生存コードの裏帳簿(ひなみの暗号解読)
金山駅の真っ赤な非常灯とパトカーの赤色灯が、激しい豪雨の帳の向こう側へと瞬く間に遠ざかっていく。
ハゲのユタカ(ゆたカ)さんがハンドルを握る黒いセダンは、追っ手の機捜の覆面を煙に巻くように、名古屋高速の湾岸線へと一気に駆け上がっていた。
フロントガラスを叩きつける大粒の雨の音が、まるで運命のカウントダウンを刻むように車内に重たく響いている。
「ハァ……、ハァ……、全員、無事だね」
私は、おじさんの大きすぎるトレンチコートに身を包み、折れた肋骨を抑えながら深くシートに背中を預けた。
後部座席の隣には、黒い防水コートの襟を立てた千影が、衣服に染みついた硝煙の匂いを漂わせながら、静かに妹のひなみちゃんの細い手を握り締めていた。
その隣では、メイリンが「もう金山のスタバのパラソルはこりごりアル」と溢しながら、早くも新しいスコーンの袋をカサカサと開けている。
「左神の二代目。……お前が金山に仕掛けたチェス盤、悪くない手際だったな」
千影が、その切れ長の目を少しだけ和らげ、低く掠れた声を絞り出した。
「だが、神楽坂の残党どもは、まだ名古屋のどこかに潜んでいる。先代社長が遺したあの不正データの原本を私たちが握っている限り、奴らの猟犬は何度でも私たちの喉元を噛み切りに現れるぞ」
「……分かっているよ、千影さん。おじさんはね、そのすべての『答え』を、この中に残していってくれたんだ」
私はトレンチコートの奥から、おじさんが遺したボロボロのシステム手帳を再び開き、その金山のページの裏に挟まれていた、一枚の古いスタバのレシートを取り出した。
感熱紙の熱で歪んだ独特の文字列。
そこには、おじさんが上海の決戦へ向かう前、ハゲのユタカ経由で『もし千影の妹が救出されたら、凛に渡してくれ』と預けていた、最後の暗号コードが印字されていたのだ。
「ひなみちゃん、おじさんのこのレシートの数字……、何か見覚えはない?」
私がそのレシートの裏面を提示すると、車椅子のひなみちゃんは、お兄さんのコートの裾を握り締めていた指先をそっと離し、長い睫毛を揺らしながらその数字をじっと見つめた。
そこに書かれていたのは、あのスタバのトッピングシグナル『1・5・2』の文字列と、それに続くいくつかの微細なナンバーの羅列だった。
「……これ、私が上海の地下室に閉じ込められていた時、毎日部屋のスピーカーから流れていた、お父さんの工場の古い機械の『動作ログ(シリアルナンバー)』と同じです」
ひなみちゃんの鈴を転がすような、透き通った声が静かに車内に響いた。
「動作ログ……?」 千影が息を呑む。
「そうよ、千影さん。おじさんが上海で命を賭けてあなたに託した、あの生存コード『1・5・2』。それは、あの『童顔の怪物』である玲那の深層の良心が、あなたのために生かして逃がしたひなみちゃんの居場所だった。
……でも、それだけじゃなかったんだよ。おじさんはね、ひなみちゃんがその部屋で記憶していた機械のナンバーを、スタバの裏帳簿の暗号と組み合わせることで、神楽坂グループの上層部が過去に隠蔽し続けてきた『すべての不正データの本当の保管場所』を、完璧に解き明かしていたの」
おじさんは、騙されている哀れな探偵を完璧に演じながら、玲那の多重人格の歪みと、その奥底にある本当の涙をすべて理解して上海の炎の中に消えていった。
だが、あいつは死ぬその瞬間まで、残される私のために、そして自分がかつて泥水を啜らせてしまった千影の兄妹のために、この完璧な逆転のパス(オーダー)を遺してくれていたのだ。
「左神豊……。お前はどこまで先を見据えて、あの不味いコーヒーの注文を繋いでいたんだ」
千影は、手にしたレシートの裏の暗号を見つめながら、その目元を酷く深く歪めた。
その瞳に、おじさんへの一生返せないほどの深い恩義と、二代目の私を何が何でも守り抜くという、本物の『番犬』としての強い覚悟の火が、青白い猛火となって灯るのが分かった。
「おじさん、見ててね。……三人目の温かいコーヒー(ココア)も、まだ、すっかり冷めちまってなんかいないよ」
私は、大きすぎるトレンチコートの汚れた袖をきつく捲り上げ、窓の外、激しく流れる名古屋の夜景を見つめた。




