第9話 安らかな狂気
時は少し戻り、アレフの施設見学が終わった頃になる、
見学は滞りなく進み、予定より大分早い正午前には終わっていた。
その後は魔力強化体第二大隊宿舎の食堂で昼食の予定だったが、食堂が開く時間には少し早かった。
食堂が開くまで間、アレフはそこらで適当に時間を潰すつもりだった。しかし案内役のイリスが多少早くても大丈夫と言ったため、少し早めに向かう事にした。
見学場所から魔力強化隊第二大隊隊舎へ戻った時、入口には20名以上もの隊員達が立っていた。
彼等はアレフの帰りを待っていた様で、彼を見つけるなら我先へと押し寄せてきた。
これにアレフは当惑した。
彼等から恨み買うような事をした覚えはない。しかし戦闘で彼等の上司を倒した事実もあり、そのお礼参りの可能性もあり得る、とアレフは内心身構えた。
予想は裏切られた、良い意味で。
「「「ありがとうございました!」」」
受けたのは次々と掛けられる感謝の言葉だった。
「・・・・えっ?」
アレフは思わず間の抜けた声を漏らしていた。
彼等はアレフに治療された者達で、そのお礼を言うために待っていたのだった。
アレフは治療した事を完全に忘れていた。正確には治療で感謝されるとは思ってなかったので、完全に頭から抜け落ちていた。
確かに彼等の顔には見覚えがある。中には瀕死の重傷だった者もいる。
「そうか、元の身体に戻れたのか。良かった」
彼等の無事な姿を前に、アレフは安堵の息を漏らしていた。
「俺のこと覚えていますか?噛み切られた右腕を治してもらった者です。本当にありがとうございました!」
そう言うと、まだ幼さの残る男は右腕をブンブンと振り回した。
「覚えている。元通りに直すのに大変だったが、後遺症もないようで安心した。体を大事にしてくれ」
「私はお腹を治してもらった者です。もしまた怪我もしたら、どうか治療して下さい」
そう言って腹部をさする若い女性だったが、それを見るアレフは困ったように苦笑した、
「その場にいれば直すと約束するが、必ずしもそうなるは限らない。まずは、負傷しないよう気を付けて欲しい」
「あのあの!」
「俺は!」
次々と掛けられる言葉に、アレフは引きつり気味の笑顔ながらも丁寧に応対するが、その度にイリスの顔が少しずつ険しくなっていた。
「あのですね、私は」
「いい加減にして下さい!アレフさんもお疲れなんですよ。そろそろ解散して下さい」
いつまでも途切れない感謝の嵐に、とうとうイリスの堪忍袋の緒が切れた。
その瞬間、これまでの喧騒が一瞬で静まりかえった。
「あの・・・すいませんでした。これからもよろしくお願いします」
皆が申し訳なさそうに俯く中、代表らしい女性隊員が謝罪すると、他の者も次々と謝罪を始める。
そしてイリスが睨みつける中、隊員達はまだ名残惜しそうにその場を立ち去った。
何度も振り返って頭を下げる隊員達を見つめながら、アレフは静か微笑んでいた。
「これかもよろしく、か。苦手だな、この手の歓迎は」
そう言うと、アレフは眩しそうに目を細めた。
「苦手だったのですか・・・いきなり押し寄せて申し訳ありませんでした」
しみじみとした様子のアレフにイリスが悲しげに顔を寄せてきた。
「誤解させてすまない。不快ではない、ただ慣れてないだ。生来恨みつらみの世界に浸かりすぎたせいだろうな。感謝される感覚が、どうにもくすぐったい」
アレフが首を振り、静かに微笑んだ。
「あの!もしお気になることがありましたら、遠慮なくおっしゃって下さい。妹のイデアもアレフさんには凄く感謝していますから!だから私、アレフさんに少しでも恩返しをしたいのです」
「・・・君達は眩しいな」
「えっと、すいません、私には普通だと思うのですが、何か目にご病気でもお持ちなのですか?」
「気にしないでくれ。明るいのが苦手なんだ、私には暗い場所の方が性に合うようだ」
