ジャンクの壁と、空手の時間
大須赤門通りの交差点。雨脚はさらに激しさを増し、アーケードの屋根を激しく打ち付けるドラムのような音が、辺りの喧騒をかき消していた。
おじさんのヨレヨレのトレンチコートの襟を立て、私はユタカさんの個人タクシーを降りた。
マウンテンパーカーを羽織っていた昨日までとは違う。身体に馴染まない、タバコと古い埃の匂いが染み付いたこの重い布地が、今の私の、探偵としてのたった一枚の防弾チョッキだった。
「凛ちゃん、気ぃつけな。シンさんのジャンク屋はあの路地の奥だ。……表通りには、大麻の受け渡しルートを嗅ぎ回る半グレの目が、すでにいくつも光ってやがるぜ」
運転席のユタカ(ゆたカ)さんが、窓を少しだけ開けて声を落とした。
ハゲの頭に雨粒を光らせながらも、その目は、かつておじさんの背中を守り続けた「もう一人のユタカ」としての鋭い色を帯びている。
「分かっているよ、ユタカさん。……メイリン、位置は?」
耳の奥のインカムに指を触れると、ザザッ、と激しいノイズの向こうから、最高に破天荒で生意気な声が返ってきた。
「すでに赤門通りの電柱の陰に潜伏中アル、おじさんの姪っ子! 半グレの雑魚ども、スタバのプラストローの隠語を使って、女子高生に怪しいパウダーを売りさばいてるネ! いつでも怪力で電柱ごとブン抜いてぶちのめしてあげるアル!」
「殺しと破壊はナシ。それがうちの事務所の信条でしょ」
私は小さくため息を吐き、おじさんの古いシステム手帳の感触をポケットの奥に確かめながら、薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。
大須の路地裏は、昼間でも光が遮られた混沌の吹き溜まりだ。剥き出しの配電盤や、赤錆びたシャッターがひしめく狭い通路を歩いていると、突如として、前後の暗がりから、だぼだぼのパーカーを着た若者たち数人が、音もなく私の退路を塞ぐようにして現れた。
手には、鈍く光るバタフライナイフや金属バットが握られている。
「おいおい、見慣れないコートを着たネズミが紛れ込んできたな。……それ、神楽坂をハメて消えた、あの『左神豊』のコートだろ」
先頭の半グレの男が、下卑た笑みを浮かべてナイフの刃をカチカチと弄んだ。
「お前が二代目の小娘か。おじさんの残した裏のデータと、大須のルートの権利、全部ここに置いてってもらおうか。拒否するなら、その可愛い顔に新しい傷を追加してやるよ」
万事休す――普通の新米女子大生探偵なら、ここで恐怖に震えて涙を流す場面だろう。
だが、おじさんは「強くない探偵」だったが、私は違う。
おじさんが街の『人情』で外回りを埋めてくれるなら、私はその信頼を背負って、物理的に悪党を叩き潰すための、最強の『盾と矛』になるためにここにいるのだ。「……ユタカさん、シンさんの『お節介のレシート』、今ここで使わせてもらうよ」
私がポケットの無線機のスイッチを深く押し下げた、まさにその瞬間だった。
バリバリバリバリバリッ!!! という、鼓膜を激しく引き裂くような大出力の高周波ノイズが、大須の薄暗い路地裏全体に爆音で鳴り響いた。
「な、何だこの音は!?」
「耳が、耳が痛えっ!」
半グレたちが一斉に耳を押さえてうろたえ、バタフライナイフを路上に落とす。
路地裏に面した、シンさんのジャンクショップのシャッターが勢いよく跳ね上がり、そこから骨董品の巨大な真空管アンプと、大出力の拡声器のスピーカーが何台も突き出されていた。
「野郎ども! 左神の旦那の姪っ子に手ぇ出してんじゃねえぞコラァッ!」
白髪交じりのシンさんが、ハンダゴテを握り締めながら大声で怒鳴り散らす。
おじさんがかつて、命がけで無償で守り抜いた大須のジャンク屋の職人たちの『人情の壁』が、完璧なタイミングで警察無線の偽装ノイズを撒き散らし、半グレたちの連携を一瞬にして完全麻痺させたのだ。
「――メイリン、道をあけて!!」
私が叫ぶと同時に、アーケードの影からチャイナドレスを揺らしたメイリンが躍り出た。
「了解アル、凛! 殺しはしないけど、全員まとめてスタバのゴミ箱の刑ネーッ!!」
メイリンが素手で掴み取った路地裏の大型の鉄製ゴミ箱をブン回し、左右の半グレ二人を不殺の怪力でまとめて壁のシミへと薙ぎ払っていく。
残されたのは、先頭のボス格の男一人。
男はノイズに耳を狂わせながらも、形振りの構えで金属バットを私の脳天へ向けて振り下ろそうとした。
「……ここから先は、私の空手の時間だから!」
私はおじさんの大きなトレンチコートの裾を鮮烈に翻し、軸足を深くバラストへと踏み込んだ。フルコンタクト空手で骨の髄まで叩き込まれた、一切の迷いのない一歩。
――チェストォォォッ!!
私の放った電光石火の上段ろ後ろ回し蹴りが、男の構える金属バットごと、その顎の先端を完璧な破壊力で捉えた。
バキィィィン! という激しい肉体の激突音が路地裏に木霊し、男の巨体は放り投げられた泥人形のように、数メートル先の山積みにされた不法投棄のゴミ箱の中へと、派手な音を立てて逆さまに突き刺さった。
一撃での失神。
「……ふぅ。おじさんのコート、やっぱりちょっと動きにくいな」
私は乱れた息を整えながら、大きすぎるコートの袖を少しだけ捲り上げた。
周囲には、シンさんをはじめとする大須の住人たちが一斉に集まり、「よくやった二代目!」「旦那にそっくりだぜ!」と、温かい歓声を私に浴びせてくれていた。おじさんが過去に撒いた泥臭いお節介の種は、現在の私の手の中で、最高に熱くて頼もしい『絆』として、完璧に覚醒していた。
私は、おじさんの遺した古い手帳を再びポケットに収め、ふにゃふにゃになったスタバの紙ストローを噛み締めるような、苦くて、だけどどこか誇らしい気持ちのなかで、大須の混沌の空を見上げた。
二代目・左神凛の最初の事件簿は、この街の日常を守るための、鮮烈な回し蹴りと共に、今、最高の幕を開けたのだ。




