第七話「ウイスキー・フロート」
あの豪雨の夜から、二週間ほどが経っていた。十一月も、もう下旬だ。
私のバッグには、いまだにあの薄い文庫本が入っている。読み終えたのに、出す気になれず、毎晩持ち歩いていた。挟んだままの紙片が、ページの真ん中あたりを不自然に膨らませている。
店には新しい常連が一人できていた。三十代前半くらいのスーツ姿の男の人で、三週間ほど前から、週に二度か三度、深夜の一時過ぎに現れる。
いつもカウンターの、入口に近いほうの端に座り、いつも同じことを言う。
「なんでもいいです。強くないやつで」
月乃さんは毎回、ハイボールを出していた。彼はそれを、水を飲むのと変わらない速さで減らしていく。味わっている様子はなかった。
カウンターに置かれたスマホは、彼が座っている間じゅう、数分おきに光っていた。彼は画面を伏せることも、電源を切ることもせず、ただ光るたびに一度だけ目をやって、また前を向く。
スーツは肩の線が余っていた。買った時から今までの間に、痩せたのだろう。
私は彼のことを、もう少し知りたいと思っていた。話しかけなかったのは、佐代子さんに売り場の声で返したあの夜を、まだ引きずっていたからだ。
その夜、彼は普段より遅く、午前二時に近い時間に来た。夕方から降っていた雨はもう止んでいて、店内にはほかに客はいなかった。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、彼の目が赤かった。白目が乾いて、細い血管が浮いている。ネクタイは緩んだままで、コートのボタンが一つ、掛け違えられている。
彼は入口側の端に座り、同じことを言った。
「なんでもいいです。強くないやつで」
月乃さんが、ハイボールのグラスに手を伸ばしかけて、止めた。その目が私に向いた。
「黒田さん。ウイスキー・フロート、作って。教えるから」
「はい」
月乃さんは私の前にタンブラーを置いた。そのやり取りの間、彼はカウンターに肘をつき、両手で顔を覆っていた。
「氷を入れて、水を七分目まで」
言われた通りにする。
「そこに、ウイスキーを浮かべるの」
「浮かべるんですか」
「スプーンの背を、水面につけて。その上に、ゆっくり落とす」
私はバースプーンを裏返し、その丸みを水面に当てた。ウイスキーを、細く、細く注いでいく。
注ぎ終わる直前に、手が一瞬ぶれた。琥珀色が水の中に潜り込み、下から茶色い筋が立ち上って、揺れる。
「触りすぎ」
月乃さんの声は短かった。私は黙ってシンクに流し、氷から入れ直した。
二杯目。今度は、注ぎ終えてからも、スプーンを動かさなかった。
グラスの中に、境界ができた。下は透明な水。上は琥珀。二つの層は触れ合っているのに混ざらず、境目がわずかに揺らいで見えた。
「できました」
「うん」
月乃さんは頷いて、顎で客席を指した。私は自分の手で、その一杯をカウンターに置いた。
「お待たせいたしました。ウイスキー・フロートです」
彼は顔から手を離して、グラスを見た。
「……綺麗ですね」
水とウイスキーの境目を、彼は長いこと見ていた。
「これ、混ざらないんですか」
私が答えるより先に、月乃さんが言った。
「混ぜたければ、スプーンで一回回せば混ざりますよ。混ぜなければ、上からウイスキーだけが来ます」
「どっちが、正しいんですか」
「どちらでも。混ぜてもいいし、混ぜなくてもいい。それは、飲む人が決めることなので」
彼はグラスに添えられたバースプーンに手を伸ばした。柄を指で摘んで、そのまま動かなかった。十秒か、二十秒か。
やがて彼は、スプーンをコースターの横にそっと置いた。
「部下がひとり、来なくなったんです。朝、来なくて。電話しても出なくて。夕方に、親御さんから会社に連絡が来て。診断書が出て、そのまま休職になりました。まだ二年目の子で」