首を傾げるイリスの笑顔に、アレフは静かに微笑み返した。
・
ようやく食堂の前までに来たアレフ達だったが、中はまだ準備中だった。
イリスが厨房を覗いて見ると、中では中高年の女性達が忙しそうに料理の盛り付けをしている。
「少し早すぎましたね。まだ準備中ですが、中には入れますので、お席で待ちましょうか」
「そうさせてもらいたいが、迷惑にはならないのか?」
「大丈夫ですよ、行きましょうか」
イリスは少し困った表情で頷くと、アレフを促し食堂の中へと入った。
イリスと共に椅子に座ったアレフだが、その表情は疲れた様に沈んでいた。
「あのお疲れでしょうか?戻って休まれますか?」
「問題ない、気にしないでくれ」
アレフを心配してか身を乗り出して覗き込むイリスに、アレフは断る様に静かに手を振った。
「もし先程の隊員達の件が迷惑でしたら、今後は控えるよう私から言い伝えておきます」
「いや、それは遠慮願いたい」
アレフは意外そうに目を開くと、ゆっくりと首を振った。
「個人的な話だが、純粋な感謝な感謝を無下にするのは、失礼極まりないと思っている」
「分かりました。でも、先程からお顔の色が優れないようです。本当に大丈夫でしょうか」
「・・・ここは知らない土地だからな、少し不安になっていたようだ」
アレフが疲れた様に天井を見つめると、弱々しく吐息を漏らした。
「不安ですか・・・えっと、どうしましょうか?」
打開策が思いつかないイリスは、申し訳なさそうに俯いてしまった。
「気にしないでくれ。単に根が小心者なだけだ。慣れるまでの辛抱だ、時が解決してくれる」
うつ向くイリスを慰めようと、アレフは不器用に笑い掛けた。
「無駄に長生きだけはしてきたが、この不器用な性格は治せなかった。色々と割り切れば楽なのにな。情けない性分だ」
「えっと・・・情けなくはないと思いますよ。アレフさんは小心者というより、慎重で思慮深いのだと思います」
「そういう考え方もありか」
イリスの指摘に、アレフは妙に感心した様子でうなずいた。
「それにしてもアレフさんって、どう見ても20代前半ですよね?長生きという程のお歳でもないと思いますが?」
「話が伝わってなかったか・・・予想はしていたが、まあそうなるな」
アレフは申し訳なさそうな顔で頭を掻いた。
「これでも三千歳を超えている。正確な歳は忘れたが、大体それぐらいだ」
「えっ?」
驚きイリスを前に、アレフは静かにため息を吐いた。
3000歳という年齢の事は、ディーファ達にも話してはいた。しかしあまりに荒唐無稽過ぎて、信じてもらえていなかった。
だから年齢は真偽不明として、イリスに伝わなかったのだろう。
「からかわないで下さいよ」
冗談と受け取ったのか、イリスは愉快そうに笑い始めた。
やはりイリスにも信じてはもらえていない。
「三千歳だなんて、普通の人がそんな長く生きられる訳ないじゃないですか」
「普通のつもりだが・・・普通ではないのかもしれない、認めたくないが」
落ち込むアレフの前では、イリスが目に涙を浮かべて笑っていた。
「いくらあたしでも騙されませんよ。本当は何歳なのですか?」
「本当だ。生まれは紀元前1000年ごろのバルニア地方で、当時の」
「あっ!食堂のおばさんが手を振ってますよ」
アレフの説明は呆気なく打ち切られた。
イリスの興味は、アレフの実年齢より、食事の方が優っていた、
「食事の用意ができたみたいです。行きましょうか」
イリスは給仕係の女性へと元気よく手を振ると、説明途中のアレフを残して行ってしまった。
「・・・まあ、うん、そうなるな」
子犬の様にトコトコと歩くイリスを眺めながら、アレフは寂しそうに呟いた。
いつの間にか、その表情から疲れた様子は消えていた。
・
アレフの食事の受け取った食事は、率直に言ってかなり貧相だった、
対してイリスの食事はそれなりに上質で、アレフのものとは量、質とも明らかな差があった。
