氷壁の微笑と、冷めきらないココア
深夜二十四時十五分。
愛知機関区の広大な敷地を、再び稲沢署のパトカーが何十台も包囲し、無数の赤色灯の光が夜霧を真っ赤に染め上げていった。
コンテナの影に積まれた空コンテナの山から、逆さまに突き刺さった半グレのリーダーが捜査員たちによって引きずり出されていく。
その瞬間、男の懐から、源さんたちが仕込んでおいた『上層部の隠蔽工作の全内部データ』が、決定的な現行犯の証拠として警察の手へと渡った。
それは、私の描いた三度目の裏のチェス盤が、完璧に嵌まりきった瞬間だった。
私は、自分がここで暴れた形跡(指紋や足跡)を、メイリンの完璧な隠密の立ち回りによって綺麗に消し去っていた。形式的には、桐生冴子が単独の執念でこの襲撃グループのアジトを割り出し、自分を陥れようとしていたキャリア組の不祥事を白日の下に晒した――。
これで、彼女の『刑事課長』としての地位は本庁からも完全に認められ、誰も文句のつけられない昇進コースへの完全復帰が確定する。誰も法を破っていない。ルールの使い方が一番エグいお姉さん刑事のために、二代目の私が一方的にプレゼントした、完璧な合法的正義の大手柄だった。
二十四時三十分。
すっかり雨の上がった愛知機関区の片隅、夜霧に濡れる黒いコンテナの影。
私は、おじさんの大きすぎるトレンチコートに身を包み、冷え切った身体を震わせながらバラスト(線路の砂利)の上にぽつんと座っていた。全身泥まみれで、貨物列車から跳躍した右足の膝が、ズキズキと熱く痛んでいた。
ピトッ。
「……うにゃっ!?」
見上げると、そこにはベージュのトレンチコートの襟を凛と立てた桐生冴子が、呆れたような、だけど最高に誇らしげな微笑を浮かべて立っていた。彼女の細い指先には、自販機で買ってきたばかりの、湯気を立てる一本の温かい缶ココアが握られていた。
「……余計なお節介よ、二代目」
冴子さんは私の隣に腰掛け、その温かい缶を私の手の中に包み込ませると、静かに稲沢の夜空を見つめた。
「あんたが源さんたちと仕組んだあのデータ……。あれのせいで、明日の本署の朝礼は文字通りの地獄絵図よ。上層部のキャリア組の連中、顔を真っ青にして私の課長復帰の手続きを始めてるわ。……全く、豊よりは、ずっと上等で、ずっと可愛げのないハメ手を使うじゃない、凛」
「フン、おじさんは冴子さんのことを冷たい女だって誤解したまま逝っちゃったからね」
私は温かいココアを一口啜り、おじさんのコートの襟をぎゅっと握り締めながら呟くと、冴子さんはふいに、遠い目をして寂しそうに首を振った。
「……いいえ。あいつは、全部知ってたわよ」
「え?」「あの夜、私が豊に手錠をかけた時……あいつ、私に『ワンモアの二杯目のコーヒーは、もうすっかり冷めちまったよ』って言い残したの。私はその時、あいつが私を恨んで言ったんだと思ってた。でもね、今なら分かるわ。あいつは私が裏で自分を逃がそうとしてたことも、そのせいで私が全部の泥水を被って降格されることも、最初からすべて見抜いていたのよ」
冴子さんは、慈しむような目で、私が羽織っている大きすぎるトレンチコートを見つめた。
「『二杯目のコーヒーは冷めた』んじゃない。あいつはね、『自分の分のコーヒー(人生)はもう終わりだから、お前が代わりに、残された凛に温かい二杯目を渡してやってくれ』って、私に最後の特大のお節介を置いていったのよ。……あいつは死ぬまで、最高にへそ曲がりで、最高に私のことを分かってくれていた優等生だったわ」
冴子さんの言葉に、私の胸の奥が、缶ココアの熱さとは違う、痛烈な温かさで満たされていくのが分かった。 おじさんは誤解なんてしていなかった。すべてを知った上で、自分の「深愛」のために上海へ渡り、同時に、残される私のために、冴子さんという最高のお姉さんを「二杯目の温もり」として繋いでいってくれたのだ。
「生意気言うようになったわね、凛」
冴子さんは愛おしそうに手を伸ばすと、私の少し濡れた髪を、本当の妹の頭を撫でるように優しく、何度も何度も撫でてくれた。
「いいわ。そこまで言うなら、これからこの街で無茶をする時は、私のマニュアル(目の届く範囲)の中でやりなさい。あんたの焼く割に合わないお節介のケツは、今度は完全無欠になった刑事課長の私が、合法的かつ完璧に守ってあげるから」
「……うん。よろしくね、冴子お姉さん」




