太を組んだ小屋に到着した。

 戸をあけると中は幾分か片付けられており、何らかの往来が窺える。

 中には調理場と食卓のある一室ともう一部屋があり、男性が食卓の部屋で、女性がもう一室に泊まることとなった。


 自給自足を身上とする塔での生活が長いシェランが、手料理を全員に振舞ってくれた。

 食材はあらかじめ用意してきたものだという。


 浴室はあいにく設けられていなかったため、各自小屋の外の水場で顔と歯を洗う。


 女性陣の寝床となった部屋で、セレナはようやく一息ついた。

 背嚢からミラリスを取り出し、猫菓子とこっそりと皿に満たしてきた水を渡す。


 長時間閉じこめられてきた不満を表すこともなく、猫は夢中で餌に齧りついている。


「……リウレン先生が心配です」


「……そうだな」


 セレナもシェランも、ともに声に力はない。


「いつも一を聞いたら百を返すくらいおしゃべりなのに……」


 それは心配を込めた敬愛の表現だったが、シェランもそれを汲み取って笑う。


「うるさ方との交渉に連れていくと、あれよと勝手に相手を言いくるから私も重宝したよ」


 セレナはその光景を思い描き、表情を明るくするが、笑顔がそのまま泣き顔になった。


「あの枷、先生の細い腕に嵌めるにはとても重たそうですし……

 いつもレプカさんに睨まれて、小突かれて、ずっと暗い顔をされて……」


「ああ……

 もとより体力があるでもない。

 この旅路も辛かろうな。

 だが、私はあいつを信じている。

 時期ははっきりと覚えてないが、あいつがもっと子供の頃、今ですら比較にならないくらい落ち込んでいたときがあった。

 十日は講義を欠席し、私室に籠りきりだ。

 だが、ある朝、事務局に顔を出した私を見つけてはっきりとこう言った。

 『僕は七階に辿り着きます。待っていてください』と。

 それからのあいつの躍進は、お前たちも知っての通りだ」


「はい……それが、でも、どうして……」


 青空の魔法を宿した目から、涙が落ちる。

 

「空から、見ました。

 赤い火と煙。

 あれからまた、火事は進んでますよね。

 道中も……風の向きが変わるたびに、何か焦げたような匂いがして」


 言葉が途切れる。


「あれを先生が鎮めるとしたら、それは……」


 主塔や各種小塔を取り囲む外壁内のすべての土地を含めたとしても、レフネイアの森が広い。

 あの範囲に力を及ぼすために、神格の名を唱えるとしたら――

 その結果は誰にでも想像できることだった。


 ふいにシェランがセレナの肩を掴んだ。


「その点について、私には確信がある。

 あいつは何も言わないが、あれをどうにかする方法を思いついているはずだ」


 セレナは驚いて、泣いたまま目を何度も瞬きする。

 シェランは手にした白布でセレナの目元の涙を拭ってやる。


「問題はそのあとだ。

 王宮はなぜあいつを選んだ。

 レプカが同行を申し出たのはなぜだ。

 ――それからあの仮面の男」


 その言葉に、あの夜が不意に蘇る。


(あの人は悪いひとじゃない)


 血が苦手だと、笑っていた。

 鏡文字を一生懸命覚えたと、私を笑わせようとした。

 それに――


(ミラリスがあんなに懐いていたんだから)


