化け物
「――神様、神様!」
澄んだ声が響いた。
直接鼓膜を揺らすような高音。
けれど不快ではなく、どこか心地いい声だった。
「神様、神様!」
少女は何度も神と呼んだ。
視界は明瞭になっていく。
白に塗り潰された景色は色を持ち始める。
そこは俺が見たことのある場所だった。
神域?
ミスカがいた、リーシュがいたあの神域だ。
裏庭。椅子に座り、優雅に紅茶を飲んでいる女性が、俺に向かってにっこりと笑った。
「あら、どうしたの?」
嬉しそうに言う女性は、神様と言われた女性は普通の女性のようだ。
柔和な表情で俺に語りかけている。
俺? いや、違う。
この声の少女に、だ。
「神様! 今日ね、ミスカね、すっごく頑張って、いっぱい地上創造したんだよ!」
なんか凄い言葉が聞こえたが、気にしてはいられない。
これは夢、なんだろうか。
その割には、かなり現実感があるけど。
「あらあら、さすがミスカね。私の弟子なだけはあるわ」
ミスカ? って神様のミスカ?
どういうことだ?
じゃあ、俺は今、ミスカの中にいるのか?
ミスカの視点で見ているということか?
いや、それより、眼前の女性を神様と呼んでいるということは、ミスカは神様じゃない?
ミスカの声が、俺の知っているミスカより幼い。
ならば、これは過去の話?
「えっへん! ミスカは天才なんだから!」
「ふふふ、そうねミスカは天才ね。私も安心してミスカに跡を任せられるわ」
「だ、だめだめ! 神様は神様でずぅっといるの!
ミスカは、神様のお手伝いをずっとするんだもん!」
「あら、そうなの? うーん、わたしはミスカの格好いいところがみたいんだけど」
「ミ、ミスカの格好いいとこ?」
「そう。ミスカの格好いいところを見てみたいの。
きっと、ミスカならわたしよりも凄い神様になると思うわ」
「そっかな、ミスカすっごい神様になれるかな?」
神様はニコニコと笑い何度も頷いた
「なれるわ。きっとね」
「そっか。そっかぁ。じゃあ、しょうがないなぁ。すっごいんなら仕方ないなー」
「うふふ、そうね仕方ないわね。ミスカはすっごいから」
やれやれとか言っているが、ミスカの声は明らかに喜んでいる。
「いい? ミスカ。神様になると色んなことができるの。
けれど、神様でもなんでもできるわけじゃない。
もし困ったら誰かに助けを求めることも必要よ。
私がミスカに頼るみたいにね」
「頼る? そんなこと必要ない! 神様とミスカがいれば無敵だもん!」
「そう、そうね。今はそれでいいわ。でも、何かあった時、誰かを頼りなさい。
神だけでなく、とても強く正しく真っ直ぐな人の子もいるのだから」
「必要ないと思うけど……んー、神様がそこまで言うなら、覚えておく!」
「ありがとう。覚えておいてね」
笑顔で話す二人は、親子のように仲睦まじかった。
その光景だけで、どれだけの絆が二人の間にあるのか、すぐにわかる。
それほどに、穏やかで楽しい情景だったのだ。
そんな微笑ましい様子の中。
景色は変わる。
「――どうして?」
ミスカの声。
今度は俺が最初に会ったミスカの声だった。
大人びながらも、まだ幼い。
そんな少女の声。
視点は彼女のものだった。
「どうしてなの? どうして!」
嗚咽を含んだ声音。
身も世もないとばかりに叫んでいた。
哀しみと怒り。
それが声からも伝わった。
彼女の目が見ているもの。
そこは地上で、荒廃した土地だった。
そこかしこに竜族の死体がある。
大型の、小型の、特殊な、あるいは異形の。
地面は巨大なクレーターが幾つもあった。
炎と硝煙が漂う中、ミスカの視線の先には彼女がいた。
神様と呼ばれた彼女が。
綺麗な顔を煤で汚している。
瞼は震えず、呼吸はない。
死んでいるのだと、俺はすぐに理解した。
戦っていたのか?
