眠り姫
「これが、本来の僕の左目の色。
それを誰かが魔法で覆い隠した。
そういうことですね?
レプカさん……シェランさん」
セレナは息を呑んだ。
余燼の巫女との会話の終わりに、リウレンの中で何かが壊れたその瞬間の音を聴いた――そう思ったのだ。
けれど、沈黙ののちにリウレンが言葉を発した時、その内面で何が起きたのかは分からない。
それでも彼は、一人で致命的な欠落から立ち直った。
そんなふうにセレナには見えたのだ。
セレナには、それはひどく危うい予兆に映った。
今、リウレンの感情の音は聞こえなくなっている。
そして、変わり果てた左目の色以上に、気になることがあった。
リウレンは、推論の過程を一切口にしなかった。
結論と、次の議題のための事務的な問い、それだけを口にした。
「……ああ。
先代塔主――ルノーシャ・ヴェイレム。
彼女がおまえの黄金の視力を封じた。
そして今も塔で眠りについている」
落花。
可能性を使い果たした魔法使いの終わり。
セレナを救ってくれたロエル老師の最期と、同じだった。
リウレンは小さく頷いた。
「シェランさん。僕はゼルを止めたい。
彼が、最後の一線を越えてしまう前に」
シェランはすぐには答えなかった。
眼鏡の奥で目を伏せ、苦い逡巡をそのまま表に出す。
「……おまえの言いたいことは分かる。
ゼルを行かせたくない気持ちも、おまえが追いたい理由も。
だが、今回の外行きは王宮からの要請があってこその特例だ。
本人の望みだけで再び外へ出すとなれば、話が変わる」
シェランの声には拒絶よりも、苦しそうな迷いのほうが濃かった。
「それなら構いませんよ」
アゼルが割って入る。
家臣たちに呑気と酷評されたあの調子のままの、逡巡のない物言いだった。
「私が許可を出します。
なんといっても王ですからね。
まあ任せておいてくださいな」
少し得意げなアゼルを見て、メイルレートが額に手を当てた。
「陛下。
毎度その場の気風で国法を撓められると、こちらの胃が保ちません」
「気風で曲げるつもりはありませんよ。
それに、理はあるでしょう?
恩義もまた、王が勘定に入れるべき細目のひとつです」
大人たちの応酬を、セレナは黙って追いかけていた。
王と騎士の間にある信頼の形が、言葉の端々から透けて見える。
軽口を叩き合えるのは、互いの命を預け合ったあとだからだ。
さっきの戦場で、メイルレートが泥の中からアゼルの足首を掴んだあの瞬間を、セレナは忘れていない。
アゼルが、ふと話題を変えた。
「それから、私のコインについてですが」
場の空気が張った。
ガルジズに「見せてみろ」と迫られた場面を、まだ誰も忘れてはいない。
だが、アゼルは拍子抜けするほど気軽に笑った。
「安心してください。
ちゃんとありますよ。
王宮においでいただければ、お見せすることくらいはできます」
リウレンが少しだけ顔を上げる。
セレナも、強ばっていた手の力をゆるめた。
「もっとも」
アゼルは肩をすくめる。
「あんな物騒なものをなるべく使いたくない、という気持ちに変わりはありませんけどね。
得体の知れない力に、抑止力という名目でいつまでも国を預けるのは、健全な統治とは思えない」
メイルレートが咳払いする。
「王宮へ来てくだされば、お見せします。
少なくとも、森のただなかで憶測を重ねるよりは穏当でしょう」
そのやり取りを聞きながら、セレナは俯いて唇を噛んでいた。
大人たちの言葉の応酬のなかに、自分の居場所があるのか。
それを探すように、ずっと黙って聞いていた。
「セレナさん」
アゼルが呼びかける。
あの焚き火の夜と同じ、柔らかい声だった。
「リウレン先生についていってあげてくれますか。
先生には、きっとあなたの力が必要だ」
それからアゼルの視線が、セレナが抱える子猫に向く。
「その子も、ね」
片目を閉じる。
あの夜と同じ、気障な仕草で。
「にゃぁお」
ミラリスが鳴いた。
思わず笑みがこぼれた。
