第十話「エッグノッグ」
インターホンが鳴って、目が覚めた。午後一時。寝起きの掠れた声で応答すると、宅配の人だった。
玄関に運び込まれた段ボールは、両手で抱えなければ持ち上がらない重さがあった。伝票の品名欄には『食料品』とだけ書いてある。差出人の欄には見覚えのある字。母のものだ。角ばっていて、少し右に傾いている。備考欄に、小さな字で一行、書き足されていた。
『みかん、下の方につぶれたのが入ってるかも。すぐ食べて』
ガムテープを剥がすと、みかんの匂いが立ち上った。箱の半分はみかんで、残りの隙間に、乾燥わかめと切り干し大根、インスタントの味噌汁、レトルトのカレー、缶詰がいくつか詰めてある。貼るカイロが三十個と、ドラッグストアで買ったらしい胃腸薬も入っていた。
どれも、私が好きなものだった。カレーは辛口。味噌汁はあおさのやつ。缶詰はさばの水煮で、味噌煮ではない。母は私が味噌煮を食べないことを知っている。
みかんは、下のほうに確かに一つ、潰れたのが入っていた。私はそれを取り出して、シンクの上で皮を剥く。汁が指を伝った。
その日の夕方、シフトに入る少し前に、電話が鳴った。
『燈? 仕送り届いた?』
「届いたよ。こんなにありがとうね」
『みかん、大丈夫だった?』
「一個だけ潰れてたけど、もう食べたよ」
『そう。よかった』
母の声は、記憶の中よりも細くなっていた。歳を取ると声は痩せるのだと、いつか誰かに聞いた気がする。
『ちゃんと食べてるの?』
「うん。食べてるよ」
『お米は炊いてるの? パンばっかりじゃないでしょうね』
「まさか、自炊頑張ってるよ」
嘘だった。炊飯器は、引っ越してきた日から一度も使っていない。
『あのね』
母はそこで少し言い淀んだ。
『あんた、今、どうしてるの』
「働いてるよ」
『そう。ならいいの』
詳しく聞きたいに決まっているのに、母はそれを飲み込んで、こうして荷物を送ってくる。そのことが胃の底をじわじわと重くした。
『お正月は、帰ってくるの?』
「……分かんない。お店が休みかどうか、まだ聞いてない」
『そう。無理はしなくていいのよ。瑠依はね、たぶん帰ってこないって。年末年始も撮影なんですって。忙しいのねえ、あの子も』
来た、と思った。悪気はない。母は、二人の娘の近況を、ただ順番に喋っているだけだ。片方が忙しいという話をしたら、もう片方にもその話をする。
耳の奥がじんと熱くなった。あの子も、と母は言った。私も忙しいことになっているらしい。
「そっか」
『燈も、体だけは気をつけて。夜のお仕事なんでしょう。ちゃんと寝てる?』
「寝てる」
会話が途切れた。用件が終わっても、母はしばらく黙って回線を繋いだままにしている。
『あ、そうそう』
不意に、母が言った。
『段ボールの一番下に、ナツメグ入れといたから』
「ナツメグ?」
『そう。スーパーで見かけて、なんとなく』
「なんで、ナツメグ」
『あんた、昔あれ好きだったでしょう。クリスマスに作ってた、あの卵の』
私は電話を持ち直した。クリスマスイブの夜、母が台所で作っていた、白くてとろりとした飲み物。卵と牛乳と砂糖を鍋で温めて、最後に茶色い粉を振りかける。熱くて甘くて、舌に引っかかるような匂いがした。
「あれ、なんで作らなくなったの」
できるだけ軽い声で、私は聞いた。
『え?』
「エッグノッグ。いつからか、作らなくなったよね」
母が黙った。
『なんでだったかしらねえ』
本当に思い出せない、という声だった。
『瑠依の受験の年に、バタバタして作れなかったのは覚えてるけど。……そのまま、じゃないかしら』
やめようと決めた人は、たぶん誰もいない。一度飛ばして、それきり。私は、なぜ作らないのと聞かなかった。聞かない子どもだった。
『あんた、あれ好きだったのにねえ』
「うん」
『お母さんもね、あれが好きだったの』
「え?」