竜族と神である彼女が。
「どうして……神様、どうしてなの」
何度もどうしてと呟く。
誰も答えてはくれない。
声をしゃくり上げ、涙を流した。
「ああ、ああ……」
消え入りそうな声を空へ向かい放つ。
曇天からは、無数の竜族達が飛び交っている。
視界を埋める程の点。
ミスカはその光景を呆然と見ているようだった。
「神様……神様。神様……ミスカが、ミスカがやらないと。
ミスカはすごいから、頑張らないと。頑張って――竜神を殺さないと」
声音から伝わるのは決意ではない。
ただの憎悪。
ただの感情。
それでもそこには覚悟があった。
立ち上がり、空を見上げる。
「ミスカが、今から神様になるから」
心は泣いている。けれど涙はもう出ていなかった。
●□●□
声が遠くで聞こえた。
俺は、眠りの沼から強引に引っ張り上げられた。
目を覚ますと、日差しが眩しかった。
半身を起こす。
太陽らしきものは頭上で俺を照らしていた。
昼時だろうか。結構寝てしまった。
他の人間はすでに起きているらしく、近くには誰の姿もなかった。
俺の身体には毛布が乗っている。
誰かが、かけてくれたらしい。
俺は立ち上がり、身体を伸ばしながら、大剣を背負った。
多少は眠れたし、体力も回復している。
ずっと寝ているわけにもいかない。
竜族がいつ来るかもわからないし、盗賊の残党もいるかもしれない。
まさか、あの頭領が報復のために単身で乗り込んできたりはしないだろうが。
とりあえず広場に行こうとした時、声が聞こえた。
誰かが話しているみたいだな。
俺は広場へ向かう。
近づくにつれて、声量が上がる。
なんだ? 口論している、のか?
明らかに穏やかな様子ではない。
広場に着くと、状況が少しだけ理解できた。
広場を半分にし、片方には人間、片方にはネコネ族が集まっている。
全部で百人近くいるんじゃないだろうか。
人間の方、集団は結城さんに向かい何かを話しているが、感情的になっている様子だ。
ミーティアと莉依ちゃんが隣り合って、時折、結城さんと話している。
ネコネ族の方、集団はニースに向かい何かを話している。こちらの表情も硬い。
更に、ニースとディーネが言い合っている様子だった。
全員が険しい顔つきで、かなり剣呑としている。
ネコネ族と人間で仲違いしている、というわけではなさそうだが。
近づくと、その場にいた人達の視線が俺へと集まる。
昨日までの引き続いて好感触な感情は、ほぼない。
別にそれはいいんだが。
「何かあったのか?」
近づいて結城さんやニースに話しかけた。
二人とも俯いたり、困ったように誰かを見たりしている。
なんだ、この空気は。
莉依ちゃんを見ると、いつもと違う様子だった。
彼女はかなり怒っているように見えた。
服の裾を強く握り、唇を引き締めている。
普段、無表情なのに、ここまで感情を表に出しているところは初めて見た。
ミーティアは俺と視線を合わせようとしなかったが狼狽している。
他の人間達は、俺のことをほとんど見ない。
見ても、嫌悪感を向けるだけだ。
ネコネ族達も同じだった。
俺へ向ける感情は、明らかに敵へのそれだった。
ディーネはわかりやすい程に怒っている。
唇を尖らせて、顔をしかめていた。
ニースの表情は硬い。
彼女から俺への悪感情は見受けられないが、それでも何か困惑が見て取れた。
この空気と、俺への感情。
もしかして。
俺に関して、何か話しているのか?
おいおい。
まさか。
まさか、だよな。
そこまでなのか。
「あ、あの、日下部君、その」
結城さんが説明しようとしているが、上手く言葉にできないようだ。
場はこう着状態だ。
俺が、その邪魔をしていることはわかっているが、だからといってこれ以上、何を言えと言うんだろうか。
戸惑いの中、ニースが口火を切った。
「クサカベ。おまえに話がある」
彼女の双眸には迷いがあった。
だが、それよりも責任感の方が強いようだった。
ニースは言った。
「集落を出てはくれないか?」
「……それは人間全員にか?」
「いや………………おまえだけに言っているんだ」
俺は呆気にとられた。だが心の底で、少しだけその言葉を予想していた。
「一応、理由を聞いてもいいか?」
できるだけ平静を保つ。
だが、心は揺らいでいる。
多くの人達の俺への視線。感情。それが理解できていたからだ。
途中で予想はついたのに、心臓が早鐘を打っている。
汗が全身から滲み始める。
俺は、自分で思っている以上に動揺しているようだ。
冷静さを保とうとしたが、地に足がついていない。
「おまえの助力には感謝している。それは、わたしだけじゃない。他の連中もだ。
これは本当だ。ネコネ族、全員が同じ意見だった」
ニースも言っていた。
俺が助けたから被害がなかったのだと。
それは事実だと、俺は自負している。
傲慢になっているつもりはない。
恩着せがましくするつもりもない。
「じゃあ、なぜ?」
純粋な疑問でもあったが、何となく予想もできた。
「……怖がっている。おまえを、みんな怖がっているんだ」
ああ、やっぱりそうか。
人間達には、ここまで威圧的に指示をした。
恐怖心を利用し、命令をした。