「すべてがきな臭い。

 まだ全貌を掴みきれないが、より大きな策略の影は見える。

 だが影の主体は判然としない。

 セレナ、聞いてほしい」


 名を呼ばれ、追憶に気を取られたセレナはまた現実に引き戻される。


「リウレンが秘策で火を鎮めたとする。

 それすら計略の一環であり、次の罠が待ち構えていたとしよう。

 ――その時は、これを使ってくれ」


 セレナの手を取り、その掌に何かを押しつけた。


「入り組んだ森の中だ。

 うまくいくかは分からない。

 が、あの巨体なら多少の藪も苦にしないだろう」


 右手を開くと、骨を削った小ぶりの笛。


「サエが最後に私に渡した。

 それから、教えてくれた。

 あの子を呼ぶには、小指だけ外して吹けばいいと」


   *   *   *


 その、一つ前の晩――

 セレナが仮面の男とささやかな冒険を繰り広げる少し前の時間のこと。


 焚き火を囲む軽い夜食を済ませるや否や、リウレンはレプカに連行された。

 ヤタナギの旅の疲れを癒す余裕もない。

 反抗の意思もなく、リウレンはそれに付き従った。

 ハシバミ色の目で、自分を曳く者の背をリウレンは見つめる。


 レプカ・アルハイト。


 この男は普段、禁学の塔という閉ざされた街ともいうべき場所を囲む外壁の警備を担当している。

 来訪者があればその者に不審な様相がないか取り調べ、ときにその企みを暴き、塔の危機を未然に防ぐ。


 年のころは恐らくリウレンと同じか少し上。

 生徒とも教師とも交わらず、経歴にも謎が多い。


 しかし少なくとも、表だって自ら他の住人と揉めたことや、塔の存在や思想に異を唱えることもない。


 見た目と無口な性分が相手に与える陰鬱な圧に惑わされてはならない。

 本質を正しく見つめるならば、リウレンやセレナとも本来運命を共にする大事な仲間の一人のはずだ。


 だからリウレンはセレナやシェランほどこの男に警戒を抱いていない。


 リウレンを詰所に引きずり込んだレプカは、室内の虫かごに被せてあった遮光用の布を無造作に引き、部屋を明るませた。


 沈黙。


 長い夜になるとリウレンが思ったとき、レプカが口を開いた。


「聞け」


 そこから続く独白を、このあと何度もリウレンは噛み締めることとなる。


   *   *   *


 あの夜、何人かの生徒がゼルの逃亡を支援した形跡がある。

 それを目撃したと思しき教師はいずれも翌朝不省の姿で発見され、目覚めても身に起きた事を思い出せないと言った。

 そうした事実はすべて伏せられ、罪は貴様ひとりに擦り付けられた。


 塔に何かが起きている。


 貴様はどうにも隙がある。

 牢にでも閉じこめておいた方が、守りやすいとおれは判断した。

 だが王宮が貴様を指名した。

 塔主にはおれも世話になっている。

 あの娘も、おれは他意はない。

 だが、おれは何も信じない。

 すべてが杞憂に終わり、おれ一人が責められたとしても何ら構わないからだ。


 これから言うことは二度と繰り返さない。

 貴様も真偽を確かめられない。

 それでいい。


 引き返せない事態となる前に、貴様に伝えておく。


 おれは貴様と同じ馬車で、あの塔に来た。

 父と一緒だった。

 貴様は覚えていないだろう。

 何らかの魔法で記憶を弄られているとおれは考えている。

 その理由は最後に話す。


 父は元老院の高官だった。

 だが政変に巻き込まれ、塔に追放された。


 最後の日の前の夜だ。

 母が父にこう喚いていた。

 「まだ、あの女のことを忘れていなかったのね」

 そうおれには聞こえた。

 「違うんだ、マーシェ。

 たとえ彼があの人の子でなかったとしても、私は同じことをした」

 父の返しはこうだった。

 母は無言で父の頬を打った。


 翌日おれは母に捨てられたことを知った。

 この風采に、この性格だ。

 愛するに足らない子どもであることは分かっていた。

 だからおれは、父についていくことにした。


 おれは結局他の子どもと同じ生活を送ることを許されたが、父は牢に繋がれたままだった。

 何度もおれは父の元を訪れ、父を自由にしたいと考えた。


 工房に出入りし錠開けを独習した。

 それが能わぬなら、父を縛る鎖自体を切ってやればいいと工具を探し、そのすべを学んだ。


 子らの輪に混ざらず、そんなことばかりしているおれはいつしかこう呼ばれた。


 鎖のレプカ、と。


 おれはそれから幾度も父の救出を試みたが、所詮子供の浅知恵で、上手くいくはずもなかった。

 父はあの馬車の日を最後にノイセアの光を拝むことなく、獄中で死んだ。


 父の埋葬に来たのは、先代の塔主とおれだけだった。

 彼女はおれに訊いた。

 あなたがこれからしたいことを教えて、と。

 おれは答えた。


 父の戦いをおれは継ぐ。


 その言葉は彼女に誤解を与えたかもしれない。

 それもどうでもよいことだ。


 彼女は何も言わなかったが、おれの肩を寄せ、おれの代わりに泣いた。


 父だけが唯一おれに愛を与えた。

 父は貴様を守ろうとし、そしてその戦いに負けた。


 ただそれだけだ。


 最後だ。

 おれが見たものの意味を、おれは知らない。

 貴様が何者か、それは貴様自身が突き止めるがいい。


 あの日、おれは貴様の横に座った。

 貴様のからだは随分と小さくか弱いものに見えた。

 貴様は泣きごとを口にせず、隘路に揺られる馬車で分厚い書を読んでいた。

 目が悪いのか背を丸めて紙面に顔を近づけていたのを覚えている。


   *   *   *


 リウレンの脳裏に、レプカの独白の断片が燃え残った熾火のように燻っている。


 同じ馬車。

 夜のしじまをひずませる、聞こえない車輪の軋み。

 夢の中で階段を踏み外すときのような軽い墜落の感覚。

 だが掴もうとした途端、想起された感触は霧散する。


 あの女。

 あの人の子。

 記憶の中で、誰かが唇に指をあて、リウレンに沈黙を強いる。


 馬車の日。

 固い座面。

 開いた書のページに差す光が揺らめいて、記された文字を朧げに掻き消してゆく。


「……その日、僕は」

 

 言いかけて、止まる。

 思い出せない。

 優しい手がまた、リウレンの口に細い指先をあてがう。


 リウレンはようやく目を上げる。

 小柄で、無愛想で、捕らえたら逃すことはない――鎖のレプカ。

 その鎖が縛るのは、この男自身だ。


 レプカは泣かない。

 泣けないのだ、とリウレンは思った。

 この男は塔に来た日から、子どもであることをやめさせられていた。

 その忠誠の向かう先が、父の守ろうとした相手が、もし自分なのだとしたら。

 その重みを受け取る資格が、自分にあるのか。

 そもそも、その資格はどこに由来するものなのか。

 

 リウレンの手が細かく震え、しんとした空気の中で枷が鳴る。


 この男が主に差し出すのは涙ではなく忠誠で、主に求めるのは優しさではなく強さだ。

 ずっとリウレンと目を合わさずにいたレプカが、首をもたげる。


 レプカの小さな瞳の中に、逆さまに映る子どもの自分が居る――

 その錯覚にリウレンの鼓動が早まる。

 その子どもがゆるやかに旋回し、正しい写像を成す。

 レプカはリウレンを見据えて、その夜の最後の言葉を口にした。


「おれは一度だけ貴様を盗み見た。

 これが成長というものなのか、おれには分からない。

 あのときの貴様の目は、金色だった。


 ――魔力の淀みではない、ただ冷たく輝く黄金の瞳」


 虫かごの灯りが揺れた。

 部屋の隅に伸びた二人の影が、ひとつの鎖のように絡み、またほどけた。

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