そんな不公平に対し、アレフは不平を言わないどころか、嫌な顔すらしなかった。そうなるべき理由を察していたからだ。
それは決して差別ではない。軍人と民間人との間に設けられるべきの、当然の区別でしかない。
この魔力欠乏症で平均気温が低下したこの星では、食糧生産量は激減し、慢性的食糧不足に陥っている。
そんな状況下では、どうして供給が軍隊に優遇され、そのしわ寄せが民間へと回される。
これは国家が生き残るためには仕方のないことだと、アレフは味に染みて知っていた。
だからイリスに出された軍隊用の食事は、高栄養食のそれなりに良いものだった。
良質な穀物で作った白い蒸餅
野菜と肉入りの煮込み汁
そして、ひき肉を葉野菜で包んだ煮物の三品
この星の食糧事情を考えれば、相当に贅沢な内容だと思われた。
対して、アレフは軍隊には所属していないため、出された食事も当然民間用の食事で、イリスに比べかなり貧相なものだった。
雑穀を焼いた赤茶けた硬い蒸餅
臭みのある干し肉と萎びた野菜が入った塩味の煮込み
そして、おまけ程度に添えられた根菜の塩漬の三品
質も良くないが、それ以上に量が少なく、成人男性の必要な量には全く足りないものだった。
・
申し訳なさそうにするイリスの前で、アレフは気にする様子も見せずに食事を摂り始めた。
別にイリスを気遣ったからではなく、本当に気にしていなかった。
しかしアレフはそうでも、イリスの方が気にせずにはいられなかった。
「すいません、軍の優遇とかで、どうしても私達の方が良い食事になってしまうのです」
「どうか頭を下げるのをやめて欲しい。そこらの事情は重々承知している」
何度も頭を下げるイリスに対し、アレフは片手を挙げてこれを止めさせた。
「国を守る者が優遇されるのは当然だ。それ以前に、私は捕虜の身だ。食事があるだけで有難い」
「いえいえ、アレフさんを捕虜扱いだなんてとんでもないです。私の食事と交換しますね」
「ご厚意だけ受け取っておこう。決められた食事を摂り、体を育て維持する、それも君の義務だ」
気遣うイリスの申し出を、アレフはやんわりと断った。
「あ、ありがとうございます。でも、それならアレフさんだって良い食事が必要です。次からはアレフさんにも同じ食事が出るように手配しておきますね」
「気持ちは有難いが、そちらも遠慮させてもらおう」
今度はやんわりとではなく、断固として断った。
「軍隊とは規律を厳守しないといけない組織だ。他に示しがつかなくなる」
「でも、それでは申し訳がなさすぎます」
「正直なところ、充分満足している。いつもすすってる甘苦い泥汁に比べれば、この食事は幾万倍もご馳走だ」
「えっと泥汁?泥を飲むのですか。あの・・宇宙を旅なさっていたと伺ってますが、その様な物しかなかったのですか?」
「・・・世の中には食事を栄養補給としか考えない奴もいてな、そいつに食事を任せた結果、大惨事になった」
アレフは鎮痛な面持ちで額を押さえた。
「私の船に食料供給装置があるが、それを作った奴が、とにかく味必要な栄養があれば良し、味など知らんという考えでな、結果生まれたのが泥臭い甘水だ」
「はあ・・・それは大惨事でしたね」
「毎日が苦痛だった、この星に来たのも、とにかくまともな食事を摂りたかったらだ。久々のまともな食事を摂らせてもらえて、実は涙が出るほど感動している・・のだか・・・」
しばらく続いていた愚痴を、アレフは怪訝な表情で打ち切った。
その時、彼の視線は入り口へと向けられていた。
「嫌な視線だ。私に・・ではなさそうだな」
鋭く向けられた視線の先には、陰湿な眼差して見つめる軍服姿の男達が立っていた。
・
入り口にいたのは、齢50程の恰幅の良い小柄な男と、その護衛役らしき2名の男達だった。
「これは失礼しました」
イリスは驚いた顔で立ち上がると、男達に向けビシリと敬礼を向けた。