そのおかげで今日まで生き長らえたとしても、俺に感謝できるかは難しいところだろう。
その上、彼等の目の前で戦い、死ぬような傷から再生するという場面を見せてしまった。
昨日の一件でネコネ族達にも、人間と同じ感情が浮かんでいた。
俺への恐怖。
化け物を見るような顔。
だが、それでもそこまでするものなのか。
俺は彼等に、直接的な危害は加えていない。
リーンガムで一人殴ったりしたが、あれは罪への報いという意味もある。
それ以外では暴力も無駄に威圧をしたりもしていない。
必要な時だけ高圧的になったこともあったけど、後ろで指図するだけではなかった。
最も危険な役割を担って、助けた。
それなのに、この仕打ち、か。
しかしその考えは俺だけのもの。
俺を見ている他の人間の心までは、俺はわからない。
俺がどんな風に見えるのか、俺には本当の意味で理解できないのだ。
俺は何と答えていいものか、迷った。
内心では憤りもあったからだ。
なんて勝手な。
なんて利己的な。
もし俺がいなければ、おまえ達は死んでいたんだ。
そう思った。
でも、俺も同じじゃないか?
俺がここにいるのは、俺が勝手にしたことだ。
勝手に助けて、勝手に戦っただけ。
ああ、そうか。
結局、俺も人もネコネ族も誰も、自分勝手に行動しているだけだ。
その上で、俺を受け入れられなかった。
それだけのことなのだろう。
俺は、大きく息を吐いた。
負の感情を吐き出すように。
すると、他の連中は身構える。
俺に向かって。
俺は盗賊でも竜族でもないのに。
明らかに全員が怯えていた。
これが、今の俺と彼等の関係なのだ。
やっとわかった。
ここに、俺の居場所はないということに。
「わかった。出て行こう」
俺は可能な限り、感情を排除しながら言った。
俺が怒りを見せれば、彼等は更に怯える。
それでもいいかと思った。
けれど、それは俺へ優しくしてくれた人達も傷つけるかもしれない。
だから俺は何も感じず、問題ないという態度をとった。
それが悪かったのか、ディーネが我慢の限界とばかりに叫んだ。
「ちょっと、理解できないですにゃ!
クサカベっちは、ウチらのために戦ったんですにゃ!?
確かに、もう滅茶苦茶、めっちゃ怖かったですにゃ?
でも、強さと中身は別問題ですにゃ! クサカベっちは悪い人間じゃないですにゃ!」
「そ、そうだよ! 日下部君は、ずっとあたし達を守ってくれたじゃない!
それに率先して戦ってくれたし、危険なことを自らやってくれた!
なのに、それなのに、出ていけなんて、ひ、ひどいよ!」
ディーネに続いたのは結城さんだった。
二人は俺の味方をしてくれようとしている。
だが、人間やネコネ族の心には届かない。
「で、でも、そ、その人は、私達を人とも思ってなかったじゃない……」
「そ、そうだぞ、そいつは無理矢理、俺達を連れまわしただけだ!
結果的に助かっただけで、経緯は独善的だった!」
人間達が俺を非難する。
あの時の結城さんと同じ立場だった。
人はそう簡単に変わらない。
たった数日では歪んだ心は真っ直ぐにならないものだ。
俺が全面的に正しいとは思わない。
だが、彼等との違いは無数にある。
少なくとも俺は、選択して行動したのだから。
しかし、それが何だというのか。
それが事実だとしても、彼等には届かなかった。
彼等の心を変えることはできなかった。
「……これに限っては人間達と同意見だ。私達もその男と共に暮らしたくはない」
「盗賊の一件には感謝してるよ。けど、同じ村で暮らすんだ。
彼みたいに危険な人間がいると安心できない。
考えてみてくれ。今後、彼と生活して、夜に安眠できるか? 俺には無理だ。
それに、彼が強いからって理由だけじゃない。どうしようもなく……怖い。怖いんだ。
すまないけど、みんな同じように思ってる」
ネコネ族達は誰も反対しない。
総意なのだと理解した。
「あ、あのさ、でも、その、リーダーはリーダーで、怖いけど……や、優しいっていうか。
わたし達がここに来れたのはリーダーのおかげだし。
やり方は、うん、みんな色々と思うところがある、と思うけど。
でも、でもさ、だからって追い出すとかひどいと、思うんだ」
ミーティアが俺を弁護した。
だが、誰もがその意見に耳を貸さない。
莉依ちゃんも、慎ましやかではあるが、結城さん達に同意している。
小さく頷き、俺を庇うように立っている。
結城さん、莉依ちゃん、ミーティア、ディーネが俺を庇っている。
それ以外の連中、百人近くの人とネコネ族は、俺を追放したいようだ。
ニースは、どうだろうか。
彼女は思い悩んでいるようだった。
目を伏せ、考えていたが、やがて瞼を開いた。
「双方の意見はわかる。だが、わたしはここの長代理だ。
全体のことを考えなくてはならない。人間達、一つ聞こう。
わたしはある程度、おまえ達の事情を理解している。
クサカベの力がなければ、ここまで来れなかっただろうこともな。
それは理解しているのだな?」
ニースが聞くと、人間達は顔を見合わせつつも、頷いた。
「つまり、それだけの恩義がある。だが、それ以上に彼を受け入れられない。
恩を仇で返してもいい。それほどに彼が怖い。そう言っているのだな?
