第六話「ダイキリ」
十一月も半ばに差しかかった夜。朝から降り続いた雨は、日が暮れても弱まらなかった。店の中にまで低い雨音が響いていて、ジャズも、今夜ばかりは雨に負けて遠く聞こえる。
こんな日に、わざわざ路地裏のバーまで足を運ぶ客はいない。二十時の開店から数時間、店を訪れたのは、雨宿りに駆け込んできたサラリーマンの三人連れだけだった。彼らはウイスキーのお湯割りを流し込むと、足早に去っていった。
あとには、雨の音しか残らない。私はカウンターの端に立ち、グラスを磨く。小さな摩擦音が手元から生まれては消える。
月乃さんはカウンターの中央で、仕込みのライムを切っている。私たちは言葉を交わすこともなく、それぞれの手を動かしていた。
零時を回った頃、雨音に紛れるようにして、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
顔を上げるより先に、声が出ていた。こんな深夜に、一体誰が。入口に目をやって、手にしていた布巾を取り落としそうになった。
戸口に、老人が一人立っていた。彫りの深い顔をした、外国人の男性だ。年齢は六十前後だろうか。胸板が厚く腕も太く、熊を思わせる体つきだった。真っ白な髪に、同じく白い髭。古い映画から、そのまま抜け出してきたみたいだった。
老人は傘を持っておらず、レインコートも着ていなかった。服のどこにも、雨の染み一つない。外は豪雨だ。通りでタクシーを降りたとしても、この路地を抜けるあいだに、間違いなくずぶ濡れになる。髪はふわりと軽く広がっていて、足元の革靴まで乾いた光沢を放っていた。
私が立ち尽くしていると、老人は重い足取りで店内へと進み、カウンターのちょうど中央、月乃さんの真正面に腰かけた。
月乃さんは、驚いた素振りを少しも見せない。いつもの手つきで、老人の前にコースターを置いた。
「ダイキリをくれ」
無機質で低く、腹の底から響いてくるような声だった。
「ラムはダブルで。シロップはいらない」
ダイキリなら、空き時間にめくったカクテルブックに載っていた。ラムに、ライムジュースとシロップを加えてシェイクする。
この老人の注文は、その形から外れていた。ベースのラムを二倍にして、角を丸めるためのシロップを一切入れない。それはもう、強い酒にライムを搾っただけのようなものだ。
月乃さんは眉一つ動かさずに頷いた。
「かしこまりました」
バックバーから、ホワイトラムのボトルが下ろされる。月乃さんはメジャーカップで量ったラムをシェイカーに落とし、もう一杯量って、また落とした。そこへ、さっきまで切っていたライムを搾る。シロップの瓶には、手も伸ばさなかった。シェイカーの音がしばらく続いて、白く濁った液体がカクテルグラスに注がれる。
老人はグラスの脚を摘み上げ、照明に透かすように一度掲げた。それから喉を鳴らして、大きく一口あおる。顔色は少しも変わらない。「ふぅ」と短く重たい息を吐き、満足そうに目を細めた。
老人は胸ポケットから革の手帳を取り出し、カウンターの上に開いた。続いて出てきたのは、太い軸の万年筆。彼は無言で文字を書き込み始めた。
私はカウンターの端で、その様子を、身を固くして見ていた。老人は休まずに手帳へペンを走らせている。時折、宙の一点を睨んでは、酒を含み、再び書き始める。
……減ってない?
老人は確かにグラスに口をつけているし、喉仏も動いている。液面のほうは一ミリも下がっていなかった。表面に浮いた氷の粒も、溶ける気配がない。
夢を見ているのではないかと思った。雨に濡れていない服に、減らない酒。この老人は、生きている人間なのだろうか。
グラスを拭くふりをして、私は一歩だけ、カウンターの内側を移動した。手帳の紙面がわずかに見える。太い万年筆で殴り書きされた、癖の強い英語の筆記体だった。私の乏しい英語力では、単語を二つか三つ拾うのが精一杯だった。
old man.
the sea.