表情が動いた途端、張りつめていたものが解けた。
「はい!」
だがその勢いのまま、リウレンを見ることはできなかった。
少し迷って、ようやく見上げる。
左右で色を違えた目が、セレナを見返していた。
右のハシバミ色は暗い。
左の黄金は、どこか遠くを透かし見ている。
「君をこんなことに巻き込んでしまって済まない」
「そんな――」
「だけど、力を貸してほしい」
セレナは深く息を吸い込んだ。
鼻の奥に、さっきの出血の名残がまだ鉄の味を残している。
全身には長い一日の消耗が鎖のように絡みついている。
それでも、声は濁らなかった。
「私が、先生の左目の代わりになります」
今度は迷わなかった。
「イルナフ先生を、私が見つけます」
リウレンの表情から、張りつめたものがほんの少しだけ退いた。
だが次の瞬間には、もう別の思考へ進んでいた。
「ただ、闇雲に追っても駄目だろうね。
ゼルは王宮地下を、すぐには目指さない」
シェランが眉をひそめる。
今度の表情は拒絶ではなく、思考に切り替わるときのそれだった。
「なぜそう思う」
「王宮地下の迷宮は塔のそれとは違い、挑戦者に試練を課す場ではありません。
侵入者を排除し、遺物を守るための機構です。
ゼルの背後にはリオラズと呼ばれるハリィク以上の高位猫がいる。
ですが、リオラズのような猫が持つ力は、おそらく僕の左目が見る幽世に属する類のもので、王宮地下を踏破する助けにはならないでしょう」
セレナには議論の細部は追いきれない。
だがリウレンの声音が変わったことは分かった。
さっきまでの、凍りついたような沈黙とは別のものが、彼の中で回り始めている。
推論だ。
いつものように、いつもの速度で。
そのことが、セレナの胸に生じていた不安をまた一つ溶かした。
「陛下。
王宮には、塔のミルグリーフに相当するような、挑戦者へ与えられる遺物はない。
違いますか?」
「そのとおりです。王宮は教育機関ではありませんからね」
「なら、ゼルは別の切り札を取りに行く」
「方角は」
メイルレートが問う。
「レジグナ主神殿」
リウレンは言い切った。
「かつてザレイア環域に落ちた隕石から鍛えられた剣は、ミルグリーフ一振りではない。
ミルグリーフが迷宮の魔を闇へ還す銀の解なら、対になる金の嵌とでも呼ぶべき魔剣がある。
それが主神殿に奉納されているはずです」
「嵌剣グリフォシア」
アゼルが詠うように継ぐ。
リウレンは頷いた。
「持ち手を選ぶ神撃の大剣。
時代の英雄だけが、魔剣を台座から引き抜くことができる。
ゼルはまずそれを狙うはずです。
王宮地下へ挑むための切り札として」
「なら、お前はその前に動く」
シェランが言う。
「そのつもりです。
ですが、その前に一つだけ確かめたいことがあります」
リウレンの声がひと色低くなる。
「僕を、ルノーシャさんのところへ案内してください」
「先代に?」
シェランが目を細める。
不審ではなく、意図を汲もうとする慎重さだった。
「なぜだ」
リウレンはすぐには答えなかった。
その慎重さは、やはりこれまでのリウレンには見られないものだ。
「泉に渡した証明の中で、この森そのものが、レフネイアという神格の落花した姿だと書きました」
ひとつずつ、言葉を置いていく。
「僕はその仮説を確かめるために、レフネイアの名で嵐を呼ぼうとしました。
そこで二重信仰の罰に触れた」
それは皆が目にした事実だ。
セレナも覚えている。
リウレンの手に浮き上がった赤黒い爛れ。
あのとき自分の手で包んだ、あの震える指。
「そのあと――巫女の呪詛で黒炎に堕ちた神代の鹿が、ヤタナギの怒りをその暗い鏡面に映して、自分自身を焼き始めた。
そして僕に助けを求めた」
そう、あのときセレナは耳にした。
黒炎の獣が助けを求める叫び声を
「神代の鹿――ユルカの瞳を見たとき、たぶん、僕は二重信仰を認められたんです。
証明が森に受領されたあと、ユルカの絶望に応えたいという祈りを、レフネイアが受け入れてくれた。