身勝手で、利己的なことをしているという自覚はあるな?
はっきり言おう。おまえ達には微塵も正義はない。人情もない。ただのクズだ。
それでいいんだな? それでも彼を受け入れたくないんだな?」
クズと言われ、正義はないと言われ、反論しようとした人もいた。
だが、何も言えず閉口した。
しかし誰かが言った。
「わ、わかってます。その、クサカベさんが、わたし達を助けてくれたことも。
で、でも……でも、怖い。怖いんです。彼がどんな人でも、怖いものは怖い。
どうしようもなく、怖い……。
彼がいると、ずっと首元に刃物を突きつけられているように感じるんです。
心が休まる時間がないんです。最初は竜族のことが怖いからだと思ってました。
けど、そうじゃ、ないんです……クサカベさんが怖いんです……」
「悪いが、わたしも同じ意見さね。すまないね、クサカベさん。
こんな時代だ。誰も自分が可愛い。正しいとは思わない。最低だとも思う。
けどね……どうしてもあんたを受け入れられないんだ。すまないねぇ」
女性と老婆が切実な願いを口にした。
その言葉は現実を理解した上で正しく感情を伝えるものだった。
己の非を詫びつつも、意見は揺るがない、そう言っている。
ニースは彼女達の言葉を聞き、嘆息した。
「同胞達。おまえ達もそれでいいんだな?
わたしは、おまえ達の気持ちもわかる。クサカベの恐ろしさを知っている。
だが、彼は私達を助けてくれた。己の利益はなく、己の身を削り助けてくれたのだ。
そんな恩人を追い出す。そこに義はなく、ただの利己しかない。
それでも彼を排除する。それでいいんだな?」
ニースの言葉は辛辣だった。
だが、その強い口調でも、ネコネ族達の表情に変化はなかった。
「誰もが彼を恐れてます。彼の人柄は、よくは知りません。
ですが彼は、あまりに、におう。彼ほどに、におう人を誰も知らない。
彼には……『死臭』が漂い過ぎている。
血生臭く、常に纏わりついている。ネコネ族、全員がその暗いモノに気づいています。
クサカベ殿……申し訳ない。身勝手を許して欲しい。私達はあなたの近くにいたくない」
ネコネ族の年長者が俺に頭を下げる。
意見を正しく伝え、そして完全な拒絶をも俺にわからせた。
そうかい。そんなに怖いか、俺が。
そうか、そうか。
何か、どうでもよくなってきたな。
「すまないが、これが総意だ。クサカベ。わたしとしては、不本意だが」
「そんな言葉はいらない。結果は変わらないんだろ。
だったら、自分の意見は違うなんて逃げ口上、卑怯だろ」
思わず責めるような口調になった。
感情的になっても意味はないとわかっていても。
それでもこの不条理な状況に、憤りを禁じ得なかった。
俺の言葉に、一瞬で空気が張り詰めた。
まるで腫れ物、扱いだ。
これが俺の行動の結末、か。
ニースは悲しげに目を伏せ、頭を垂れた。
「すまなかった」
そんな風にされては何も言えない。
やっぱり卑怯だ。
そんな子供の感情が浮かぶ。
でも、それも当たり前だ。
俺は感情のない人間じゃない。
批判されれば苛立つし、嫌われれば傷つく。
認められたいという欲求もある。
普通の人間だ。
やり方を間違ったのかもしれない。
けど、こんな逼迫した状況で、どうやれば上手く立ち回れたんだ。
もっと、みんなに優しくすればよかったのか?
