セントレアのチェス盤、猟犬たちの殺気
二一時一五分。
伊勢湾の洋上を吹き抜ける冬の極寒のみぞれが、中部国際空港――セントレアの全面ガラス張りの旅客ターミナルを、激しく叩きつけていた。
駐機場の滑走路の向こう側、漆黒の海の闇へ向かって、ジャンボジェット機の重厚な金属の爆音がバリバリと大気を引き裂いて轟いている。
ターミナルの構内は、国際線の到着を待つ各国の旅行者たちの喧騒が響いていたが、その華やかな人工の光の裏側で、肌を刺すような冷たい殺気の網が、音もなく縮まりつつあった。
「……間違いない。あの歩き方、あのジャケットの揺れ。あの女(玲那)だ」
国際線到着ロビーの混雑から一歩外れた、薄暗い展望デッキへと続く連絡通路の死角。
おじさんの形見である、あのヨレヨレのトレンチコートの襟を立てた私の隣で、黒い防水コートの裾を激しく翻した千影さんが、低く地獄の底から響くような声を絞り出した。
彼の右手は、衣服の下に隠した特殊警棒の柄を、痛いほどの力で握り締めている。
その切れ長の瞳には、かつて妹を人質に取られて完全に正気を失いかけていた頃の、あの凄惨な『猟犬』の狂気的な殺意が、青白い猛火となって再び爛々と灯っていた。「千影さん、落ち着いて。……まだ、あの子が本当に玲那本人かどうかは……」
「いや、あの悍ましいチェックインコード(レシピ)を使える人間など、この世に一人しか存在しない!」
千影さんが私の言葉を遮り、鋭い歯ぎしりの音を響かせた。
「あの童顔の悪魔は、お前の不器用なおじさんの人生を絶望で汚して笑い、最期は上海のビルごと道連れにして灰にした。……それなのに、なぜ今になってのうのうとこの名古屋の日常へ戻ってきた! 妹のひなみを救ってくれた左神豊への恩を返すためにも、私は今度こそ、あの化け物の心臓をこの手で撃ち抜いてみせる!」
千影さんの全身から噴き出す凄まじい殺気の波動に、私はおじさんのコートのポケットの中で、冷え切った両拳を強く握り締めることしかできなかった。
朝七時に更新されるシーズン1(おじさん編)で、おじさんが玲那という怪物の狂気のすべてを愛し、最期の一滴まで付き合う覚悟を決めて炎の中に消えていった、あの哀しい深愛の結末。
それを誰よりも間近で見ていたからこそ、千影さんの抱く「怪物の生存」への怒りと焦燥は、もう誰にも止められない領域に達していた。
「豊のおじさんの姪っ子、揉めてる場合じゃないアルネ!」
通路の陰から、ベンティサイズの特大フラペチーノの空コップを持ったメイリン(梅鈴)が、お団子頭を激しく揺らしながら滑り込んできた。彼女の野生的な本能が、空港全体の空気が「異常」に変転しているのを、いち早く察知していた。
「ロビーのあちこち、仕立ての良いスーツを着た海外の黒スーツの男たちが、十数名、露骨に懐に重い銃を隠して配置に就いてるアル! あれ、上海のパパの組織と裏で繋がっていた、神楽坂グループの海外残党のプロの掃除屋(暗殺者)たちネ! あいつらも、あの童顔の悪魔の入国ログを嗅ぎつけて、ここで息の根を止めるために網を張って待ってるアル!」
メイリンの言葉に、私の脳内のチェス盤が一瞬にして真っ白に燃え上がった。
警察だけでなく、おじさんが上海で壊滅させたはずの神楽坂の海外マフィアたちまでもが、玲那という一人の怪物の首を狙って、このセントレアのハブ空港へと殺到している。
もしここで全面戦争が勃発すれば、何千人もの一般の利用客を巻き込んだ、あのゲートタワーのあの日を超える、最悪の爆破・銃撃パニックが引き起こされてしまう。
「おじさん、見ててね。……おじさんが命をかけて紡いだこの日常、怪物の亡霊だろうが、海外のマフィアだろうが、二代目の私が絶対に血で汚させたりはしないから」
私は、おじさんのトレンチコートの汚れた袖をきつく捲り上げ、インカムのスイッチを本庁への栄転を控えた刑事課長――桐生冴子お姉さんの周波数へと、強く押し下げた。
二一時二〇分。
世界を再び絶望にハメようとする怪物の影と、それを迎撃する最強のトリプル・バディ。
セントレアの全面ガラス張りのチェス盤の上で、すべての因縁を灰にするための、人生最後の『合法的ジャミング』の秒針が、激しく火花を散らしながら、今、動き出そうとしていた。




