第十一話「ブルームーン」
十二月の風が、刺すように冷たくなった夕方。机の上で、スマホが短く震えた。月乃さんからだった。
『ごめん。食あたりしちゃった』
『生牡蠣最高』
「えっ」
画面に向かって、間の抜けた声が漏れた。苦しんでいるはずなのに『生牡蠣最高』と書き添えてくるあたり、どこまでも自分の欲望に忠実な月乃さんらしい。
感心している場合ではなかった。今日は金曜日だ。平日に入る山﨑さんは、今日に限って面接で休みを取っていた。大野さんが来られるのは、土日だけだ。
つまり今夜のメランコリアは、私一人。
お酒の作り方は、月乃さんの手元を盗み見たり、空き時間にカクテルブックをめくったりして、少しずつ覚えてはいた。覚えているのと、一人で注文を受けて一晩もたせるのとでは、話が違う。
「どうしよう……」
コートの襟を立てて、私は部屋を出た。合鍵で重たい扉を開けると、いつもなら月乃さんが灯りを点けて待っている店が、暗いままだった。
バックヤードに入り、照明のスイッチを入れる。オレンジ色の光が、棚のグラスとボトルを照らした。いつもここに立っている人がいないだけで、天井が高くなったように感じる。
ジャズを流し、製氷機から氷をすくい上げる。
レジの横に、月乃さんのメモ帳が置かれていた。開いてみると、癖のある字で、カクテルのレシピや常連客の細かな好みが、びっしりと殴り書きされている。私の知らないことばかりだった。
『サヨコさん ギムレット ジン四十五 ライム十 よく冷やす 二杯目はシェイク短め』
『マンハッタンの人(金曜) ベルモットは甘口 ステア長め』
二年ぶんか、三年ぶんか。ページをめくるたびに、インクの色が変わる。エプロンの紐を結んで、開いたままのメモ帳をレジの横に立てかけた。
開店から最初の数十分は誰も訪れず、私はカウンターの中でダスターを固く握りしめたまま、祈るような心地で入口の扉ばかり見ていた。
やがてベルが鳴って、最初の客が現れる。蒼さんだった。
「い、いらっしゃいませ」
声が上ずった私を見て、蒼さんは不思議そうに瞬きをした。
「あれ、月乃さんは?」
「実は、食あたりしてしまったそうで。今日は私一人なんです。至らない点ばかりだと思いますが、すみません」
私が深く頭を下げると、彼は「そうなんですね」と言ってカウンターに腰を下ろした。
「大丈夫ですよ。じゃあ、ウーロン茶をお願いできますか」
「かしこまりました」
いつも通りの注文だった。どうしようもなくありがたい。グラスに氷を入れ、ウーロン茶を注ぐ。それだけの動作なのに、手が震えていた。
蒼さんはコースターの上のグラスを一度も持ち上げないまま、あの文庫本を開いた。その日は、ページをめくるのが明らかに遅い。時々、こちらを見ているのが分かった。
二十一時を回った頃、洗い終わったロックグラスを棚に戻そうとして、指が滑った。高い音がして、足元に破片が散る。
カウンターの中でしゃがみ込み、私は破片を集め始めた。指先が思うように動かず、誰にも怒られないのに、心臓が痛いくらいに速かった。月乃さんなら、こんな落とし方はしない。
「大丈夫ですか」
顔を上げると、蒼さんがカウンター越しにこちらを覗き込んでいた。
「失礼しました、お騒がせしてしまって」
「怪我は」
「してないです」
「よかった」
蒼さんはそれだけ言って、また席に戻っていった。文庫本は閉じたまま、カウンターに伏せてある。
二十二時を過ぎた頃、彼は二杯目のウーロン茶を頼んだ。いつもなら、一杯目で帰っている時間だ。
二十三時前に、週に一度、金曜に来る六十代くらいの男性客が入ってきた。白髪をきちんと撫でつけていて、いつも一人で、一杯だけ飲んで帰っていく。
「マンハッタンを」
私はメモを開いた。
『マンハッタンの人(金曜) ベルモットは甘口 ステア長め』
その下に配合が書いてあるのに、数字が読めなかった。月乃さんの字は癖が強い。二に見えるのか、三に見えるのか、判別がつかない。しかもその部分に、いつのものか分からない水滴の跡が滲んでいた。私はメモを二度読んで、それから顔を上げた。
「申し訳ございません」
男性がこちらを見た。
「……店長のレシピが、どうしても読めなくて。分量が分かりません」
プロが客に、作り方が分かりませんと言った。百貨店なら、始末書では済まない。
男性は眉を上げて、面白そうに笑った。
「ああ、あの人の字ね。私も一度、伝票を読めなかったことがある」
「すみません」
「いや、いいんだ」
彼はカウンターに肘をつき、指を二本立てた。
「ウイスキーが二に、ベルモットが一。ビターズは一滴でいい。それが私の好みだよ」
「よろしいんですか」
「私が飲むんだから、私が決めていい」
私はボトルを下ろした。ミキシンググラスに氷を詰め、二つの液体を注ぐ。ビターズを一滴。バースプーンを差し込み、長く、ゆっくりと回した。ステア長め、のところだけは読める。カクテルグラスに注ぐと、深い赤褐色の液体が、照明を吸い込んで揺れた。最後にチェリーを飾る。
