独房の残香、名駅15階のシグナル
名古屋の街に、すべてを凍りつかせるような冷たい冬の足音が、確実に近づいていた。
灰色の重たい雲がどんよりと空を覆い尽くし、時折激しい雨に混ざって落ちてくる白いみぞれが、JRゲートタワーの巨大なガラス壁をパチパチと冷たく叩いている。地上から遥か数百メートルの天空に位置する15階。日本で一番高い場所にあるスターバックスのフロアは、外の極寒とは対照的に、いつも通りの穏やかな暖房の熱気と、挽き立てのエスプレッソの香ばしい匂いで満たされていた。
おじさん(左神豊)の遺した『左神豊探偵事務所』の二代目に就任してから、数ヶ月。
大須、稲沢、藤が丘、金山、そしてあま市のすべてで、おじさんが撒いていった泥臭い「お節介の足跡」を辿り、街の仲間たちの絆を完璧に紡ぎ直してきた私は、すっかり自分の肉体に馴染んできた、あのヨレヨレで少しタバコ臭い古いトレンチコートの襟を立てて、いつもの窓際の一番端の定位置に座っていた。
「苦いけど、……少しは美味しく感じるようになったかな」 私はベンティサイズのドリップコーヒーに口をつけ、小さく息を吐いた。
水分を吸ってふにゃふにゃになった紙ストローを不器用にくわえ、その泥水のような苦みに顔をしかめていた新米の頃の私は、もういない。
私は今、おじさんの遺した名古屋の日常を、この両手できちんと守れているという、確かな誇りと手応えを感じていた。
だが、その穏やかな日常の平穏は、カウンターの奥から歩み寄ってきたキョウコさんの姿を見た瞬間、音を立てて凍りついた。
「……凛ちゃん。これ、さっき発券されたモバイルオーダーのレシートよ」
ブラックエプロンを纏ったキョウコさんの顔は、これまでのどんな凶悪事件の時よりも、真っ白に静まり返っていた。
彼女の震える指先から手渡された一枚の感熱紙。
そこに印字されていた文字列を見た瞬間、私の脳髄を、最悪の戦慄が稲妻のように駆け抜けた。
『フラペチーノ。エスプレッソショット追加×1、キャラメルソース追加×5、バニラシロップ追加×2、氷抜き』 ――『1・5・2』。
それは、上海の超高層ビルが崩落したあの日、おじさんが命がけで千影さんに託した、妹の生存コード。
そして何より、あの日おじさんと共に上海の業火の中に消えて永遠に失われたはずの、あの『童顔の怪物』――玲那にしか使えないはずの、暗黒のチェックインコード(レシピ)だった。
「届くはずがない……。あの子は、おじさんと一緒に上海で死んだはずなのに」
私の指先が、恐怖と混乱で小刻みに震え始める。その時、駅ビルの人込みを乱暴に割って、ベージュのトレンチコートの裾を激しく翻した女性が、私の正面の席へとまっすぐに滑り込んできた。
本庁(愛知県警本部)への栄転を目前に控えた、稲沢署の刑事課長――桐生冴子お姉さんだった。
「凛、動かないで、静かに私の話を聴きなさい」
冴子お姉さんは私の正面に座ると、周囲の客に配慮しながら、極秘の防犯カメラの出力ログデータをテーブルの下で提示した。
「中部国際空港の国際線入国ゲートよ。二時間前、上海からの臨時コンテナ船の便に紛れて、この少女が日本に入国したわ。……服装、体型、歩き方の癖まで、あの心中事件の主犯である『神楽坂玲那』に完璧に合致している」
画面に写っていたのは、大きすぎるメンズのナイロンジャケットのフードを深く被り、冬のみぞれが吹きつけるセントレアの床を冷酷な足取りで歩く、一人の少女のシルエットだった。
怪物の亡霊が、日本へ、この名古屋の日常へ戻ってきた。
おじさんが全人生を賭けて、その狂気のすべてを愛して、一緒に地獄へ落ちたはずの悪魔が、なぜ今になって再び姿を現したのか。
「おじさんの二杯目のコーヒーは、まだ冷めちまってなんかいない。……千影さん、メイリン。行くよ!」
私はおじさんのトレンチコートを鮮烈に翻し、探偵事務所の最強の仲間(番犬)たちを引き連れて、冬のみぞれが吹きつけるセントレアへと向かって、猛烈な速度で走り出した。
だが、私たちも、冴子お姉さんも、そしておじさんの無線を傍受している全ての組織も、まだ真実に気づいていなかった。




