甚目寺観音(じもくじかんのん)の夜霧と、お姉さんの目配せ
十九時三十五分。
あま市の中心に鎮座する尾張の古刹――『甚目寺観音』の境内は、昼間の参拝客の賑わいが嘘のように消え失せ、底冷えする夜霧が一面を白く包み込んでいた。
重要文化財である重厚な仁王門や、闇を突くようにそびえ立つ三重塔のシルエットが、まばらな街灯の光に浮かび上がり、まるで水墨画のような静寂を醸し出している。
私とメイリンは、おじさんの大きすぎるトレンチコートのフードを深く被り、本堂の巨大な柱の陰から境内の一角を凝視していた。
「二代目、あそこの手水舎の横ネ。ウインドブレーカーを着た東洋系の男が、さっきからスタバのアプリ画面を開いたまま、周囲の闇を警戒してるアル」
メイリンが、お団子頭を微かに揺らしながら、暗がりの奥へ鋭い視線を走らせた。
手元にあるスマホの画面では、大須から傍受し続けているスタバのモバイルオーダーログが、規則的なノイズを立てて同期している。
「『ショット追加×7、キャラメルソース追加×4』……。やっぱり、あま市の七宝工芸を示すコード『7・4・0』だわ。あの男、国際窃盗グループの連絡役ね。ここで密輸ブローカーと合流して、盗み出した本物の七宝絵皿を海外へ運び出す手筈なんだ」
おじさんの残した暗号ロジックが、私の脳内で完璧に弾けた。男が周囲を見回し、境内の裏手にある古い蔵が立ち並ぶ路地へと向かって、静かに足を進め始める。
「追うよ、メイリン。足音を殺して」
「了解アル、二代目! 骨の二、三本なら――」「だから破壊も殺しもナシ!」
私が低く怒鳴り、トレンチコートの裾を翻して走り出そうとした、まさにその瞬間だった。
本堂の闇から、傘も差さずに、一糸乱れぬ黒い私服のパンツスーツにベージュのトレンチコートを着た女性が、数名の部下を従えて、まるで夜霧そのものが形を成したかのように真っ直ぐに歩いてきた。
――桐生冴子。
前回の稲沢の事件で上層部の汚職を完膚なきまでに叩き潰し、今や本庁(愛知県警本部)へのキャリアアップを確実なものにしている、稲沢署の刑事課長(警部)――私の、最高にシブくて格好いいお姉さんだった。
彼女の鋭い美貌は、古い境内の薄明かりの中でも、ハッとするほど冷たく、そして凛として佇んでいた。
「……また、私のマニュアル(目の届く範囲)で暴れる気、二代目?」
すれ違いざま、冴子お姉さんは周囲の部下たちには決して聞こえない極小の低い声で、私を冷淡に切り捨てた。「ここは津島署の管轄よ。稲沢の私が出る幕じゃないわ。……警察の邪魔をして怪我でもしてきたら、今度こそそのヨレヨレのコートをハサミで切り刻んで、甚目寺のゴミ箱に捨ててあげるからね、凛」
お決まりの、氷のように冷たい正論の仮面。
だが、すれ違ったその刹那、冴子お姉さんのトレンチコートのポケットから、私の開いたポケットの中へと、カサリと小さく、一枚の紙片が滑り落ちてきたのを、私の指先は確かに感知していた。
彼女たちがそのまま何事もなかったかのように仁王門の方向へと歩み去っていくのを見届けながら、私はポケットの中の紙片を取り出し、街灯の光にかざした。
そこには、広域捜査無線の網から彼女が極秘にブチ抜いたとされる、鋭い筆跡の文字列が残されていた。
『窃盗グループの密輸トラック。あま市七宝町、旧街道沿いの木造倉庫に待機中。ナンバー【名古屋 〇〇・74-00】。発車時刻、19時55分。――行くなら、私に最高のカウンター・オーダーを見せなさい』
「……ありがとよ、冴子お姉さん」
私は胸の奥が熱くなるのを感じながら、紙片を強く握り締め、ユタカさんの待つセダンへと向かって猛烈に走り出した。
冴子お姉さんは管轄違いというルールの死角を突き、あえて自分が境内を巡回することで、周囲に展開していた他の警察車両の目を「甚目寺観音の東側ロータリー」へと合法的かつ完璧に誘導し、私に『七宝町の倉庫への最短ルート』を空白地帯として開放してくれたのだ。
十九時四十分。 朝七時に更新されるシーズン1(おじさん編)で「おじさんが冴子にハメられて逮捕された哀しい過去」の聖地が、夕方更新のこのシーズン2で、私の能動的な正義を運ぶ最強の『バトン』となって、あま市の霧深い夜を激しく疾走し始めようとしていた。