「サイカ魔導国中央軍第二都市ウェネス方面派遣、ウェネス防衛隊隊長ボルガン・ネオ様、本日はどのようなご用件でしょうか?」
「・・・ふむ」
敬礼に対して敬礼を返すのが礼儀だが、ボルガンと呼ばれた男は敬礼を返さない。
明らかに見下すようイリスに視線を向けた。
「はあぁ、良い身分だよなあ、兵器風情が先に食事とは」
「も、申し訳ないありません。私は」
「言い訳など聞きたくない、黙ってろ」
ボルガンは小腹を左右に揺らせながら、のっそのっそとイリスへ歩み寄ってきた。
「下賎な兵器の分際で、こんなに早い飯とはどう言うつもりだ?今も汗水垂らして働く人間様に対して無礼だとは思わんのか」
「あ・・あの・・・」
何も答えられないイリスは、怯える子犬の様に小刻みに身体を震わせていた。
「質問してるのだぞ!さっさと答えんか!」
震えるイリスに自尊心が満たされたのか、ボルガンは下卑た笑みを浮かべていた。
「なんだ?返事もろくにできんのか!所詮は道具、人間様とはまともな会話などできんか?」
「も、申し訳ありません・・・」
「ふんっ!愚図が!」
「申し訳ありません・・・・」
ねちねちと続くボルガンからの侮辱を、イリスは涙目で堪えていた。
アレフはその様子を見ながらも何もしなかった。ただ無言のまま淡々と食事を続けていた。
そんなアレフに気付いたのか、ボルガンは怪訝な表情で指を指した。
「何だお前は?お前、どう見ても人間だな?どうして下賎な兵器なんぞと飯を食ってるのだ。恥ずかしくはないのかね?」
「食事中だ、少し静かにしてくれ」
一瞬アレフの食事を摂る手が止まったが、すぐに食事が再開された。
「貴様!我が輩に命令するか!」
アレフは何も動じない。
それがボルガンの怒りを即発させた
「我が輩はサイカ魔導国の建国に貢献した栄光ある名家ネオの次期当主筆頭にして、都市の実質第二位だぞ!無礼であろうが!」
「そうか」
顔を紅潮させ怒鳴り続けるボルガンだったが、やはりアレフは何の反応も見せない。
ただ淡々と食事を続けていた。
「おい、お前!」
「・・・」
「返事をせんか!」
「・・・」
やはり返事はない。
カチャン、とアレフが匙を置いた甲高い音だけが響いた。
「おい!何とか言ったらどうだ!」
「食事中と言ったはずだ」
アレフの返答は、恐ろしい程に冷たく、そして低い声だった。
瞬間、空気が変わった。
誰もが異常を感じた。まるで空気自体が凍りついた様な寒気に、皆がその身を震わせた。
それがアレフから放たれる気配と察し、辺りは冷たく重い空気に膠着した。
「ボルガンと言ったな?何故邪魔をする」
「なっ!」
怒りで顔を真っ赤にしたボルガンが、全身をワナワナと震わせた。
幸か不幸か、ボルガンだけは気が付かない。辺りの異様な空気と、それに皆が怯えていることに。
普通の感覚があれば嫌でも分かるだろう。
今この場に獅子がいて、自分はただの哀れな兎でしかない事に。
しかしボルガンにはその感覚が欠如していて、それはあまりに致命的だった。
「無礼な奴め!お、お、お前はどこの誰だ!」
「北のトールテッドの族長を思い出す。あいつとのやりとりは、退屈極まる貴族どもに比べ、なんと楽しかったことか。こんな低俗なやりとりは久方ぶりだ」
アレフは獰猛な笑みを浮かべた、しかし目の奥は笑っていない、まるで肉食獣のような笑みだった。
「はあ?何を言ってる、貴様は馬鹿か?」
「名前だったな、アレフ・バンデットだ。ああ、お前は名乗る必要はない。無作法者には何の価値もないからな」
「貴様!我が輩を侮辱するか!」
「誤解だな、お前では侮辱する価値もない。名は告げたぞ。食事の邪魔だ、去れ」
「貴様!」
「あの!お話の途中に申し訳ありません」
アレフとボルガンの間に、慌てたイリスがその身を割り込ませた。
「小娘が!邪魔をするな!」
