氷壁のシステムハック(冴子の合法的避難誘導)
「そこまでだ、動くな! 愛知県警だ!」
地下連絡通路の北側階段から、今度は本物の警察官たちの慌ただしい靴音と怒号が響き渡ってきた。
異変に気付いた一般客の通報か、あるいは逃げ出した掃除屋たちの残党が放った攪乱の110番か。
名東署や機捜のパトカーのサイレンが、金山総合駅の周辺を何重もの赤い光の檻で囲い込みつつあった。
「凛ちゃん、不味いぜ。サツの主力部隊が地下に降りてくる。このままじゃひなみちゃんごと全員パクられるぞ!」
インカムから漏れ聞こえるハゲのユタカ(ゆたカ)さんの声が、かつてないほど焦燥を帯びていた。強くないおじさんなら、ここで再び泥水を啜り、自らが囮となって捕まるシナリオを選んでいたかもしれない。
だが、二代目の私の後ろには、もう一人、最高にへそ曲がりで頼れる『お姉さん』の視線が、警察無線の電波の向こう側から見守っていた。
ジリリリリリリリリリリリリリリリリッ!!!
その瞬間、金山総合駅の全構内に、鼓膜を激しく震わせる非常火災報知器の大音響がけたたましく鳴り響いた。 天井の防火シャッターが重い金属音を立てて閉まり始め、各路線の自動改札機が一斉に緊急開放される。
『火災発生! 火災発生! 利用客の皆様は、直ちに避難してください!』
無機質な自動アナウンスが響き渡り、平和に乗り換えを待っていた何千人もの群衆が、一瞬にしてパニックの濁流となって駅の出口へと殺到し始めた。
「な、何だ、火事か!?」「避難しろ!」
ドッと押し寄せる群衆の肉の壁が、地下へ降りようとしていた機捜の私服警官たちの進路を強引に塞ぎ、彼らを木の葉のように揉み流していく。
これこそが、稲沢署の刑事課長に完全復帰した桐生冴子が、金山駅の防災システムマニュアルを逆手に取って仕掛けた、二度目の【合法的システムハック(避難誘導)】だった。
彼女は『金山駅構内にて不審な発煙、および有毒ガスの可能性を検知』という、事実に基いた正当な防災手続き(アラーム)を指令室の端末から起動させただけだ。
火災報知器が鳴れば、マニュアル通りに改札は全開放され、一般客の安全確保のために警察官は避難誘導に回らなければならない。
冴子さんは法を何一つ破らず、ただルールの死角を完璧に突いて、名東署の目を旅客ホーム側へと偏らせ、私たちに『西の南口ロータリーへの退路』を完璧な空白地帯として開放してくれたのだ。
「……さすがは冴子お姉さん。ルールの使い方が一番エグいわ」
私はおじさんのコートの襟をバッと立て、インカムに向かって叫んだ。
「千影さん、ひなみちゃんの車椅子を押して! メイリン、南口の非常口へ走るよ!」
「任せるアル、二代目! パパの部下たちの射線も、この煙と人混みなら完璧に見失うネ!」
メイリンが鉄製の超大型パラソルを床に放り出し、千影と共に車椅子の両脇を固めて、非常灯の真っ赤な残光が渦巻く地下通路を猛烈な速度で駆け抜けた。
バタン、と重厚な鉄扉の非常口を蹴り開けて外へ飛び出すと、そこには激しい雨の降りしきる南口ロータリーの隅に、ハゲのユタカさんの黒いセダンが、激しいエンジン音を響かせてリアハッチを跳ね上げて待機していた。「凛ちゃん、早く乗りなッ! 冴子の奴が作った三分間の空白、一秒だって無駄にするんじゃねえぞ!」
俺とメイリン、そして千影がひなみちゃんの車椅子を車内へと手際よく滑り込ませ、全員がシートへと飛び込む。ユタカさんはドアが閉まりきるよりも早く、アクセルを床まで踏み込んだ。
タイヤが空転し、強烈な水飛沫を上げながら、タクシーは追っ手のパトカーがロータリーへ滑り込んでくるよりも早く、夜の金山駅の闇の彼方へと猛烈な速度で脱出していった。
バックミラーの向こう、真っ赤な非常灯と赤色灯の光に染まる金山駅のシルエットが遠ざかっていく。




