刑事課長の孤独と、手帳のシミ
名古屋市名東区からさらに西へ、ハゲのユタカ(ゆたカ)さんが運転する黒いセダンは、激しい豪雨が濃い夜霧へと変わった名神高速道路を滑るように西へと突き進んでいた。
車窓の外、街灯の灯りがまばらになり、代わりにどこまでも平坦で果てのない濃尾平野の暗闇が広がっていく。その深い闇の彼方に、稲沢のシンボルである三菱電機の巨大なエレベーター試験塔『SOLAÉ(ソラエ)』が、不気味な一本の槍のようにそびえ立っているのが見えた。 車内を満たすのは、長久手での戦いによる全身の痛みに耐える私の荒い呼吸と、ユタカさんが吸う安煙草の苦い匂い。
そして、私が羽織っている、おじさんのヨレヨレのトレンチコートの重みだけだった。
「凛ちゃん。……手帳の『稲沢』のページ、もう一度よく見てみな」
ハンドルを両手で強く握り締めながら、ユタカさんがバックミラー越しに私に目を向けた。
「豊の奴、冴子を刑事課長の椅子に戻すために、今回は自分の手でとんでもねえ『ハメ手』を遺していきやがったぜ」
私は膝の上で、おじさんが遺したボロボロのシステム手帳を開き、その愛知機関区の欄に挟まれていた、一枚の古いスターバックスのレシートを見つめた。
感熱紙の熱で歪んだ独特の文字列。そこには、おじさんが生前、稲沢の様々な階層の連中に撒いてきた泥臭い「お節介」の記録がびっしりと書き残されていたが、その最下部、おじさんの歪んだ筆跡の横に、小さな『シミ』のような暗号コードがいくつか穿たれていた。
『愛知機関区・ベテラン整備士の源さん。不当解雇と借金トラブル解決。報酬:スタバのドリップコーヒーのベンティ、ブラック。あいつらは、マニュアルより人情を信じる職人だ』
ユタカさんが煙草の灰を窓の外の雨の中に弾き、シブい声を絞り出した。
「凛ちゃん。冴子は前回の事件で無事に刑事課長へ返り咲いた。だがな、面白くないのは『事なかれ主義のキャリア組』の上層部どもさ。自分たちの過去の失点を冴子に暴かれたもんだから、今度はあいつを再び引きずり下ろすために、汚い政治的な罠――冤罪のハメ手を仕掛けてきやがった。冴子は今、組織の中で孤立無援のまま、理不尽な査問委員会へと追い詰められつつある」
ユタカさんの言葉を聴いた瞬間、私の胸の奥で、冷え切ったスタバのブラックコーヒーよりも苦い感情が、激しく沸き上がってきた。
おじさんのためにすべてを失い、ようやく元の場所へ戻れたはずのお姉さん刑事。
マニュアルを誰よりも愛しているからこそ、そのルールの隙間で一番泥臭く誰かを守ろうとする冴子お姉さんが、また組織の汚い天井の下で泥水を啜らされようとしている。
――だったら、今度は二代目の私の番だ。
おじさんの残したこの手帳の絆を全部使って、今度は警察の組織ごと、あいつらの汚いチェス盤をひっくり返してあげる。
「千影さん、メイリン。……準備はいい?」
私が後ろを振り返ると、黒い防水コートの襟を立てた千影が、右手一本で特殊警棒の柄を握り締めながら、その切れ長の目を冷酷な光でギラつかせた。その隣では、車椅子のひなみちゃんの手を優しく握りながら、メイリンが「いつでも大暴れする準備は万端アルネ、二代目!」と、不敵な野生児の笑みを浮かべていた。
おじさんは生前、その隠蔽された本物の捜査資料の原本が、まさにこの愛知機関区の古いコンテナの奥に眠っていることを、完璧に突き止めていたのだ。
出世に目が眩んだ当時の上層部が保身のために握り潰し、そのせいで、今回の失踪事件を引き起こした悪質な半グレたちの野放しを許してしまった、絶対に表に出てはならない組織の歪み。
「ユタカさん。……愛知機関区の裏手へ回り込んで。冴子お姉さんがまた一人で泥水を啜る前に、私が最高にタチの悪い『カウンター・オーダー』を通してあげるから」
車は激しい水飛沫を上げながら、深夜のJR貨物の巨大な車両基地――愛知機関区の漆黒の境界線へと突入していった。
おじさんがかつて、玲那という悪魔を世界の果てへと逃がし、静かに逮捕された、あの因縁の聖地での、二代目の本当の反撃の秒針が、今、激しく動き出そうとしていた。