ボルガンは不機嫌な表情でイリスを睨みつけた。
「この方は都市長マリニア様が招聘された客員です。どうか御容赦を」
「はあ?マリニア様だと!この無礼者がどうしてだ!」
マリニアの名が出た途端、ボルガンの顔に明らかな動揺が浮かんだ。
「詳細につきましては極秘となります。マリニア様直々に、絶対に無礼をがないように、と仰せつかっております。どうかご理解をお願いします」
「ちっ・・ならば仕方がない。おいアレフとやら、マリニア様に免じてお前の無礼は許してやる。次はないぞ」
ボルガンはよほど悔しいかったのか捨て台詞を吐いた後もギリギリと歯ぎしり続けていた。
「ありがとうございます。ところでボルガン様、本日はどのようなご用向きでこちらにいらっしゃられたのでしょうか?よろしければ、こちらで大隊長に取り次がせて頂きますが」
「はんっ!そんなもんいらんわ!」
ボルガンは荒々しく鼻息を鳴らした。
「これは抜き打ちの査察だ。隊警どもにも言ってあるが、ディーファの小娘には伝えるなよ」
「・・・りょ・・了解しました」
限界まで顔を寄せるボルガンに、イリスは震え声で返事をした。
ボルガンは、怯えるイリスの全身を嘗め回すように見つめると、唇の端を吊り上げ笑った。
「ところでお前、今晩は空いているか?」
予期せぬボルガンの言葉に、イリスに困惑の表情が浮かんだ。
「え?・・・あの、申し訳ありません、お言葉の意味が良く理解できないのですが・・・」
全身を小刻みに揺らして怯えるイリスに、ボルガンは男はにやけ顔で詰め寄った。
「察しの悪いメスだ!今夜、吾輩の夜伽をしろと言ってるのだ。どうだ?悪いようにはせんぞ?」
それは抵抗が出来ないイリスへの完全な脅迫であった。
ボルガンは動けなくなったイリスの肩に右手を置くと、残る左手で彼女の胸を弄り始めた。
「いえ・・あの困ります。どうかご容赦を・・」
イリスは涙目で懇願するが、ボルガンは胸を弄る手を一向に止めなかった。
「なんだ!まさか吾輩に逆らうのか!どうなるのか分かっているのか!命令無視は大罪だ!責任はお前だけじゃない!この隊全体の責任となるぞ!」
「あの・・・そんな・・・私は・・・」
「覚悟しろ。我が輩の宝でお前たちなんぞいくらでも処分できるのだからな!それが嫌なら今晩私の相手をしろ!これは命令だ!」
「うるさい輩だ」
それは突然だった。
立ち上がったアレフが、ボルガンの胸ぐらを掴み上げていた。
「つまらん男だ。今少しやり取りが楽しめると思ったが、色事に走るとはとんだ期待外れだ。いや、それはまあどうでも良い。肝心なのは、お前が戦友を侮辱したことだ。とても許せんよ」
冷たく低いアレフの声が、静まり返る室内に響く。
「放せ無礼者が!これは我が輩とこいつ問題だ。関係ない奴は引っ込んでろ!」
「では、関係とやらを作ろう。顎だ、歯を食いしばれ」
次の瞬間、アレフの右拳がボルガンの顎を殴り上げた。
ヒラヒラとボルガンが舞っていた。
誰もが呆然とする中、脂肪で膨張した冗談のようにヒラヒラと宙を漂うと、放物線を描き落下した。
ガチャン、と食卓の上に落下した音、やや遅れて背中を打ったボルガンの鈍い呻き声が響いた。
「ぐあああ!」
ボルガンの巨体の下敷きになった食器と料理が散乱し、その上で悲鳴を上げたボルガンがのたうち回った。
「これで関係が出来た。お互い心置きなく分かり合える、嫌でもな」
そこに目を光らせたアレフがゆっくりと歩み寄ってきた。
「私は外様だ。本来なら人様の事情に口出しはしない。だが、戦友が辱めを受けたのなら話は別だ」
彼はボルガンの胸倉を左手で掴み、天井に向け軽々と持ち上げた。
「獣に言葉は通じまい。ならば痛みを持って罰としよう。あとは彼女に謝罪し、二度と手を出さないと誓え。それで手打ちだ」
「ぐっ!離せ!この野郎!」
宙吊りにされ両足をバタつかせるボルガンが、何とか胸倉を掴むアレフの手を引き離そうとする。
