第九話「ミモザ」
返信するまでに、三日かかった。
佳奈からのメッセージは、何度も開いては閉じた。文面は短くて、悪意など一つも含まれていないのに、返事を打とうとすると、一文字目が決まらない。
三日目の夜、片付けの途中で、月乃さんの背中に声をかけた。
「あの、月乃さん。昼って、暇ですか」
「昼は寝てる」
「ですよね。私、同期に、ご飯誘われてて」
月乃さんはグラスを一つ磨き終えて、棚に戻した。
「行きな。夜職の人間は、たまに昼を見とかないと感覚が壊れるから」
その日の帰り道、私は歩きながら返信を打った。
『こちらこそありがとう。来週の火曜とかどう?』
十二月の半ばの、火曜日の午後一時。待ち合わせの駅の出口を抜けると、冬の日差しが目に刺さった。眩しい。
十月の半ばからずっと、日が落ちてから働いて、白み始めた頃に眠る生活をしている。太陽の下を歩くのは、ハローワークに行ったあの日以来かもしれなかった。歩く速さが分からなくて、何度も人にぶつかりそうになる。
クローゼットの前でさんざん迷った末に着てきたのは、結局、あの白いブラウスだった。
「あかりー! こっちこっち!」
横断歩道の向こうで、佳奈が手を振っていた。
佳奈が選んだのは、路地に面した小さなビストロだった。昼から酒を出す店らしく、窓際の席には、明るいうちからワインを傾けている人たちがいる。
「ここね、ランチが美味しいの。前に会社の人に教えてもらって。今日は代休だから、昼から飲んじゃおう」
メニューを開きながら、佳奈は迷いなく言った。
「私、ミモザにする。燈は?」
「私は……」
アルコールの欄を飛ばして、ソフトドリンクのところを見る。
「オレンジジュースで」
「え、お酒飲まないの?」
「うん。飲めないの、私」
佳奈がぱちりと瞬きをした。
「知らなかった。三年も一緒にいたのに」
「まあ、言ったことなかったからね」
飲み会には毎回出ていた。乾杯の一杯だけ手に持って、あとはずっとウーロン茶。誰にも気づかれなかったし、気づかれないように振る舞っていた。
運ばれてきた二つのグラスが、並べて置かれる。佳奈のミモザは、淡いオレンジ色の中を、細かい泡がまっすぐに立ち上っている。私のグラスは、同じ色をしていて、泡だけがない。
佳奈は新居のことや新婚旅行のことを話し、私は頷いて聞く。佳奈はよく笑ったし、話もうまかった。私も、相槌のタイミングを外さない。三十分のあいだ、二人とも、あの夜と同じことをしていた。
ミモザのグラスが半分になった頃、私は自分のジュースを一口飲んで、それから言った。
「あのさ、佳奈」
「うん?」
「この間の夜、家に帰ってから、佳奈のアカウント全部遡った」
佳奈は、持ち上げかけたグラスをテーブルに戻した。
「流れてくるたびに飛ばしてたのに、あの日は朝までスクロールしてた。結婚式の写真も、入社日のも、資格の合格通知も、全部」
「……えっと」
「ごめん。気持ち悪いよね」
「いや、そんなことは」
「あの夜さ」
私はテーブルの木目を見ていた。
「佳奈の話聞きながら、ずっと嫌な気持ちだった。おめでとうって言いながら、全然おめでたくなかった。……羨ましかったの」
言いながら、声が少しかすれた。
「ちゃんと言っておかないと、また嘘の顔で会うことになるから」
店内の音が急に大きく聞こえた。誰かのフォークが皿に当たる音と、厨房の声。佳奈はそのあいだ、口を開かなかった。
「あのさ」
佳奈は、グラスの脚から指を離した。
「私、今の会社、たぶん向いてない」
「え?」
「入って、まだ一ヶ月半なんだけどね」
佳奈の口の端が持ち上がって、すぐに下りた。
「私、現場を知ってるからって採られたの。BA経験者が欲しいって。だから会議でも、どんどん意見出してくださいって最初に言われて」
「うん」
「言ったよ。ちゃんと言った。でも、誰も使わないの」
佳奈は指先でグラスの縁をなぞっていて、その内側を泡が一列、まっすぐ上がっていく。
