二杯目のココアと、番犬の誓い
深夜二十四時四十五分。
すべての機捜の覆面とマフィアの残党を完全に撒ききったハゲのユタカ(ゆたカ)さんの黒いセダンは、激しい豪雨がようやく小雨へと変わった金山総合駅の南口ロータリーへと、静かに戻ってきていた。
赤色灯の禍々しい光に包まれていたあのターミナル駅は、冴子お姉さんの仕掛けた「合法的避難誘導」の魔法が解けたかのように、いつもの静かで、だけどどこか退廃的な名古屋の南のハブ駅の姿を取り戻していた。
車のリアハッチが開き、私は千影さんと共に、ひなみちゃんの車椅子をゆっくりと雨上がりのアスファルトの上へと降ろした。
長久手と金山での連戦によって、おじさんの大きすぎるトレンチコートは泥と硝煙の匂いにまみれ、私の右足の太ももは一歩進むごとに激しい筋肉の悲鳴を上げていた。
強くない私の肉体はとっくに限界を迎えていたが、不思議と、胸の奥には冷めきらない温かい熱が、じっと居座り続けていた。
「凛ちゃん。……これ、お兄ちゃんから聞いたの。おじさんが、私に手渡してくれた、本当の最後のレシピだって」
車椅子の上で、ひなみちゃんが、その白く細い指先で一通の古びたスターバックスのレシートを、私の目の前へとそっと差し出してきた。
それは、おじさんが上海へ発つ前、万が一の時のためにユタカさん経由で『もし千影が妹を救い出したら、凛に渡してくれ』と預けていた、本当の最期の遺言だった。 私は震える指先でその歪んだ感触のレシートを受け取り、街灯の薄明かりの下にかざした。
印字されていたのは、あの心中事件の夜にゲートタワーのカウンターで発券された、おじさんの最後のオーダーログ。
だが、その最下部、感熱紙の熱で今にも消え入りそうな掠れた文字で、おじさんの、あの優しくて最高にへそ曲がりな筆跡が、一文字ずつ丁寧に刻み残されていたのだ。
『凛、千影の妹が笑えていたら、俺の逃し屋の仕事は100点満点だ。紙ストローがふにゃふにゃになる前に、三人で美味いコーヒーでも飲めよ。……二杯目のおかわりは、もう用意してあるからな』
その文字列を目にした瞬間、私の視界が、大粒の本当の涙によって一気に白く濁っていった。
おじさんは、自分が「犯人」として世界から消えるその最期の瞬間まで、残される私のことを、そして自分がかつて泥水を啜らせてしまった千影の兄妹の未来のことを、何一つ忘れてはいなかったのだ。
冴子お姉さんに『温かい二杯目を凛に渡してくれ』とパスを繋ぎ、千影さんには『妹の生存の鍵』を託し、すべての絆を一つに編み上げて、私の手元へと遺していってくれた。
「……大馬鹿野郎だよ、本当におじさんは」
私はトレンチコートの汚れた袖で涙を乱暴に拭い、隣に立つ黒い防水コートの猟犬を見上げた。
千影さんは、妹のひなみちゃんの細い肩を愛おしそうに抱き締めながら、去りゆく列車のレールを見つめるような、酷く深く、そしてどこか救われたような瞳で私を見つめ返していた。
「左神の二代目。……豊の奴が命がけで繋いだこの日常を、私は命に代えても護衛する。奴が遺していった二杯目のコーヒー(お前)を、これからは俺が、この街の最強の番犬として守り抜いてみせる」
「うん。……よろしくね、千影さん。それから、ひなみちゃんも」
ひなみちゃんは、お兄さんのコートの裾をぎゅっと握り締めながら、私に向けて本当に優しくて、温かい微笑みを浮かべてくれた。その瞳には、おじさんが命がけで世界の果てから連れ戻した、本物の日常の輝きが、確かに宿っていた。