そうしていた結城さんが利用されていたのに?
もっと、ギリギリの戦いを演出すればよかったのか?
死ぬか生きるかの時に手を抜けと?
加減し、危機的状況を演出し、全員が手を取りあって協力するように仕向けろと?
それで被害が広がるかもしれないのに?
ハイアス和国で、みんなに戦わせた時とは状況が違う。
俺に実戦で手を抜く余力はないし、能力もなくなっているんだ。
だったら、全力で戦って、敵を討つ方がいいだろう。
それが最良だ。だって誰も死ななかった。誰も傷つかなかったじゃないか。
俺だけだ。俺だけが傷ついて、俺だけが死んだ。
それが間違っていたって?
他にどんな手段があったって言うんだ。
誰も提案しなかった、誰も成し得なかった。
でも俺は成し遂げただろう。じゃあ、なんで俺だけがこんな目にあわされているんだ?
結局、俺はこうなる運命だったのか?
俺は、何のために戦ったんだ?
こんな結末が望みだったわけじゃない。
誰かに感謝して欲しいわけでもなかった。
ただ、死なれたくなかっただけだ。
ああ、そうだ。
そうじゃないか。
俺は、ただ……。
結城さんや莉依ちゃんを、関わった人達を助けたかっただけだ。
それが叶ったのだから。
それでいいのかもしれない。
ある意味、俺の目的は達成できたのだから。
誰かを憎んでも、己の不遇を憎んでも何にもならない。
あらゆる不幸を体験し、乗り越えた俺だからわかる。
そんなことには意味はないのだと。
だったら、もういいか。
これ以上、何を言ってもしょうがないんだし。
俺を見ている人達の顔が物語っている。
この地に俺は必要ない、と。
俺の役割は終わったのだろう。
なら。
「わかった、出て行こう」
そう言うしかない。
結城さん達が何か言おうとしたが、俺は手を上げて制止した。
「いい。ありがとな。もういいから」
俺は淡々と言った。
笑顔は見せない。
今、そんなことをすれば、結城さん達の心を抉るだけだ。
無表情で答えた。それが精一杯だった。
俺は何も感じていない。
傷ついてもいないし、落胆もしていない。
ただ、事実として受け入れる。
そう思い込む。
それでいい。
ニースは鞄を俺に渡してくれた。
「一ヶ月分の食糧や衣服、毛布やらが入っている。
それと、トッテルミシュア合国の通貨も多少は入れておいた。
オーガス、エシュト、ケセルの国軍はほぼ壊滅している。
生存しているのは、わたし達のように隠れ住んでいる連中だけだ。
移動するならトッテルミシュアかレイラシャがいいだろう。
あちらはまだ人間が多いし、竜族に対抗する戦力も多少は残っているらしい」
「そうか。それもいいかもしれないな」
感謝を述べる気にはならなかった。
だからただ、おざなりな返答をした。
一人だけになるのなら、北に移動するか。
結局、竜神を倒せばミスカに力が戻るのだから。
莉依ちゃん達と行動を共にしなくとも、結果的には救えるだろう。
鞄を受け取ると、肩に背負った。
袋に頑丈な紐が付いているだけの形なので片手は塞がるが、大剣を背負っていても邪魔にはならない。
俺はみんなの横を通り過ぎ、そのまま入口へ向かった。
別れの挨拶はいらないだろう。
惜しまれて、集落を出るわけじゃないのだから。
パタパタと足音が聞こえた。
振り返ると、莉依ちゃんが立っていた。
彼女は。
少しだけ悲しそうにしていた。
それが心を救ってくれた。
他にも、俺を庇ってくれた人もいた。
だから大丈夫。
俺は、もう十分報われた。
膝を曲げて、莉依ちゃんに視線を合わせた。
最初は近づくのも、目を合わせるのも嫌がっていた莉依ちゃんだったが、今だけは俺の目を真っ直ぐ見てくれていた。
頭を軽く撫でると、彼女は僅かに驚いたが、それでも逃げるようなことはなかった。
「元気でね、莉依ちゃん」
もう厳めしい顔つきでいる必要はない。
気を張る必要もない。
恐怖や威圧を用いた、統治はここで終わりだ。
力を見せつけ、安心させる必要もない。
俺は、ただの日下部虎次に戻っていいだろう。
だから俺は、莉依ちゃんに向かって笑いかけた。
いつも、彼女に向ける笑顔を浮かべた。
それを最後に俺は立ち上がり、みんなに背を向けた。
そのまま、俺は集落を出た。