しかしその手は万力のように締められ、幾ら暴れようと微動だにしなかった。
「うるさい!こんな事をしてどうなるか分かっているのだろうな!」
「あまり汚い言葉を話すな、耳が汚れる」
アレフは心底嫌そうな口調で吐き捨てると、右手でボルガンを高く放り投げた。
「ぐぉぉぉぉ・・・・」
再び宙を舞うボルガン
今度は背中から床に叩きつけられ、ボルガンは再び情けない悲鳴を上げ、床の上をのたうち回った。
この時になり、呆然としていた護衛の男達がようやぬ我に帰った。
そしてボルガンへと駆け寄った。
護衛達に抱えられるボルガンに、アレフは冷ややかな視線で突き刺した。
「痛い?この程度、彼女が受けた心の痛みに比べれば、万分の一にも及ぶまいに」
ボルガンは恐怖で全身を震わせながらも、上擦る声でアレフへと怒鳴りつける。
「この落とし前は高くつくぞ!」
「自身の咎で他者を裁くなよ。私を裁きたければ地獄で待っていろ。どちらも天国とは程遠い身だ、いずれ会えよう」
ボルガンの震えながらの脅迫に、アレフはまるで動じなかった。
戸惑うボルガンの姿を、アレフは無感情な瞳で見下していた。
「謝罪は諦めた。イリスに二度と手を出さないとだけ誓え」
「だ、黙れ!この無礼者が!」
怒りに全身を振るわすボルガンに、アレフは感情のない瞳で笑う。
「簡単な事だぞ、なぜ出来ん?無駄な誇りが邪魔をするか?」
「ふざけたことをぬかすな!」
「ふざけた?それはお前自身のことだよ。私はお前の鏡、お前の行いが、私をお前の様に動かす。鏡のように写してな。私の無礼とはお前自身のものだ」
「はあ!訳の分からんことを!」
「ふふ・・・ははは、やはりお前は良いな。同類に出会うと心動く。ゴミはゴミ同士、共に暗闇と泥水がお似合いだ」
「なっ・・・なんだこいつは」
淡々と語るアレフに、ボルガンは気圧されて後退りしていた。
もはや抗う気力を失ったボルガンは、代わりに震え声で黒服の護衛隊へと命じる。
「お前たち、何をしている!さっさとこの男を叩きのめせ!」
「しかし・・・」
上司たるボルガンの命令に、護衛達は従わない。
彼らの顔には、顔に当惑の表情が浮かび上がっていた。
「この方はマリニア様の客員です。手出しをすれば、マリニア様のご不興を買いかねません」
「ええい!マリニアなど、どうとでもしてやるわ!我が輩がこうも虚仮にされたのだぞ!これはこのウェネスが!いやサイカが攻撃されたも同然だ!さっさとこの男を叩きのめ、いや、殺せ!」
「はっ、はい!」
「私を殺すと?やってみせろ、私もそれに倣おう。だから殺されても恨むなよ?」
ようやく動こうする護衛達、そこにアレフの冷たい視線が彼等を射抜いた。
「私は鏡だと言った。礼には礼、無礼には無礼、死には死を持って返す」
それはとても静かな、しかしぞっとする程に低く、殺意に満ちた声だった。
ただの冷たい眼力が、それだけでボルガン達の心を束縛した。
殺意の冷たい圧力、そしてこみ上げる凍りつく恐怖、
心も身体も震え上がり、もはや瞬きすら叶わなかった。
「自身を弁えるのは臆病とは違う。恥じるな、誰も責めんよ」
動けない護衛に対し、アレフは冷笑を浮かべ歩き出す、ゆっくり、ゆっくりと。
迫り来る死の権化を前に、誰もが振るえずにはいられなかった。
シェイド達が駆け付けたのは、その時であった。
・
「なんてこった・・・やばい、やば過ぎる」
呆然とするクリス達の中で、ようやく声を絞り出したのはジェイドだった。
彼の目には、氷のような微笑を浮かべるアレフと、気の毒な程に震えるボルガン達、そしてその光景を涙目で見つめるイリスの姿が写っていた。
「ボルガンの馬鹿が、眠れる化け物を起こしやがったか」
シェイドは静かに怒りの声を上げた。
何が起きたかは容易に想像できた。