グラスに口をつける。混ざっていない上の層が、そのまま喉に流れ込んだはずだ。顔をしかめもしなかった。
「その子の分の仕事は、僕が持ってます。あと、去年辞めた人の分も」
「そんなに」
「うちの部署、もともと五人だったんです。今は三人。二人とも、僕より若くて」
彼はぎこちなく笑って、すぐにグラスの水滴を親指で拭った。
「上には言いました。人を入れてくださいって。検討しますって言われて、それで三ヶ月です」
「辞めよう、とは」
言ってから、私は自分の口を押さえたくなった。彼は驚いた顔をしなかった。何度も考えたことなのだろう。
「毎日思ってますよ。今日こそ言おうって、毎朝思ってます」
「じゃあ……」
「でも、僕が抜けたら、残りの二人に全部行くんです。あの子たち、まだ入って二年と三年なんですよ。僕がいなくなったら、たぶん、同じことになる」
彼はグラスの中を見ていた。境界の線がさっきより滲んでいる。
「だから、僕が辞めるっていうのは、あの子たちに代わってもらうってことなんです。それだけの話なんです」
辞めていいですよ、と私は言いたかった。喉のところまで来ていた。あなたの体はもう持たない、私もそうだった、と。言えなかったのは、佐藤の顔が浮かんだからだ。
あの日、私は佐藤を守ったつもりでいた。翌日からのことは、一度も考えなかった。あの先輩は、たぶんまだ売り場にいる。私という盾がなくなったフロアで、佐藤は今、どうしているんだろう。
私は、逃げたのだ。逃げなければ、あの柵の向こうへ行っていた。
二時半を過ぎても、彼はまだその一杯を飲んでいる。スプーンには、二度と触らなかった。グラスの底に残った水は、いつの間にか、うっすらと琥珀色に染まっていた。
「ごちそうさまでした」
彼は伝票を持って立ち上がり、会計を済ませた。掛け違えたままのコートのボタンには、最後まで気づかなかった。
「またお願いします」
「……はい。お待ちしております」
ドアベルが鳴って、彼は雨上がりの路地に出ていった。
閉店作業をしながら、私は月乃さんに聞いた。
「あの人、辞めたほうがいいですよね」
「さあ。私が決めることじゃないからなぁ」
月乃さんはグラスを拭き上げて棚に戻し、エプロンの紐をほどいた。
「同じような顔したお客さん、うちには何人も来た。私が知ってるだけで、辞めた人と、辞めなかった人と、半々くらい」
「どっちが良かったんですか」
「知らない。その後の話は、聞かせてもらえないから」
帰りにコンビニへ寄ると、月乃さんは決まって保温ケースの前で足を止める。その夜も、しばらく中を睨んでいた。
「この時間のアメリカンドッグは、軸が湿気てる」
真顔でそう言って、何も買わずに自動ドアを出る。あんな話のあとでも、審査は甘くならないらしい。
部屋に戻って、私はベッドに座ったまま、意味もなくスマホを握っていた。トークの一覧を、下へ下へと辿っていく。佐藤の名前は思っていたよりずっと下にあった。
トーク画面を開くと、最後のやり取りは、辞めた日の夜で止まっていた。
『黒田さん、いままで本当にありがとうございました』
『黒田さんに教えてもらったこと、忘れません』
二通とも開いたきりで、私は一度も返事をしていなかった。
『元気にしてる?』
打ち込んだまま、送れない。消して、また打つ。今度はもっと長い文章になった。あの日のことを謝る文章。読み返して、それも消した。結局、何も送らないまま、私はスマホを伏せた。
枕元のバッグから文庫本を取り出すと、挟んだままの紙片が、変わらずそこにある。太い万年筆の、癖の強い筆記体。
打ちのめされることはあっても、負けはしない。
あの言葉を、今日、私は彼に言いたかったのだと思う。本を閉じて、明かりを消した。




