第八話「ラスティ・ネイル」
「あ、ここいいじゃん。入ろうよ」
金曜日の二十一時過ぎ。少し高めの女性の声が店内に滑り込んできた。
「いらっしゃいませ」
いかにも丸の内あたりのオフィス街で働いていそうな女性が、二人連れで入ってきた。一人はベージュのトレンチコートを綺麗に着こなし、もう一人は流行りのツイードジャケットを羽織っている。
上着をお預かりしようと私が一歩前に出ると、トレンチコートの女性が、私の顔を見て目を見開いた。
「え? 嘘、燈?」
よく知っている声だった。毎日、百貨店のきらびやかなフロアで、互いのメイクをチェックし合い、お局の先輩たちの愚痴を言い合っていた、あの声。
「……佳奈?」
百貨店時代の同期、小林佳奈だった。
部屋の暗がりでタイムラインを流していた時、佳奈のアカウントだけを、私は指で飛ばし続けていた。
「やっぱり燈じゃん! え、何これ、ここで働いてるの!? 連絡全然つかないから心配してたんだよ!」
佳奈は顔を輝かせ、私の両手を掴まんばかりの勢いで身を乗り出してきた。私は一瞬で、口角を左右均等に引き上げていた。目尻を少し下げて、申し訳なさを一滴だけ混ぜる。三年間で叩き込まれた正解の顔の、喜ぶ時の型だった。
「久しぶり。ごめんね、スマホの調子が悪くて連絡途絶えちゃって。こんなところで会うなんて、すごい偶然」
調子が悪かったのは、スマホじゃなくて私の方だったというのに。
「ちょっと、燈がバーテンダーなんてびっくり! あ、でも制服のシャツ、BAの時のだよね? 懐かしいー!」
佳奈は楽しそうに笑いながら、連れの女性と並んでカウンター席に座った。そこからは胃のあたりが冷えたままだった。
二人はメニューを開き、近況を語り始める。私は月乃さんに目配せをして、注文を取る役を買って出た。自分の過去から逃げ出すわけにはいかない、という妙な意地があった。
「私、実は先月結婚したんだよね」
佳奈が左手の薬指を突き出してみせる。小ぶりだが質の良さそうなダイヤモンドが、店の灯りを弾いた。
「うわあ、綺麗! おめでとう。本当に良かったね」
私は手を叩き、心から祝っているような高い声を出した。
「ありがとー。それでさ、旦那の転勤で引っ越すことになって、私も思い切って転職したの。大手の化粧品メーカーの総合職。BAの経験が評価されてさ、今度は店舗じゃなくて、マーケティングのほうに関われるんだよね。あ、それから転職活動中に色彩検定の一級も取ったんだ」
私がカーテンを閉めきった部屋で夕方まで眠っていた間も、佳奈は働いて、次の場所へ移っていたのだ。私は夜のバーの片隅で、他人のグラスを洗っている。拭き終わった一つを、まだ拭いていた。顔には何一つ出さずに。
「すごいよ、佳奈! 一級なんて、働きながら取るの大変だったでしょ。本当に尊敬しちゃう」
完璧なタイミングで相槌を打ち、驚いてみせる。空いたグラスには、言われる前に水を足す。
連れの女性が「黒田さんも、ここでバーテンダーなんてお洒落でかっこいいですね」と言った時も、「いえいえ、私はただの見習いですから」と、そつのない返事をした。
二十三時を過ぎて、佳奈たちは「また来るね!」と満ち足りた笑顔で店を出ていった。ドアベルの音が消えないうちに、頬の筋肉が重力に従ってすとんと落ちる。足元がまたあの大理石の床に変わった気がした。
午前三時半。閉店作業が終わり、ジャズも止めたあとの店に、私はまだ座っていた。バックヤードの入口の椅子に、エプロンも外さないまま。カウンターの中で売上を数えていた月乃さんが、こちらを見ていた。
月乃さんが、スコッチウイスキーのボトルを棚から下ろす。もう一本は、古めかしいラベルの琥珀色のリキュールだった。ドランブイ。ハーブとスパイスと、はちみつを使ったスコットランドのリキュールだ。
ロックグラスに大きな丸氷を入れ、二つの液体を注ぐ。バースプーンを差し込んで、氷を軽く回した。カラン、と氷が鳴って、一杯ができあがる。月乃さんはそれを、私の座っている椅子のすぐ横、カウンターの端に置いた。
「私、お酒は……」
「分かってるよ。飲めないのは知ってる。だから、飲まなくていい。匂いだけでもさ」
月乃さんは、そう言って自分のグラスにはウーロン茶を注いだ。私は、カウンターの端のグラスを両手で持った。大きな丸氷の冷たさが、手のひらに伝わってくる。
顔を近づけると、煙たい匂いの奥から、はちみつの甘さが来た。
「なんのカクテルですか、これ」
「ラスティ・ネイル」
月乃さんは、自分のウーロン茶を口にしながら答えた。
「錆びた釘って名前なんですね、これ」
「そう。イギリスの古い俗語で『古めかしいもの』って意味もある」
月乃さんは、自分のグラスの結露を指先でなぞりながら続けた。
「錆びた釘なんて、普通は捨てるでしょ。でも、壁に打ってあれば、上着くらいは掛けられるんだよ」
「……一口だけ、舐めてみてもいいですか」
「いいよ。強いから気をつけて」
私はグラスを傾け、ほんの数滴だけ舌の先に乗せた。それだけで、焼けるような熱さと苦味が広がった。ハーブの香りが鼻に抜ける。