ボルガンがイリスに性的な嫌がらせをしそれにアレフが怒ったのだろう。流石に具体的に何か起きたかまでは分からないが、概ね想像通りだろう。
理解は容易だ。しかし解決は難しい。
どちらの機嫌も損ねずに、この場を納めなければならない。それは至難の業だろう。
「出たとこ勝負だが、やるしかねえよな」
意を決したシェイドは、真っ先にはアレフへと駆け寄っていた。
シェイドはアレフの耳元に口を寄せた。
「アレフさん、もしかしてボルガン様がイリスに何か失礼をしたのでは?それであなたが殴ったのですね?」
シェイドは下手に出て、アレフの良識に賭けることにした。と言うよりも、それしか手段がなかった、
胸の中で必死に祈るシェイドだが、対するアレフは無言で頷くも、ボルカンヘの鋭い視線を外さなかった。
何一つ変化しない緊縛した状況に、シェイドは固唾を飲んだ。
「あなたを見込んでお願いがあります。どうか謝って下さい。形だけで構いません」
「理由を聞こう」
「ボルガンは私達を罰する力があり、このままでは罰せられるならです。イリスを助けてくれた事は感謝します。ですが殴ったのは悪手でした。何とか治めますから、どうか形だけでも謝罪して下さい。お願いします」
「悪くない妥協案に思えるかもしれないが、それは下策だ」
「はぁ?」
シェイドの表情が一瞬で怒りの形相へと変わった。
「アレフさん!あんた、何やったのか分かってんのか!良い恰好したかったのだろうけど、そのせいでこっちは大迷惑なんだよ!」
突然豹変したシェイドに、しかしアレフは涼やかな表情を崩さない。
「迷惑は承知している。処罰も受ける。だが、それでもこれは見逃してはならない」
「んな事ぁ分かっている!だが、これまで何度もあって、その度に何とかしてきたんだ!だから余計な真似をするな!迷惑なんだよ!」
それは悲鳴に近いほどのシェイドの訴えだった。
アレフは視線をボルガン達からシェイドへと移した。
「これから何度同じことを繰り返す?何人の隊員を泣かす?それは本当に正解か?」
「違うっ!俺は!」
アレフを睨みつけるシェイドは、激しく歯軋りをした。
その瞳には憎しみと、悲しみが浮かんでいた。
「犠牲者はいない。これからだって」
「イリスは泣いていた」
「それは・・・」
「次は誰を差し出す?」
「止めろ!」
「汚物は放置すれば腐敗を他に広げる。どこかで断ち切るべきだ」
そう言うとアレフは鋭い視線を再びボルガン達へと視線を向けた。
その時、僅かに状況が変わっていた。
アレフが視線を外した時、ボルガンは密かに動いていた。
いつの間にかボルガンは、胸元から取り出した短銃をアレフに構えていた。
「よくも恥をかかせてくれたな!死刑だ!お前はこの場で射殺する!」
ボルガンは震えながら短銃の撃鉄を上げるが、それを見るアレフは冷ややかに笑っていた。
冷たい沈黙が辺りを支配し、誰もが動けなかった。
「ははははは!いや楽しい!」
突然の笑い出したのはアレフだった。
銃口を突きつけられ、それでも彼は愉快そうに笑った。
「クソッタレな神々に感謝する。ここは私には勿体ない眩し過ぎる場所だ。だからお前の様な同類がいて助かった!」
皆が、ボルガンすら呆然とする中、アレフは愉悦の笑みを浮かべ嗤った。
「ボルガン、さあ殺し合いを始めよう。私は鏡、お前が殺すのなら、私もまたお前を殺そう」
嗤い続けるアレフが、突きつけられた銃口へと歩き始めた。
「さあ撃て。構わんぞ、遠慮なく撃て。それをもって宴の狼煙としよう」
「ひぃぃぃ・・・・」
ボルガンは動けなかった。
迫りくる確実な恐怖に全身が震え、動きたくても動けなかった。
「撃たんのか・・・つまらん」
そんなボルガンの姿を、立ち止まったアレフが冷ややかに見つめていた。
「そこまでだ!」
突然、甲高い女性の声が食堂中に響き渡る。
誰もが振り返る視線の先にはディーファと、そして声を主である都市長マリニアがいた。




