ステラミル
ノイセアが空を去り、レイジュールがそのひとつ目に掛かる瞼をあげる。
一行は焚き木を囲んで夜食を取り、この長い一日ではじめての休息に身を預けていた。
セレナを監視する役柄のシェラン・ナージュが、深い呼吸とともにうたた寝をしている。
あの恐ろしい鎖のレプカは食事を終えるとすぐにリウレンを連れて詰所に向かい、今はいない。
おそらく一晩中、リウレンを己の傍らに置いて監視するのだろう。
仮面の使者の姿も、どこにもなかった。
あたりを見回してそれらを確かめたセレナは、今を逃せば次はないと思い立つ。
ミラリスに猫菓子と水をやろう。
振り返り、手荷物とミラリスを詰めた背嚢を覗きこむ。
ミラリスが、いなかった。
セレナは青ざめる。
ミラリスには静寂の魔法がかかっている。
まだなお曇天が続き、レイジュールが投げかける光も浅く弱い。
こんな夜に声も出せない迷子の子猫を探すのは、途方もないことに思えた。
セレナは意を決したかのように深呼吸し、目を閉じる。
(待っててね、ミラリス。
すぐにいくからね)
脳裏に青空が広がってゆく。
セレナには特別な耳がある。
感情の音を、聴き分けることができる。
ロエル・ルヘインの魔法でその力は弱められているものの、リウレンの、シェランの、レプカの心の波打ちが、うっすらと判別できた。
だが、それらについて深く踏みこむことは、秘密の盗み見にあたる。
セレナは意図して、その音色を心の世界から消した。
塔に来てから身につけた、己を律する技術だった。
さらに、耳を澄ます。
穏やかな風の音色が聴こえた。
安心と、敬意。
セレナにはそう読み取れる感情が、その音の中にあった。
(これだ、あの子の音は)
セレナは風の音が聴こえてきた方角に歩き出す。
その先には、彼らの目的地であるレフネイアの森があった。
森の中へ少し分け入ったところで、セレナはついにミラリスを見つける。
ミラリスは何やら甘えるような仕草で、仮面の使者の足元にいた。
毛づくろいをしている。
セレナは目を見開いてその様子を見つめた。
視線が、ミラリスの憩いの場となっている使者の立ち姿へと移る。
使者は森の奥を、じっと注視していた。
やがて、向こうから不気味ないでたちの群れが姿を現す。
一様に同じ色のすり切れた外套をかぶっている。
先頭の人物だけが、青白く揺れる光を放つ虫かごを高く掲げていた。
一団は何かから逃げるように時折背後を振り返りながら足を速めている。
(この人たち……!)
衝撃に、思わず自分の手で口を塞ぐ。
そのとき、仮面の使者がこちらを振り返った。
使者は仮面の上から唇に右手の人差し指をあて、沈黙を促す。
セレナは黙って頷いた。
そのとき、二人の目が合った。
切れ長の、穏やかな目つきだった。
安心して、とでも言うかのように気障な仕草で片目を閉じると、使者は腰の鞘から剣を抜き、異形の一団の前に躍り出た。
使者の存在に気づいた一団がざわつき、何人かが腰の得物に手をかける。
だが剣を抜くより早く、使者との間合いが詰まっていた。
そこで使者は、不可解な行動に出た。
誰もいない前方の空間を、何かの文字をなぞるような流麗な剣捌きで切り結ぶ。
剣先に何か仕込んであったのか、夜の森に、残影を引く蛍の飛行のような光の軌跡が描かれる。
それを目にしたであろう者たちが、全身の力を抜き取られたかのように倒れ伏していく。
異形の集団は次々と襲いかかるが、使者は相手の血を一滴も流すことなく、同じように眠りにつかせた。
集団をすべて鎮めると、使者は倒れた一人を仰向けに起こし、その外套を注意深く検める。
視線は、外套の前を合わせる首元の留め具に据えられていた。
セレナは持ち前の自然な人懐っこさで、使者の後ろから同じものを覗きこんだ。
使者は咎めるでもなく、セレナのなすがままにさせる。
「扉を背に座ったまま眠る壮齢の男性……これは多分、オーレサルですね。
それから地に刺した剣をつかむ右手……眠りに落ちてなお、その場所を守ろうとする意志。
――背扉の民、でしょうか」
この夜で一番の衝撃に、思わずセレナは声をあげそうになる。
それは放火犯の正体への推測ではなく――
(……しゃべった!)