気づいたとき、僕はここではない場所にいた。
現実ではない、別の場所に」
息をひとつ整えて、リウレンは続けた。
「そこで――僕はレフネイアに遭った」
沈黙が降りた。
風が泉の水面にかすめ、その跡が脆く消える。
最初にその意味へ辿り着いたのは、アゼルだった。
「落花は、必ずしも死そのものではない。
先生は、そう仰りたいのですね」
「はい」
リウレンの声が、ほんの少しだけ軽くなった。
「僕はあそこで、神話にも伝承にも残っていない古代の真実を聞きました。
ですが重要なのはその内容じゃない。
肉体が朽ちてさえいなければ、落花して眠りについた者の内側へ、まだ届く余地があるかもしれない」
肉体が朽ちてさえいなければ――
その言葉が、セレナの中で別の記憶と重なった。
ロエル老師。
あの人は、セレナに青空を贈ってくれた。
代わりに可能性のすべてを手放し、そのまま戻ってこなかった。
セレナはあの人の最期を知っている。
そして、リウレンはそれを知らない。
言いたくて、けれど今は言えない言葉を、胸の奥の一番深い場所にしまい込む。
「僕なら、ゼルの弟――ルアスレインの内的世界に潜って、何かを持ち帰れるかもしれない」
リウレンの声が揺れた。
「そして証明したい。
落花による眠りは、人の心まで奪い尽くせないと」
「不可能証明」
アゼルが低く繰り返す。
「今なお眠る魔法の犠牲者たちを、この世に呼び戻すことができれば。
それは王の命題を解くことより大きなことかもしれません。
……リウレン先生」
アゼルはこれまでにない真面目な面持ちで続けた。
「成しうるのであれば、貴方は塔の第七階に到達する資格を得ることになるでしょう」
今度はメイルレートも口を挟まなかった。
だが、リウレンは首を振る。
「そう、かもしれません。
ですが、それに見合うだけの困難な証明となります。
この時点では自信があるとは言い切れません。
でも……僕はゼルに、その可能性を届けたいんです」
リウレンは言った。
「ゼルの覚悟と決断を無碍にしたいわけじゃないんです。
もちろん――友として、彼を止めたい。
でも、道を塞ぎたいんじゃない。
別の道があると伝えたい。
そのためにまず、確証がほしい」
「だから先代に会いたい」
シェランが言う。
「そういうことだな」
「はい。
ルノーシャさんは落花してなお塔で眠っている。
しかも、僕の異界への視力を封じ、現世を見る力を授けてくれた人でもある。
僕のこの目と、落花した者の眠り。
その二つが、あの人のところで交わっている」
シェランは目を閉じ、一度口を固く結んだ。
その沈黙は拒絶ではない。
塔主のみが知りうる秘密に教え子を近づけることの危険と、その才気がもたらす希望のどちらに重みがあるかを測りかねているのだろうとセレナは感じた。
やがて、シェランは深く長く息を吐いた。
「……いいだろう。
塔に戻り次第、先代の部屋におまえたちを連れていく」
それは許可というより、覚悟に近い声だった。
「だが、そのあいだにゼルが嵌剣へ近づく」
「それでも、まだ間に合います」
リウレンはすぐに返した。
「ゼルとリオラズは、この計画を長く隠してきた。
過去を変えるという企てが世界に何を起こすのか、彼らにだって分からないはずだ。
なら急がない。
確実を取る。
ここで掛ける時間まで無意味になるような失敗を、むしろ恐れるはずです」
メイルレートが腕を組む。
「蓋然としては理解できます。
連中が性急よりも成算を選ぶ、という読みですね。
ですが、その読みが外れた場合の手立ては」
「僕たちは徒歩で追わない」
リウレンは即答し、そしてアゼルを見た。
「陛下。
お願いがあります。
ゼルとリオラズは、猫たちの秘密の小路を辿れたとしても徒歩のはずです。
トゥア先生と進めておられるという鋼鉄の車両。
あれを使わせていただけませんか」
「ええ、もちろん!」
アゼルはすぐに答えた。
