二人のユタカの合法的ジャミング
桐生冴子の姿が夜霧の向こうへと完全に掻き消えた直後、私は冷え切った両拳をトレンチコートのポケットの奥でぎゅっと握り締めた。
耳の奥のインカムから、ハゲのユタカ(ゆたカ)さんの低く野太い声が、車のアイドリング音に混ざって届く。「凛ちゃん、冴子の奴、なんて言っていきやがった」「……三分だけ、この西の無線を合法的につぶしてあげる、って」
「ククク……! 言うじゃねえか、元生徒会長サマよぉ! 豊の名前の囮トリック、あの女、今度は自分の手柄に変えるために仕掛けやがったな!」
ユタカさんがアクセルを微かに踏み込み、黒いセダンのエンジン音が闇の中で低く唸る。
そう、冴子さんが仕掛けたのは、警察官としての職務を何一つ逸脱しない、完璧なルールの死角を突いた「合法的ジャミング(電波妨害)」のハメ手だった。
大須の防犯カメラの映像から、おじさんに密接に協力していた関係車両として、ハゲのユタカさんのタクシーのデータが警察のデータベースに登録されているのは紛れもない『事実』だ。彼女はそれに基づいて、無線機を掴み、毅然とした声で本署の通信指令室へ応援を要請する。
『こちら桐生。名鉄本線、国府宮駅周辺の主要幹線にて、関係車両である容疑者「ユタカ」のセダンを発見。直ちに追跡に移行する。周辺の各班は国府宮方面の包囲網を縮小せよ』
それは警察のマニュアルに百パーセント従った、非の打ち所がない正当な職務報告だった。
だが、その『ユタカ』という曖昧な主語を聞いた瞬間、本署の通信指令室や、上層部たちは勝手に最悪の誤認を起こす。
彼らは、世間を騒がせている連続猟奇殺人犯の主犯「左神 豊」の車両がついに中央の名鉄本線側に現れたのだと勘違いし、血相を変えてすべての機捜の覆面やパトカーを東側と中央へ大挙して殺到させるのだ。 組織の上層部が勝手にマニュアルを読み違え、勝手にパニックに陥り、結果として、西の最果てである名鉄尾西線沿いの、この廃工場周辺から警察の目が「合法的」にすべて消え失せる。
冴子さんは法を何一つ犯さず、自分の職権とルールの隙間だけを完璧に突いて、私に『三分間の空白』をプレゼントしてくれたのだ。
「豊の奴はな、凛ちゃん。冴子のことを『俺をハメて手柄を立てる冷たい女だ』って、死ぬまで本気で誤解し続けていやがった」
ユタカさんが煙草の煙を雨の夜空へ吐き出しながら、低く笑った。
「だが、あの女の本当の恐ろしさはそこじゃねえ。ルールを誰よりも愛してるからこそ、ルールの使い方が一番エグいんだよ。……おい、凛ちゃん。これでお膳立ては揃った。冴子がせっかく道を拓いてくれたんだ。あの人をもう一度刑事課長の椅子へ引っ張り戻すための、特大の『仕返し』を始めようじゃねえか」
「うん……!」
私は大きく頷き、おじさんの古い手帳の裏に挟まれた、あのスタバの古いレシートの暗号を指先で強く擦った。 上層部、特に出世コースをひた走る当時のキャリア組たちが、自らの保身のために過去の重大事件で犯した致命的な「捜査隠蔽の内部データ」。
彼らは自分たちの失点を隠すために本物の証拠を握り潰し、そのせいで、今回の失踪事件を引き起こした悪質な半グレたちの野放しを許してしまった。
おじさんは生前、その隠蔽された本物の捜査資料が、この尾西線沿いの廃工場のどこに眠っているのかを、泥臭いお節介の果てに完璧に突き止め、その座標をレシートの裏に書き残していたのだ。
冴子さんが単独でこのアジトに突入し、被害者の女子高生を無傷で救出し、なおかつ、上層部が数年間にわたって隠し続けてきた未解決事件の『本物の証拠』まで同時に押さえて表に出してしまったら、どうなるか。
身内の不祥事を白日の下に晒されたキャリア組は大ダメージを負うが、彼女自身は組織の不祥事を正し、誘拐犯を現行犯で挙げた、非の打ち所がない「警察の鑑」として新聞や世論に絶賛されることになる。
そうなれば、上層部は彼女を処分するどころか、ご機嫌取りのために元の刑事課長の椅子へと平伏して復帰させるしかなくなるのだ。
「おじさん、見ててね。……おじさんが残してくれたこの不味いコーヒーの残り滓、私が最高のトッピングに変えてみせるから」
私はおじさんの大きなトレンチコートの裾を雨風に激しく翻しながら、メイリンと共に、漆黒の闇の中に不気味に佇む織物廃工場の、錆びついた非常扉の前へと音もなく滑り込んだ。
二分五十秒。
誰も犯罪者にならない、ルールと人情の境界線を綱渡りする新米探偵のハメ手の秒針が、激しく火花を散らしながら動き出そうとしていた。