苦い、と思った直後だった。そのすぐ後ろから、とろりとした甘さが追いかけてくる。苦くて痛いのに、最後は甘い。
「……美味しいです。すごく、苦いけど」
「まあ、大人の味だからね」
月乃さんは口の端を上げると、私の手からグラスを取り上げた。
翌日は土曜日で、店はそこそこ混んでいた。大野さんは、子どもが熱を出したとかで休みだった。
二十二時を回った頃、ドアベルが鳴る。私が一番苦手な、あの常連の男だった。仕立てのいいジャケットを着た、不動産会社の社長。今夜も隣には新しい女性がいた。二十代前半だろうか、おとなしそうな女の子だ。男はカウンターの中央に腰を下ろすなり、我が物顔で語り始めた。
「ここはね、隠れ家なんだよ。俺くらいじゃないと使いこなせない店でさ。今日は特別に連れてきてあげたんだ」
女の子は小さくなって、「あ、ありがとうございます」と笑った。私は、売り場の笑顔を貼り付けて二人の前に立った。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか」
「俺にはいつものマッカランをロックで。彼女には、そうだな、適当に甘くてアルコールの弱いやつ。どうせお酒の味なんて分からないだろ?」
男は女の子の顔を見もせずに言った。女の子は唇を噛んで、うつむいた。
月乃さんが黙ってマッカランを注ぎ、女の子のためにノンアルコールのカクテルを作り始める。酒が入るにつれて、男の声は大きくなっていった。
「君さ、普段どんな仕事してるの? へえ、事務職? つまんない仕事だね。その垢抜けない格好もさ、俺がアドバイスしてあげようか?」
女の子の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。瞬きをしないように、目の前のグラスの縁だけを見ている。
カウンターの下で、ダスターを握る手に力が入った。布地が指の間でねじれていく。
売り場で教わった通りなら、ここで「まあまあ、お客様、彼女も緊張されてるみたいですし」と笑って間に入り、話を濁すのが正解だった。相手は金払いのいい常連客だ。
私は、握りしめていたダスターをカウンターに置いて、一歩前へ出た。口角はもう上げなかった。
「お客様」
私の低い声に、男が不機嫌そうに話を止めて、私を睨みつけた。
「何だよ、嬢ちゃん」
私は男の目を見据え、一言ずつ区切って言った。
「もう来ないでいただけますか」
ほかの席の話し声が、ぴたりと止んだ。男は、何を言われたのか分からないという顔で、口を開けて私を見ていた。隣の女の子も、涙の溜まった目で私を見上げている。
「は? お前、今なんて言った?」
男の顔がみるみる赤黒く染まっていく。私は何も言い足さなかった。
接客業としては完全に失格。一発でクビになってもおかしくない。男は椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。
「お前、客に向かって何て口叩いてんだ! 店長! おい、店長! この女、今すぐクビにしろ!」
男がカウンターの奥の月乃さんに向かって怒鳴り散らす。月乃さんは、磨いていたグラスをそっと棚に戻すと、普段通りの平たい声で言った。
「スタッフの言う通りです。お会計、マッカラン一杯分で二千円になります」
男の喉が、言葉にならない音を立てた。店長にまで突き放されるとは思っていなかったのだろう。懐から財布を引っ張り出すと、一万円札を一枚、カウンターに叩きつけた。
「二度と来るか、こんな店!」
そう吐き捨てると、男はジャケットの襟を乱暴に直して、足早に店を出ていく。
隣の女の子は少し迷ってから、私に向かって深く頭を下げた。扉へ向かう顔は、入ってきた時よりも、ずっと明るく見えた。
バタン、と重たい扉が閉まる。私はその場に立ち尽くしていた。心臓が速くて、息の吸い方が分からない。やってしまった。常連を一人、追い出したのだ。
ゆっくりと振り返り、月乃さんの顔を見る。クビを覚悟して、体をすくませた。
「……っ、くふふ」
月乃さんは片手で顔を覆って、肩を揺らしていた。
「あはははは! 最っ高!」
月乃さんはカウンターをバシバシと叩きながら、涙が出るほど笑っている。私は呆気にとられて、ただ立っていた。
「怒って、ないんですか?」
「なわけないじゃん。あのオヤジ、前からうざかったんだよね。女の子が変わるたびに同じ蘊蓄たれてさ。あー、すっきりした。しかも一万円札だよ。八千円もお釣り置いてくなんて、太っ腹なクレーマーだね」
月乃さんは涙を拭いながら、カウンターの一万円札をレジにしまった。
胸に当てた手のひらを、鼓動が内側から叩いている。
「次のお客さん、来ちゃいますから。片付けますね」
「よろしく、名バーテンダー」
私はカウンターを拭き始めた。エプロンのポケットの中で、スマホが一度だけ震える。休憩に入ってから見ると、佳奈からだった。
『昨日はありがとう! 今度、昼にゆっくり会えない?』