「彼らの教義では、灰の王から始まる後期王朝を正統と認めません。
おそらくは、彼らがレフネイアに火を放った。
そして逃げおおせる寸前で、不運にも私たちに遭遇した。
私にとってはこれ以上ない幸運でしたが」
低いが艶のある声色。
倍音と憂いが謎めいた余韻を残し、セレナはその内容より先に、声そのものに耳を奪われた。
「ああ、これは失礼しました、お嬢さん。
私としたことが、目前の謎につい夢中になってしまって」
使者がセレナに顔を向ける。
「それから、もしよろしければ、今夜のことは二人だけの秘密にしていただきたいのですが、如何ですか?」
言いながらも、使者の口元には笑みが象られている。
「私も……この子のことは黙っておきますから」
使者はミラリスの毛並みを愛おしげに撫でた。
ミラリスはそれに応えて、おそらくは鳴き声を上げたのだろう。
だがシェランの魔法で、セレナにはそれが聴こえない。
セレナは大きく頷いて、肯定の意思を伝えた。
「ありがとうございます」
「えっと……さっきの、どうやったんですか?
魔法を使ったようには見えなかったですけど」
セレナはまたも、ささやかな図々しさを発揮する。
「ちょっとした催眠術ですね。
恥ずかしながら、血を見るのが苦手なのですよ。
流血を目にすると卒倒してしまい、近しいものにはよく馬鹿にされたものです。
ですから、人を倒す剣術ではなく、こんな小手先の技を学んだのです。
向かってくる相手が読めるように、鏡文字を一生懸命覚えました。
おかしいでしょう?」
使者は存外に饒舌だった。
セレナはこういう人たちをよく知っている。
リウレンも、そしてゼルも、話し出したら止まらなかった。
思い出して、少しだけ胸が痛んだ。
「剣先には特別な塗料が塗ってあって、風を切ると摩擦で光を帯びるんです。
ほら、こんなふうに」
使者は立ち上がって剣を抜くと、今度は手首だけの小さな振りで、宙に何かの模様か文字を描いた。
ふたたび剣先が光の軌跡を曳く。
すると、セレナがやってきた方の暗がりから、使者と同じような仮面をつけた何人かの人間が現れた。
警戒の色を見せたセレナに使者は「大丈夫ですよ」と声をかけ、現れた集団に告げる。
「彼らを取り調べてください。
手荒な真似はしないように、お願いします」
そしてしゃがみこんでいたセレナの手を取るように腰をかがめ、その美しい右手を差し出した。
「さあ、帰りましょうか。
みなさんが気づかないうちに、ね」
使者はまた気取った仕草で片目を閉じた。
二人は手をつなぎ、闇の中を歩いた。
ミラリスが、先導するように前を行った。
そのとき、ミラリスの背中が光を帯びる。
毛並みの中にいくつかの青白い光や橙の輝きが浮かび上がり、それらが闇を照らすようにセレナは感じた。
「綺麗……」
「どうされましたか?」
「あの子の背中……まるで夜空の星座みたい」
熱に浮かされたように、セレナは使者に答える。
「……」
使者はそのあと語らず、二人はまた歩き始めた。
* * *
焚き火が見えると、使者はセレナを先に帰した。
ほどなくして自身のために張られた天幕に戻り、眠りの準備をする。
仮面を外し、長いまつげを伏せる。
謎解きの続きが始まる。
(夜にだけ浮かぶ星座の模様。
私には何も見えなかった)
(高い知性と意思を持つ猫。
塔に住む特別な少女。
心の音色を聴き、私にも叶わぬ星座の謁見を許される。
……帰結は明らかだ。
彼女を導く不思議な猫、それは)
(――ステラミル)
ミリュゼーンに選ばれた者だけが手にする、銀の鍵。