その目に、少年のような光が射す。
「それはむしろ、こちらからお願いしたいくらいです。
それから……これは提案でもあり、私たちの汚名返上の機会として受け取ってほしいのですが」
アゼルはそこで一度言葉を切り、泉のほとりに集う面々を順に見渡した。
先ほどまでの軽やかな調子は残しながらも、その眼差しには王として事の後始末を引き受ける者の責任が宿っていた。
「背扉の民や神代の獣の制圧のために、リウレン先生ひとりに代償を支払わせてしまいました」
その言葉に、誰もすぐには口を挟まなかった。
事実として否定しようのない一言だったからだ。
「私も先生の旅に同行したいのはやまやまなのですが、メイルレートが許してはくれないでしょう」
メイルレートが当たり前だとばかりにアゼルを睨みつける。
「塔主であるシェランさんも塔の警護長であるレプカさんも、一度塔に戻れば、そうそうまた塔を留守にするわけにはいかない。
そうすると、先生の旅路には武の手がいささか足りないように思います」
アゼルの言葉に、リウレンが下を向く。
おそらく、先ほどの戦いで、言葉や理屈が通用しない場面で感じた己の無力さを、また噛み締めているのだろう。
その様子をみたアゼルが慌てて付け足す。
「いえ、お気になさらないでください、先生。
私もたいがい地面に転がってばかりでしたよ。
忸怩たる思いから、少々無茶をしようとしてメイルレートに止められましたけどね。
それはさておき」
アゼルがまた改まった口調となる。
「そこでです。
私の騎士をひとりお連れになりませんか?
グラヴァイト、こちらへ」
アゼルの声とともに、仮面の騎士の一人が前に出る。
そして、仮面を取り外す。
現れ出た顔貌に、セレナは思わず口を手で覆った。
アゼルと同じように彫刻のような美しい顔立ち。
柔和なアゼルと比べると、ややきつく強い意志の発露をうかがわせる。
しかしセレナが驚いたのは、顔の造作そのものではなく、その肌に稠密に施された刺青だった。
顔だけではない。
よく見れば喉元や裾から覗く手頸や甲にかけても、絵巻のような物語性のある図象が這いまわっている。
「先ほどは私が与えていた指示のせいもあり活躍をお見せできませんでしたが、彼はメイルレートに次ぐ冠蝕の騎士副長です」
セレナはあらためてグラヴァイトの肌を見た。
その刺青は、肌を飾るためのものには見えなかった。
読み取れないはずなのに、触れてはならない物語が全身に刻まれていることだけは伝わってきた。
「肌に編まれているのは、異端を含む八柱の神話。
大陸全土に建立された神々の主神殿を渡り歩き、グラヴァイトは想像を絶する苦痛を乗り越えて秘密の神話を己の全身に刻んできました。
そして八柱の神々に認められ――多重信仰の魔法剣士となった」
「陛下」
またも何か得意そうなアゼルに、少々辟易した様子でグラヴァイトと呼ばれた騎士が口を開いた。
若い声だった。
「俺の外見はただでさえ不気味なんだ。
物々しい紹介で警戒されたら、これから護衛しようってのに支障がきたすだろ。
やめだやめ」
メイルレート以上に礼を失した言葉遣いに、セレナとリウレンが同時に目を見開く。
「この能天気な王様の言うことは話し半分に聞いておいてくれ。
だが、必ずあんたたちを目的地に無傷で連れていく。
――この身体に描かれたあまたの残酷な神話に賭けて」
* * *
話がまとまっていく。
塔へ戻り、先代ルノーシャの眠る場所へ行く。
そのあと王宮へ。
それから鋼鉄の車両でゼルに先んじる。
セレナはミラリスを抱き直した。
子猫は腕の中でぬくもりを返し、小さな喉を鳴らしている。
「あと少しで帰れるから、もう少し我慢してね!」
そう言うとセレナはミラリスを背のうに優しく導いた。
それから泉の上の空を仰ぐ。
帰路の空中飛行のために、またヤタナギの背に登らなければならない。
グラヴァイトを除く王と近衛騎士は、別の手段で王宮に戻るのだという。