男性は一口飲み、頷いた。
「うん。ちゃんと私のだ。ありがとう」
勘定を済ませて帰り際、彼は笑いながら言った。
「あの人にね、伝えておいてくれるかな。字が汚い、と」
帰り支度を始めた蒼さんが、カウンターに代金を置きながら、私を見た。
「今日の黒田さん、すごく良かったですよ」
「え」
彼は何か言い足しかけて、口を閉じた。
「ごちそうさまでした」
小さく笑って、蒼さんは夜の中へ出ていった。
午前二時を回った。閉店まで、あと一時間もない。片付けを始めようとしていた矢先、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいま――」
振り返った私の言葉が、途中で止まる。入口に、茶色の長い髪の女性が立っていた。
「……瑠依」
私が呆然と名を呼ぶと、姉の瑠依は、カウンターの中に立つ私に目を留めた。大きな目がさらに見開かれる。
「燈? え、なんで」
瑠依は何度かまばたきをした。私はカウンターの縁に手を突いたまま、動けなかった。口角は上げない。カウンターの内側からなら、姉の顔をそのまま見返すことができる。
瑠依は困ったように笑いながら、まっすぐ歩いてきた。椅子に座って、黒いコースターを指でなぞる。
「どうして、ここに」
やっとのことで尋ねると、瑠依は肩をすくめた。
「先週、仕事の打ち合わせの帰りにね。マネージャーさんに教えてもらったのよ。お勧めの隠れ家があるって」
「そうなんだ」
「うん。でも、まさか燈がここで働いてるなんてね」
瑠依はコースターから指を離して、私を見た。
「この前、電話で言ってたよね。夜の仕事だって」
「うん」
「あれ、わざとでしょ」
私は答えられなかった。姉は分かっているという顔をしていた。驚きが少しずつ引いていって、ジャズがまた聞こえてくる。
「驚かせちゃってごめんね。でも、元気そうでよかった」
瑠依は店内を珍しそうに見渡してから、私に視線を戻した。
「いいお店だね。静かで、心が落ち着く。何か作ってよ」
私は一つ深く頷き、月乃さんのレシピメモをめくった。今の私に作れて、今の姉に飲んでほしいもの。
ページの途中に、その名前があった。
『ブルームーン』
私はバックバーから二つのボトルを下ろし、レモンを一つ手に取った。瑠依は頬杖をついて、私の手元を見ている。
カクテルグラスに氷を入れて冷やしておき、シェイカーにジンを注ぐ。次に、クレーム・ド・バイオレット。甘いスミレの香りが立ち上った。レモンを搾り入れ、氷を詰めて振る。氷を捨てたグラスに注ぐと、夜明け前の空のような、淡い紫色になった。
「どうぞ」
私がグラスを差し出すと、瑠依は「綺麗」と呟いて、グラスの脚を指先で摘んだ。一口飲んで、目を閉じる。口元がゆるんだ。
「美味しい。すごく、いい香りがする」
「よかった」
瑠依は、カウンターの中で動く私を目で追うだけで、「お給料はいくらなの?」とも、「いつまでそんなアルバイトを続けるの?」とも聞かなかった。
グラスを半分ほど空けたところで、瑠依がぽつりと言った。
「燈が楽しいなら、私は安心だよ」
「……うん」
瑠依は「そっか」と頷いて、グラスに残った紫色を揺らした。
「これ、なんて名前なの」
「ブルームーン」
「青くないじゃん。でもすごく綺麗な紫色」
「そうだね」
瑠依は空になったグラスを覗き込んで、笑った。
「あ、そうだ」
コートに袖を通しながら、瑠依が言った。
「うちの事務所ね、ヘアメイクの子が足りてないんだって。見習いからだけど、燈なら絶対できると思う。メイク、昔からうまかったし」
瑠依の目は真っ直ぐ私を見据えている。
「社長に言ってみようか。私の妹ですって言えば、たぶん面接くらいはすぐだよ」
「……瑠依の妹、で?」
「そういう意味じゃなくて」
瑠依は眉を下げて笑った。
「急がないから。ここが楽しいなら、それでいいの。ただ、昼の仕事に戻りたくなったら言って」
「……考えとく」
瑠依は頷いて、扉を開けた。
扉が閉まったあと、シェイカーを洗っていると、涙がこぼれて、シンクの白い泡の上に落ちる。姉に一杯を作って、姉がそれを最後まで飲んで、帰り際に仕事の話をしていった。それで、こんなに泣くのかと、自分でも呆れる。
照明を落とし、鍵を閉めて路地に出た頃には、午前三時半を回っていた。スマホが震える。
『生きてる?』
私は歩きながら、片手で返信を打った。
『生きてます』
『グラス一個割っちゃいました』
既読はすぐについた。
『二個までなら経費で落とせる』
『あと、マンハッタンのお客さんから伝言です』
『なに』
『字が汚い、と』
しばらくして、一言だけ届いた。
『明日は行く』
スマホをポケットに入れて見上げると、ビルの隙間から青白い満月が見えた。




