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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
第三章
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第十話「エッグノッグ」

 インターホンが鳴って、目が覚めた。午後一時。寝起きの掠(かす)れた声で応答すると、宅配の人だった。


 玄関に運び込まれた段ボールは、両手で抱えなければ持ち上がらない重さがあった。伝票の品名欄には『食料品』とだけ書いてある。差出人の欄には見覚えのある字。母のものだ。角ばっていて、少し右に傾いている。備考欄に、小さな字で一行、書き足されていた。


『みかん、下の方につぶれたのが入ってるかも。すぐ食べて』


 ガムテープを剥がすと、みかんの匂いが立ち上った。箱の半分はみかんで、残りの隙間に、乾燥わかめと切り干し大根、インスタントの味噌汁、レトルトのカレー、缶詰がいくつか詰めてある。貼るカイロが三十個と、ドラッグストアで買ったらしい胃腸薬も入っていた。


 どれも、私が好きなものだった。カレーは辛口。味噌汁はあおさのやつ。缶詰はさばの水煮で、味噌煮ではない。母は私が味噌煮を食べないことを知っている。


 みかんは、下のほうに確かに一つ、潰れたのが入っていた。私はそれを取り出して、シンクの上で皮を剥く。汁が指を伝った。


 その日の夕方、シフトに入る少し前に、電話が鳴った。


『燈(あかり)? 仕送り届いた?』

「届いたよ。こんなにありがとうね」

『みかん、大丈夫だった?』

「一個だけ潰れてたけど、もう食べたよ」

『そう。よかった』


 母の声は、記憶の中よりも細くなっていた。歳を取ると声は痩せるのだと、いつか誰かに聞いた気がする。


『ちゃんと食べてるの?』

「うん。食べてるよ」

『お米は炊いてるの? パンばっかりじゃないでしょうね』

「まさか、自炊頑張ってるよ」


 嘘だった。炊飯器は、引っ越してきた日から一度も使っていない。


『あのね』


 母はそこで少し言い淀(よど)んだ。


『あんた、今、どうしてるの』

「働いてるよ」

『そう。ならいいの』


 詳しく聞きたいに決まっているのに、母はそれを飲み込んで、こうして荷物を送ってくる。そのことが胃の底をじわじわと重くした。


『お正月は、帰ってくるの?』

「……分かんない。お店が休みかどうか、まだ聞いてない」

『そう。無理はしなくていいのよ。瑠依(るい)はね、たぶん帰ってこないって。年末年始も撮影なんですって。忙しいのねえ、あの子も』


 来た、と思った。悪気はない。母は、二人の娘の近況を、ただ順番に喋っているだけだ。片方が忙しいという話をしたら、もう片方にもその話をする。


 耳の奥がじんと熱くなった。あの子も、と母は言った。私も忙しいことになっているらしい。


「そっか」

『燈も、体だけは気をつけて。夜のお仕事なんでしょう。ちゃんと寝てる?』

「寝てる」


 会話が途切れた。用件が終わっても、母はしばらく黙って回線を繋いだままにしている。


『あ、そうそう』


 不意に、母が言った。


『段ボールの一番下に、ナツメグ入れといたから』

「ナツメグ?」

『そう。スーパーで見かけて、なんとなく』

「なんで、ナツメグ」

『あんた、昔あれ好きだったでしょう。クリスマスに作ってた、あの卵の』


 私は電話を持ち直した。クリスマスイブの夜、母が台所で作っていた、白くてとろりとした飲み物。卵と牛乳と砂糖を鍋で温めて、最後に茶色い粉を振りかける。熱くて甘くて、舌に引っかかるような匂いがした。