セレナたちには想像もつかない不思議な手段があるのだろう。
ヤタナギに乗るのは、セレナが最後となる。
セレナはアゼルたちに大きく礼をすると、頭を伏せたセレナに、アゼルが優しく告げる。
「顔をあげてください、セレナさん。
あなたの力が必要だと、私は本気で申し上げました。
リウレン先生には、あなたの支えがきっといる。
それから」
アゼルが近づいて小声で言う。
「グラヴァイトは飛び切り優秀な男です。
私にも計り知れぬ異形の術を用います。
日の当たる世界での……いいえ、深く濃い暗中での戦いですら、グラヴァイトを出し抜くのは至難の業のはずです。
ですが、万が一敵陣の策に嵌ることがあったなら――
これを開けてください」
アゼルは懐から小さな銀の円盤のようなものをセレナに手渡す。
「時計……ですか?」
それは貴族が持ち歩く懐中時計のように見えた。
蓋の表面にはイセイナと思われる目を閉じた長髪の女性の横顔が彫刻されている。
「それは開けてからのお楽しみということにしてください」
己の失言に気づいたのか、ひとつ空咳をしてみせる。
「失礼しました。
これも開けなくて済むに越したことはありませんね。
私のコインと同じように」
「ありがとうございます、陛下」
セレナはまた、お辞儀をする。
ミラリスが懐いていたのを見てから、セレナは目の前の男の内面についてはかなりの信頼を置いていた。
「では、帰路の無事を祈ります」
「はい、陛下も!」
セレナの言葉に、アゼルが笑った。
セレナにはそれが、王というには、あまりにも他意のない純粋な笑顔に見えた。
(不思議な方……)
その感慨を漏らすことなく、セレナはアゼルに背を向け、ヤタナギに向かう。
来た時と同じように、ヤタナギの背から縄梯子が垂らされている。
見上げるとリウレンが心配そうにこちらを見ている。
目が合った。
セレナが微笑むと、リウレンも気弱そうに笑ってみせる。
一段一段、慎重に手を掛けながら登る。
背に感じるミラリスの温もりと重みを落とさないように、少しずつ。
最後の段に辿りつくと、リウレンが片手をこちらに差し伸べている。
セレナがその手を取ると、リウレンは言った。
「一緒に、ゼルを連れ戻そう。
ゼルが帰ってきたら、一か月は無償で主塔の階段掃除係をやらせよう」
リウレンは笑っていた。
その笑顔に、セレナはふと胸を突かれる。
セレナの耳に、リウレンの心がまだ聴こえないことに変わりはなかった。
深い場所に沈んだまま、そこから何も浮かび上がってこない。
それでも。
聴こえないなら、隣に立てばいい。
音が戻るまで、何度でも名前を呼べばいい。
魔法でも推論でもない。
それがセレナにできる、ただひとつのこと。
* * *
塔のどこかにある、窓のない一室。
淡い灯りの下で、ひとりの女が眠っていた。
掛布の上に置かれた手は蝋のように白く、胸の細い上下だけが、この身体にまだ時間が流れていることを示している。
扉が開いた。
入ってきたのは、生徒だった。
年若い顔立ち。だがその目には光がなく、感情の色もない。
何かに促されるように迷いなく女の傍らへ歩み寄り、その寝顔をしばらく見下ろした。
懐から短剣を抜く。
逆手に握る。
腕が大きく振り上がる。
そのとき、背後でもう一度、扉が開いた。
生徒は振り返らなかった。
来訪者が、低く詠唱を始める。
前半は聞き取れない。
だが末尾だけが、塔地下の共振機関に異物が噛み込んだような、不穏な響きを帯びて落ちた。
「――、イシュレイム」
生徒の身体から力が抜ける。
短剣が床へ滑り落ち、それに遅れて、意識が途切れた。
来訪者は倒れた生徒を見下ろし、扉の向こうへ声をかけた。
「オルヴァス先生。この子の記憶は消しておきました。部屋へ戻して、寝かせてあげてください」
すぐにもう一人が入ってくる。
第三の人物は生徒を抱え上げ、そのまま部屋を出ていった。
眠る女だけが残される。
何も知らぬまま。
変わらぬ呼吸を続けている。