『お母さん、お酒飲めないでしょう。お父さんがワインを開けてる横で、子どもと一緒にシャンメリーっていうのも嫌でね。あれなら、お酒みたいな顔して飲めるから』
母は笑っていた。
『瑠依はシャンメリーのほうがよかったみたいだけど、あんたは毎年あれを待ってたから。二人ぶん作れば済んだのよ』
電話が切れたあとも、私は玄関に立ったままだった。
私が酒を飲めないのは、体質だ。ほんの少し口に含んだだけで、顔が赤くなって、こめかみが脈を打つ。大人になった瑠依は、父に似て飲める。飲めないのは母と私だけだった。
父と瑠依がグラスを鳴らしているテーブルで、自分だけがマグカップを持たされている。子どもの頃のクリスマスを、私はずっとそういうふうに覚えていた。母がどこで何を飲んでいたのかは、覚えていない。
段ボールの底に、ナツメグの小瓶がある。私はそれを、バッグに入れた。
その夜、閉店作業を終えたあとで、私は月乃さんに聞いた。
「エッグノッグって、うちにもあるんですか」
「あるよ。マイナーだけどね」
月乃さんはエプロンの紐を解いて、フックに掛けた。
「うちでは、ブランデーかラムを入れる」
「入れなくても、作れますか」
「作れるよ。もともとは酒の入った飲み物だけどね。家で作るなら、入れないほうが普通でしょ」
月乃さんがこちらを向いた。
「作る?」
「いいですか」
「いいよ。卵、冷蔵庫の下段」
私はバッグからナツメグの小瓶を取り出した。卵を割り、黄身だけをボウルに落とす。砂糖を加えて、白っぽくなるまで泡立て器で混ぜる。小鍋に牛乳を入れて、火にかける。
一度目は牛乳を温めすぎた。卵に注いだ瞬間に黄身が固まって、ざらざらした粒が浮く。
私は鍋を洗い、もう一度、最初からやり直した。今度は火を弱くして、鍋の縁に小さな泡が立ち始めたところで止めた。少しずつ、糸のように細く注いでいく。ゆっくり混ぜる。
とろりとした白い液体が、カップの中で揺れている。最後に、ナツメグを振る。茶色い粉が水面に散って、そこから、あの匂いが立ち上った。
「できました」
「うん」
私は二つのカップを作っていた。一つを月乃さんの前に置く。
月乃さんはカップを引き寄せると、バックバーからブランデーを下ろした。とぽとぽと注ぎ足す。
「……入れるんですね」
「そりゃ入れるでしょ」
月乃さんは湯気を吹いて、一口飲んだ。
「いいね。優しい味」
「でも、違うんです。子どもの頃に飲んでたのとは、何かが違う」
味は間違っていないはずだった。卵と牛乳と砂糖とナツメグ。それ以外に何も入っていないのに、あの夜のものとは何だか違う。
「砂糖、何使った?」
「え? そこにあったやつです」
「グラニュー糖ね。家で作るなら上白糖でしょ」
拍子抜けした。ひと匙の愛情とか、そんなことを考えていた自分が恥ずかしくなる。
月乃さんはカップを持ったままカウンターを回り込んで、客席の椅子に座った。私が来てから、閉店後に月乃さんが客側へ座ったことはたぶん一度もない。
「座りなよ。もう終わりでしょ」
私は自分のカップを持って、一つ空けた隣に座った。カウンターはこちら側から見ると低かった。
「昔、母が作ってたんです。クリスマスだけ」
「へえ」
「母も、お酒が飲めない人で。毎年、母と私の二人ぶんだったんです」
月乃さんはブランデー入りのカップを傾けた。喉が鳴る音がした。
「実家、どこ」
「千葉です。電車で……一時間くらいだったかな」
「近いじゃん」
それきり、何も聞かれなかった。
「年末年始って、お店どうなるんですか」
「三十一日から三日まで休み」
「月乃さんは、どこか行くんですか」
「ここにいるよ」
私は横顔を見た。月乃さんはカップの底を覗き込んでいて、こちらを見ていない。
「掃除するの。年に一回、冷蔵庫全部出して。あれやんないと一年終わんないんだよね」
残りを飲み干して、月乃さんは立ち上がった。




