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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
第二章
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第五話「ギムレット」

 その一週間、私はギムレットのことばかり考えていた。また来週、来るわ。佐代子(さよこ)さんはそう言っていた。今度は、いつものをいただきに、と。その一杯を、私が作れたらいいのに。


 木曜日の夕方。開店前の店で、私は思い切って口にした。


「あの、月乃(つきの)さん。ギムレットの作り方、教えていただけませんか」

「うーん、まだかな」

「ジントニックは、教えてくださったのに」

「作り方だけなら、五分で済むけどね。ジンとライムだけだから」


 月乃さんは細長いボトルを一本抜き取って、カウンターに置いた。透明な液体の中で、照明が細く折れている。ボトルから手を離して、月乃さんはようやくこちらを見た。


「あの人のは、黒田(くろだ)さんにはまだ難しいかな」


 二十二時きっかり。ドアベルが鳴り、佐代子さんが入ってきた。仕立てのいいスーツに、乱れのない髪。先週の、アイラインの滲んだ顔とは別人だ。


「いらっしゃいませ、佐代子さん」

「こんばんは」


 彼女はカウンターの端に腰を下ろすと、私の顔を見て、少しばつが悪そうに眉を下げた。


「先週は、恥ずかしいところを見せちゃったわね」

「いえ、そんな」

「四十過ぎた女が、バーで泣いて帰るなんてね。しかも、あんな甘ったるいのを最後まで飲んで」


 佐代子さんは自分で言って自分で笑った。私も、つられて口元が緩んだ。


「今日は、いつものをいただけるかしら。硬めで」

「かしこまりました」


 答えたのは月乃さんだった。私はおしぼりと水を出し、一歩下がった。


 月乃さんの手が動き始める。冷凍庫から出したグラスは、外側がすでに白く曇っていた。ジンをメジャーカップに注ぐ。目盛りは見ないのに、毎回同じところでぴたりと止まる。ライムを搾り、量る。シェイカーに氷を入れ、蓋を閉め、構える。


 低く、乾いた音が続いた。月乃さんはシェイカーの蓋を外し、グラスに注いだ。液体はほとんど無色で、ごくわずかに緑がかっている。


「お待たせしました」


 佐代子さんはグラスの脚を持ち、一口飲んで、目を閉じた。


「……そうそう。これよ」


 二杯目のグラスが置かれてから、佐代子さんは私のほうを見た。


「黒田さん。私、離婚したの、聞いてる?」


 急に振られて、私は答えに詰まった。


「……はい。少しだけ」

「そう。じゃあ、あんまり面白くない話をしてもいい?」


 私は頷いた。


「うちの人ね。悪い人じゃなかったのよ」


 佐代子さんはグラスを両手で包んだまま、カウンターの木目を見ていた。


「怒鳴ったことも、手を上げたことも、一度もなかった。浮気もしてない。私が遅くまで働いてても、文句一つ言わなかった」

「……そうなんですね」

「三十五の時にね、子どものことで話をしたの。彼は欲しがってた。私は、その年に大きい案件を任されたばかりで」


 彼女は目を伏せた。


「私、仕事を選んだの。ちゃんと話し合って、彼も分かったって言ってくれて。それで、そのまま十年近く」


 二杯目のグラスが、半分になっていた。


「去年、向こうから言われたの。もう、いいんじゃないかって。責めるでもなくて、天気の話でもするみたいに。……あの時ね、私、腹が立たなかったの。それが一番、こたえた」


 グラスの水滴をコースターが吸っていくのを見ながら、私は何も言えないでいた。


「あんなに揉めずに終わる離婚、あるんだなって思ったわ。離婚届も、一枚で済んだし。それで、その半年後によ」


 佐代子さんが顔を上げた。


「仕事、取られたの」


 私は、拭いていたグラスを持ち直した。


「十年かけて選んだほうに、そうやって返されるとね。何のために選んだんだったかしら、って」


 彼女はグラスを傾けて残りを飲み干し、それから、思い出したように付け加えた。


「これね、うちの人の好きなお酒だったの」


 私は伏せていた目を上げた。


「私は、辛くて苦手だったのよ。付き合ってた頃、隣で飲んでるのを見て、よくそんなの飲めるわねって笑ってたくらい」


 佐代子さんは、空になったグラスを指先で軽く回した。


「別れてから、飲むようになったの。おかしいでしょ」


 彼女は笑っていた。黙っていてはいけない気がした。


「……素敵な方だったんですね」


 言ったそばから、自分の声が一段高くなっているのが分かった。百貨店で、お客様の身の上話に相槌を打つ時の声だった。語尾の伸ばし方まで、売り場のままだ。


 佐代子さんは声を出さずに笑った。


「ごちそうさま。また来週ね」

「……ありがとうございました」


 彼女は伝票に手を伸ばし、いつも通りに会計を済ませ、いつも通りに帰っていった。扉が閉まる。空のグラスを下げると、コースターに丸い跡が残っていた。


 閉店後、シンクの水を止めて、エプロンのポケットからスマホを取り出した。ギムレット、カクテル言葉、と打ち込む。


『遠い人を想う』


 その文字を、何度も読み返す。木曜日の二十二時に一人で来て、辛口の二杯を飲んで帰る。私はそれを、大人の女性の習慣だと思っていた。


 私は今日、その話を最初から最後まで聞いた。聞いたうえで、あの声を出したのだ。


「月乃さん」


 バックヤードの入口で、月乃さんが煙草をくわえていた。


「私、さっき、変な声を出しました」

「うん」


 やっぱり、聞こえていた。


「聞こえてたのに、何も言わないんですね」

「言って直るもんじゃないでしょ、あれは」


 月乃さんはくわえていた煙草を指に挟み直した。


「あの、ギムレット。今から作ってみてもいいですか」


 月乃さんは少し考えて、顎で棚を指した。


「いいよ。練習しな」


 冷凍庫からグラスを出す。ジンを量る。目盛りを二度確認した。ライムを搾る。皮を握らないように、指の腹で。


 シェイカーを構えて、振る。音はどうしても揃わない。十数回で止めて、グラスに注ぐ。無色の液体を少しのあいだ見下ろしてから、蛇口をひねって、シンクに流した。


 水の音だけが、流しに続いている。


「黒田さん」


 背中越しに、月乃さんの声がした。


「そのギムレット、誰に出すつもりだったの」


 私は蛇口を止めた。


「……分かりません」

「じゃあ、それが分かった時に作りな」


 月乃さんは煙草を箱に戻して、バックヤードへ入っていった。私は空になったグラスを下げるのも忘れて、カウンターに立っていた。


 次の木曜日まで、あと七日ある。その七日で、返せる言葉が見つかるとは思えなかった。

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