「そうですね、貴重なご意見ですね、参考にします、って。毎回それ。で、結局プロパーの人たちが決めたやつがそのまま通るの」
「そっか」
「あと、数字が読めない。エクセルも、みんなが当たり前に使ってるやつが分からない。でも、経験者採用だから、今さら聞けなくて。夜中に家で調べてる」
佳奈は俯きながら続ける。
「旦那の転勤で、埼玉の奥のほうに引っ越したでしょ。百貨店の遅番だと、家に着くのが十一時近くになっちゃうんだよね。会社なら定時で帰れる。それで辞めるって決めた時に、みんなに言ったの。次はマーケティングやるんだって。すごく大きい声で言った」
その先を、私は聞かなくても分かった。
「だから、今さら、しんどいって言えない」
佳奈は顔を上げ、私を見た。目の縁が赤くなっていた。
「資格もね。二回落ちてるの、あれ」
「……見た。三度目の正直って書いてあった」
「そう。あれ書くの、めちゃくちゃ迷ったんだよね。でも、二回落ちたこと隠して受かった顔してるほうが、なんか、しんどくて」
私はグラスを両手で包んだ。冷たい。先月、カウンターの客に、辞めていい、の一言がどうしても言えなかった。
「佳奈、無理してない?」
三年間、毎日隣にいたのに、一度もかけたことのない言葉だった。私はいつも、相手が言ってほしそうな言葉を選んで口にしていた。
佳奈の目から、涙がこぼれる。彼女は慌ててナプキンを掴み、鼻の上を押さえた。
「やめてよ、化粧してるのに」
「ごめん」
「ううん」
佳奈はナプキンで目のあたりを押さえたまま、なかなか顔を上げなかったが、やがて鼻をすすって笑った。
「してるよ。めちゃくちゃ無理してる」
「うん」
「誰にも聞かれないんだもん。旦那にも、実家にも言えないし。会社の人には、絶対言えないし」
「うん」
「燈が最初」
何を返しても嘘になる気がして、私は黙っていた。二杯目のミモザが来た頃には、佳奈の目の赤みは、だいぶ引いていた。丸めたナプキンが、皿の脇に残っている。
「ねえ、これって何が入ってるの?」
彼女はグラスの脚を持って、ミモザを見た。
「シャンパンと、オレンジジュース」
「え、それだけ?」
「うん。半分ずつ」
私は自分のグラスを、隣に並べた。
「だから、私が飲んでるのは、これの半分」
佳奈が声を上げて笑った。
「なにそれ」
「ミモザって、花の名前なんだって。黄色いふわふわした」
「知ってる。あれ好き」
佳奈は二杯目に口をつけた。店を出たのは三時前。冬の日差しは、来た時よりも低くなっていた。駅までの短い道を、私たちは並んで歩いた。
「あ、そうだ。佐藤ちゃん、まだいるよ」
一瞬、歩く速さが落ちた。
「そう、なんだ」
「私が辞める時に挨拶したんだけど、元気そうだった。相変わらずおどおどしてたけど」
佳奈は前を向いたまま続けた。
「燈のことも気にしてたよ」
返事をするまでに、何歩か歩いた。
「今度、連絡してみるよ」
「そっか」
改札の前で、佳奈は手を振った。
「またね。今度はちゃんと燈のお客さんとして行くから」
「うん。待ってる」
人混みに紛れていく背中を、見えなくなるまで見送った。
帰りの電車は空いていて、窓の外は、まだ明るかった。ビルの間から西日が差し込んで、車内の床に細長い四角を落としている。
私はスマホを出し、佐藤とのトーク画面を開いた。一番下には、辞めた日の夜に届いた二通が、返事のないまま残っている。私は何度も文字を打ち直した。
『返信できなくてごめん。元気にしてる?』
結局送れたのは、あの夜、打っては消していた一行に、謝る言葉を足しただけのものだった。
既読はすぐにはつかなかった。仕事中だろう。佐藤は今頃、あのフロアの照明の下に立っている。
私はスマホを伏せ、窓の外を見た。電車が川を渡る。水面の照り返しが車内に入ってきて、眩しさに目を細めた。
二日後の朝、佐藤から返事が来た。
『元気です』
スタンプも、絵文字もついていなかった。