「あれ、なんで作らなくなったの」


 できるだけ軽い声で、私は聞いた。


『え?』

「エッグノッグ。いつからか、作らなくなったよね」


 母が黙った。


『なんでだったかしらねえ』


 本当に思い出せない、という声だった。


『瑠依の受験の年に、バタバタして作れなかったのは覚えてるけど。……そのまま、じゃないかしら』


 やめようと決めた人は、たぶん誰もいない。一度飛ばして、それきり。私は、なぜ作らないのと聞かなかった。聞かない子どもだった。


『あんた、あれ好きだったのにねえ』

「うん」

『お母さんもね、あれが好きだったの』

「え?」

『お母さん、お酒飲めないでしょう。お父さんがワインを開けてる横で、子どもと一緒にシャンメリーっていうのも嫌でね。あれなら、お酒みたいな顔して飲めるから』


 母は笑っていた。


『瑠依はシャンメリーのほうがよかったみたいだけど、あんたは毎年あれを待ってたから。二人ぶん作れば済んだのよ』


 電話が切れたあとも、私は玄関に立ったままだった。


 私が酒を飲めないのは、体質だ。ほんの少し口に含んだだけで、顔が赤くなって、こめかみが脈を打つ。大人になった瑠依は、父に似て飲める。飲めないのは母と私だけだった。


 父と瑠依がグラスを鳴らしているテーブルで、自分だけがマグカップを持たされている。子どもの頃のクリスマスを、私はずっとそういうふうに覚えていた。母がどこで何を飲んでいたのかは、覚えていない。


 段ボールの底に、ナツメグの小瓶がある。私はそれを、バッグに入れた。


 その夜、閉店作業を終えたあとで、私は月乃(つきの)さんに聞いた。


「エッグノッグって、うちにもあるんですか」

「あるよ。マイナーだけどね」


 月乃さんはエプロンの紐を解いて、フックに掛けた。


「うちでは、ブランデーかラムを入れる」

「入れなくても、作れますか」

「作れるよ。もともとは酒の入った飲み物だけどね。家で作るなら、入れないほうが普通でしょ」


 月乃さんがこちらを向いた。


「作る?」

「いいですか」

「いいよ。卵、冷蔵庫の下段」


 私はバッグからナツメグの小瓶を取り出した。卵を割り、黄身だけをボウルに落とす。砂糖を加えて、白っぽくなるまで泡立て器で混ぜる。小鍋に牛乳を入れて、火にかける。


 一度目は牛乳を温めすぎた。卵に注いだ瞬間に黄身が固まって、ざらざらした粒が浮く。


 私は鍋を洗い、もう一度、最初からやり直した。今度は火を弱くして、鍋の縁に小さな泡が立ち始めたところで止めた。少しずつ、糸のように細く注いでいく。ゆっくり混ぜる。


 とろりとした白い液体が、カップの中で揺れている。最後に、ナツメグを振る。茶色い粉が水面に散って、そこから、あの匂いが立ち上った。


「できました」

「うん」


 私は二つのカップを作っていた。一つを月乃さんの前に置く。


 月乃さんはカップを引き寄せると、バックバーからブランデーを下ろした。とぽとぽと注ぎ足す。


「……入れるんですね」

「そりゃ入れるでしょ」


 月乃さんは湯気を吹いて、一口飲んだ。


「いいね。優しい味」

「でも、違うんです。子どもの頃に飲んでたのとは、何かが違う」


 味は間違っていないはずだった。卵と牛乳と砂糖とナツメグ。それ以外に何も入っていないのに、あの夜のものとは何だか違う。


「砂糖、何使った?」

「え? そこにあったやつです」

「グラニュー糖ね。家で作るなら上白糖でしょ」


 拍子抜けした。ひと匙の愛情とか、そんなことを考えていた自分が恥ずかしくなる。


 月乃さんはカップを持ったままカウンターを回り込んで、客席の椅子に座った。私が来てから、閉店後に月乃さんが客側へ座ったことはたぶん一度もない。


「座りなよ。もう終わりでしょ」


 私は自分のカップを持って、一つ空けた隣に座った。カウンターはこちら側から見ると低かった。


「昔、母が作ってたんです。クリスマスだけ」

「へえ」

「母も、お酒が飲めない人で。毎年、母と私の二人ぶんだったんです」


 月乃さんはブランデー入りのカップを傾けた。喉が鳴る音がした。


「実家、どこ」

「千葉です。電車で……一時間くらいだったかな」

「近いじゃん」


 それきり、何も聞かれなかった。


「年末年始って、お店どうなるんですか」

「三十一日から三日まで休み」

「月乃さんは、どこか行くんですか」

「ここにいるよ」


 私は横顔を見た。月乃さんはカップの底を覗き込んでいて、こちらを見ていない。


「掃除するの。年に一回、冷蔵庫全部出して。あれやんないと一年終わんないんだよね」


 残りを飲み干して、月乃さんは立ち上がった。

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