繰り返し、その二つが出てくる。老人と、海。それが何を意味するのか、その時の私には分からなかった。
「葉巻を吸っても良いか」
老人は手帳に目を落としたまま言った。月乃さんは灰皿を一つ、老人の前に置いてから答えた。
「どうぞ」
老人は内ポケットから、葉巻を取り出した。長いマッチを擦る音と共に、小さな赤い炎が揺らめく。葉巻をくわえ、先端に炎を近づけながら吸い込んだ。分厚い紫煙が立ち上り、周囲を包み込んでいく。
匂いが全くしない。青白い煙は老人の口から吐き出され、店の中を満たしている。なのに、美容部員として香水を嗅ぎ分けてきた鼻に、何一つ届かない。見えている煙だけが、宙を漂っていた。
老人は、煙の中で深く目を閉じ、手帳に書かれた文字を味わうように沈黙していた。やがて目を開け、小さく一つ頷いて、音を立てて手帳を閉じる。万年筆をポケットにしまい、ゆっくりと立ち上がる。
入口へ向かいかけて、老人は足を止めた。深く落ち窪んだ目が、私の顔に据えられた。
「嬢ちゃん」
「……はい」
「終わったよ」
何がですか、と聞き返す暇はなかった。背を向けた老人の姿が揺れた。大きな背中が、煙の中でにじんでいく。私は声も出せずに、それを見ていた。
煙が薄れた時には、もう誰もいなかった。ドアベルは、一度も鳴っていない。
雨音が耳に戻ってくる。私は恐る恐る月乃さんを見た。月乃さんは、老人がいたあたりを一度だけ見て、それからカウンターを拭き始めた。
「つ、月乃さん。今の人って」
「ああいうのも、たまに来るんだよね、ここ」
月乃さんは、さも「今日は珍しく外国人の客が来た」くらいの調子で答えて、あの減っていないカクテルグラスに手を伸ばす。何を思ったのか、持ち上げたグラスを自分の口元に運んだ。
一口含んだとたん、月乃さんの顔が、見たことのない形に歪んだ。
「きっつ……! 消毒液じゃん、これ」
月乃さんは舌を出して、手で扇いだ。私は吹き出してしまった。
「なんですか、それ」
「人間の飲むもんじゃないよこれ。バカ舌にも程があるでしょ、あのジジイ。無銭飲食だし」
月乃さんは心底嫌そうに、残ったダイキリをシンクへ流した。ラムの匂いが一瞬だけふわりと漂い、すぐに消える。
笑いが収まって向き直ると、老人が座っていた場所に、一枚の紙が残っていた。
手帳から乱暴に破り取られたらしい、端のぎざぎざになった紙片。そこに、あの太い万年筆で、英文が書かれていた。インクは濃いブルーブラックで、まだ乾ききっていないように見えた。指で触れると、ペン先の跡で紙がへこんでいる。
「月乃さん、これ」
月乃さんは布巾を置いて、紙を受け取った。視線が二度、左から右へ往復する。それから何も言わずに、紙を私に返した。
「……なんて書いてあるんですかね、これ」
「読めるでしょ」
「読めないです。単語がいくつか分かるだけで」
「じゃあ、調べな」
月乃さんはそれきり、閉店作業に戻ってしまった。私は紙片を二つに折って、エプロンのポケットに入れた。
目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。昨夜のことは、半分くらい夢だったような気がする。枕元に手を伸ばすと、二つに折った紙片は、ちゃんとそこにあった。
紙片を広げ、読み取れた単語を一つずつスマホに打ち込んでいく。man。destroyed。defeated。それと、昨夜手帳で見た、old manとthe sea。
検索結果の一番上に、一冊の本の表紙が出てきた。
『老人と海』
隣に並んだ著者の写真には、白い髭と、落ち窪んだ目の老人が写っていた。スマホを持った手を、しばらく下ろせなかった。
アーネスト・ヘミングウェイ。
名前だけは知っている。学校の教科書で見た気がするけれど、読んだことは一度もなかった。
解説の文章を、私は上から下まで読んだ。老いた漁師が、たった一人で巨大な魚と何日も戦い、ようやく仕留めるが、港へ帰る途中で鮫にすべて食い荒らされてしまう。持ち帰れたのは骨だけ。本当にそれだけの話なのか、読み終えても分からなかった。
その日の夕方、私は出勤前に書店へ寄った。文庫の棚は店のずっと奥にあって、平積みの台をいくつも越えなければ辿り着けない。海外文学の並びを端から目で追っていくと、青い装丁の一冊がすぐに見つかった。カジキと、船に乗る老人のイラスト。レジでは、店員が慣れた手つきでカバーをかけてくれた。
その夜から、私は少しずつ読み始めた。閉店後、部屋に戻ってから眠るまでの、短い時間。
文章は素っ気なかった。感情を説明する言葉が、ほとんど出てこない。綱を握る手のこと、塩の味のこと、巨大なカジキのこと、老人のひとりごと。そういうことばかりが、延々と続いていく。
読み進めるあいだ、宙の一点を睨んでは減らない酒を口に運んでいた、あの夜の老人の顔が何度も浮かんだ。書き終わるまで、帰れなかったのかもしれない。
四日目の夜、老人がたった一人、海の上で自分に言い聞かせる場面まで来た。あの紙片の英語は、ここにあった。
人間は負けるようにはできていない。打ちのめされることはあっても、負けはしない。
そういう意味の言葉だった。
私は本を閉じて、天井を見上げる。百貨店で三年間、毎日打ちのめされ続けて、最後にはマンションの外廊下で、柵から身を乗り出しかけた。あれは負けたということだと思っていた。
あの老人が、なぜあの夜に現れたのか。なぜ雨に濡れていなかったのか。今も分からない。
あの店は、そういうものが入ってきても、黙って一杯出すところらしい。
紙片はあの文庫本に挟んだままにしてある。




