車椅子の妹と、寡黙な黒コートの兄
金山総合駅の地下連絡通路。
地上ロータリーの喧騒が嘘のように遠ざかるその場所は、蛍光灯の青白い光がコンクリートの床を冷たく照らす、薄暗い迷宮の入り口だった。
家路を急ぐ通勤客の足音がペタペタと反響するなか、私はおじさんの大きすぎるトレンチコートの裾を気にして、一段ずつ階段を駆け下りた。
モバイルオーダーの暗号『1・5・2』が示した、地下の死角。
曲がり角の先、一般客の足取りが途絶えた清掃用具入れの陰に、それはあった。
「……動くな。神楽坂のデータをどこに隠した」
衣服の下に重厚な拳銃の感触を隠した、漆黒のスーツを纏う男たち三人。上海の地から命からがら名古屋へと逃げ延びてきた、神楽坂グループの真のプロの掃除屋(暗殺者)たちだ。あいつらは、先代社長の不正データのすべてを握っているとされる『ある兄妹』を抹殺するため、この金山の地下を猟犬のように嗅ぎ回っていたのだ。
その銃口が向けられていたのは、壁際に追い詰められた一台の車椅子。
そこに座っていたのは、少し顔色は白いが、編み込みの髪を優しく揺らした小柄な少女だった。
彼が――あの猟犬が命がけで上海の地獄から救い出した、実の妹のひなみ(雛実)ちゃん。
彼女は銃口を突きつけられながらも、怯えるどころか、ただ静かにその長い睫毛を伏せて、雨の地下通路の匂いを嗅いでいるようだった。
「待ちなさい、悪党どもッ!」
私が叫びながらトレンチコートを翻して通路へ躍り出た、まさにその瞬間だった。
――ヒュウゥゥゥッ! という、大気を真っ二つに切り裂くような、剃刀のような風切り音が、薄暗いコンクリートの空間に鋭く轟いた。
「――我が家の番犬に、気安く銃口を向けるな」
地獄の底から響くような、低く冷徹な声。
掃除屋の一人が引き金を引くよりも早く、通路の天井の梁の死角から、黒い防水コートの裾を激しく翻した男が弾丸のように舞い降りてきた。
千影だ。
彼はあの日、おじさんが上海で命を賭けて託してくれた『血染めの領収書』の裏のコードを解き明かし、最愛の妹を無事に救出していた。
衣服を泥と血で汚したかつての凄惨な形相は消え失せ、今の彼の瞳には、おじさんへの返せないほどの深い恩義と、妹を絶対に守り抜くという、静かな、しかし絶対の執念が宿っていた。
キィィィィンッ!!! と高い金属の悲鳴が響き、千影の右手から音もなく振り抜かれた特殊警棒の完璧な打突が、先頭の掃除屋の持つ拳銃を鮮やかに宙へと弾き飛ばした。
拳銃はコンクリートの床を激しく転がり、排水溝の奥へと消えていく。
「左神の豊の……二代目か」
千影は警棒を構えたまま、その切れ長の目で、おじさんのヨレヨレのコートを羽織る私の姿を鋭く捉えた。
そのコートのポケットの奥、おじさんの古い手帳には、千影自身の筆跡で『俺の命に代えてもマーク(護衛)する』と誓いが刻まれている。
彼は、妹を救ってくれたおじさんへの恩を返すため、今度は私がこの街で無茶をする時の、最強の『番犬』になるためにここへ駆けつけたのだ。
「お兄ちゃん、お友達?」
車椅子のひなみちゃんが、お兄さんのコートの裾を白く細い指先でぎゅっと握り締めながら、私に向けて本当に優しくて、温かい微笑みを浮かべてみせた。
「ああ。……豊の奴が遺していった、最高にへそ曲がりな、二杯目の温もりだ」
千影は低く呟き、特殊警棒の柄を握り直した。
おじさんが命がけで繋いだ『152』の生存コード。そのパズルピースが、数ヶ月後の現在、金山駅の地下で最高の再会となって結実した。
しかし、銃を弾き飛ばされた掃除屋たちは、異変を察してインカムで地上の仲間たちへ応援を要請し始めていた。
「豊のおじさんの姪っ子! 地上のロータリーから、さらに何人も黒スーツがなだれ込んできたアル!」
階段の上から、フラペチーノの空コップを持ったメイリンが叫んだ。
おじさんの残した最高の絆である千影とひなみ。
この二人を守り抜くため、新米探偵と上海の野生児、そして最強の猟犬による、金山駅の雑踏を舞台にした『最強のトリプル・バディ』の全面戦争の秒針が、激しく火花を散らしながら動き出そうとしていた。




