↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
第二章
PR
5/31

第四話「アレキサンダー」

 木曜日の二十二時。重い扉が押し開けられて、常連の佐代子(さよこ)さんが姿を見せた。いつも辛口のギムレットを頼む大人の女性だ。


 しかしその夜の彼女は、椅子に深く腰掛けると同時に、肩が落ちて背中が丸まった。髪が乱れ、アイラインが滲んでいる。


「いらっしゃいませ、佐代子さん」


 私がおしぼりとお冷を差し出すと、彼女は力なく頬を緩めた。


「……こんばんは、黒田(くろだ)さん」


「お荷物、お預かりしましょうか」

「いいの、ここで。ごめんなさいね、なんだか今日、すごく格好悪い顔してるでしょ」


 佐代子さんは鞄を足元に置いて、月乃(つきの)さんのほうを見上げた。


「マスター。今日は……甘いものを」


 その一言に、私は目を見張った。


「なんでもいいわ。とにかく、とびきり甘くて、濃厚なやつをちょうだい」


 今にも泣き出しそうな声だった。月乃さんは彼女の顔を正面から見た。


「……かしこまりました」


 月乃さんはバックバーから、ブランデーのボトルと、ブラウンのカカオリキュール、それから冷蔵庫の生クリームを取り出した。


 蓋を外したシェイカーを、月乃さんはひょいと宙へ放った。


「えっ」


 銀色のシェイカーは、頭の高さでくるりと回って落ちてくる。見もせずに、片手で受け止めた。目はカウンターの上のメジャーカップに向いている。


 今度はブランデーのボトルだった。首を持って軽く放ると、ボトルは空中で縦に一回転して、また首から手の中に戻ってくる。そのまま傾けると、細い流れがメジャーカップに落ちて、ちょうど縁のところでぴたりと止まった。カカオリキュールと生クリームも、同じように手早く量って、シェイカーに入れていく。


 氷は、すくうなり宙に放り上げた。ばらばらに落ちてくる氷を、月乃さんはシェイカーの口で一つ残らず受け止める。


 うるさいくらいに派手な動きだった。この店の照明にも、流れているジャズにも、少しも合っていない。私は拭きかけのグラスを持ったまま、月乃さんの手を目で追っていた。いつの間にか、佐代子さんの背筋も伸びている。


 月乃さんは蓋を閉めると、シェイカーを胸の前で構えた。タタタタタッ、と、普段の倍は速い音が店内に響く。銀色のシェイカーが、みるみる白く曇っていった。最後に、シェイカーを高く持ち上げてカクテルグラスへ注ぐ。ミルクティーのような色の液体が、一滴もこぼれずにグラスを満たした。


「アレキサンダーです」


 グラスを佐代子さんの前に置く時には、月乃さんはもう涼しい顔に戻っていた。佐代子さんは口をぽかんと開けたままだった。


「すごい。マスター、そんなことできたのね」

「昔、ちょっと遊んでいただけですよ。ぬるくならないうちに、どうぞ」


 佐代子さんはグラスの脚を持ち、そっと口をつけた。一口含んだところで、彼女の目の縁から涙が落ちた。


「おいしい……」


 佐代子さんはグラスを置かないまま続けた。


「やだ、もう。あんなの見せられたら、泣くに泣けないじゃない」


 彼女は足元の鞄からハンカチを取り出し、涙と崩れたメイクを拭った。鼻をすすって、小さく笑う。


「夏の初めにね、ずっと準備してきたプロジェクトを、後輩に横取りされちゃって。上司も見て見ぬふり。そのプロジェクトが今日、社内で表彰されたの。壇上で花束をもらってたのは、その子」


 佐代子さんはグラスに残ったクリームを傾けた。


「離婚のこともあって、消えてしまいたい気分だったの」


 私は何か言わなければと思った。よくあることですよ、とか、佐代子さんは悪くないですよ、とか。そういう言葉が喉のあたりに浮かんできて、どれも口の外へ出ていかない。


 佐代子さんは、時間をかけてアレキサンダーを最後の一滴まで飲み干した。


「ごちそうさま。……ごめんなさいね、お騒がせして」


 立ち上がった彼女の目は、まだ赤かった。ハンカチで押さえた目元のあたりだけ、ファンデーションが取れて、素の肌の色が見えている。


「また来週、来るわ」


 佐代子さんは鞄を肩にかけながら言った。


「今度は、いつものをいただきに」

「お待ちしております。お気をつけて」


 丸まっていた肩が、店に入ってきた時より少しだけ上がっている。


 扉が閉まる。ベルの余韻が消えるまで、私はカウンターの内側で立っていた。


 午前三時を過ぎて店を閉めると、通りのシャッターはどれも下りていた。湿り気を含んだ冷たい夜風が、火照(ほて)った体に心地よい。


「月乃さん、さっきの本当にすごかったです! ボトルが宙でくるくる回って、シェイカーがポンって飛んで、映画でも見てるのかと思いました」


 帰り道、私が興奮気味に言うと、月乃さんは両手をポケットに突っ込んだまま、気だるそうに答える。


「ああ、フレア? 昔いた店で、ちょっとかじっただけ。指、折れるかと思った」

「ほんとすごかったです。佐代子さん、感動して泣いてましたし……」

「まあ、落ち込んでる人にしかやらないよ」

「どうしてですか」

「疲れてる時にさ、無駄に派手なもの見せられると、なんか、どうでもよくなるでしょ」


 あまりに素っ気ない言い方だったので、私は笑ってしまった。


「アレキサンダーのカクテル言葉って、何なんですか」

「それ、毎回聞くつもり?」

「気になるじゃないですか」


 月乃さんは少し考えて、それから首を振った。


「忘れた。カクテル言葉なんて、あとから誰かが付けたおまけだよ」


 私は少し黙ってから聞いた。


「あの人、何も解決してないですよね」

「してないよ」

「じゃあ、私たちは何をしたんですか」


 月乃さんはしばらく答えなかった。信号が青に変わって、私たちは横断歩道を渡った。


「あの人が来週の木曜まで、もてばいいの」

「はい?」

「来週になったら、また来るでしょ」


 それきり、月乃さんはその話をしなかった。ビルの合間を抜けて、私たちはコンビニに寄った。


「私、チキン買っていこうかな……」


 空腹に負けて、保温ケースを覗き込む。


「ちょっと待って」


 月乃さんの声が急に低くなった。


「え? どうしたんですか?」

「今の時間のホットスナックは、危険だよ」


 月乃さんが、ケースの中のフライドチキンを真剣な目で覗き込んでいる。


「危険、ですか」

「いい? 深夜のホットスナックはね、揚げられてから放置されて、衣のサクサク感が完全に死んでる可能性が高い。特にあのフライドチキン。油の濁り方から推測するに、完全に酸化してる」

「は、はあ……」


「買うなら、さっき補充されたばかりの肉まんか、衣が厚くて油の影響を受けにくいアメリカンドッグの二択。いや、あのアメリカンドッグも軸のあたりを見ると……」


 真剣な表情で熱弁を振るう月乃さんを、私は呆気(あっけ)にとられて見ていた。


「あの、月乃さんって、ホットスナック好きなんですか?」


「好きというか、妥協ができないだけ」


 月乃さんはケースから目を離さずに聞いた。


「黒田さんのいつもは?」


 私はケースの中を、もう一度見た。


「……ないです」

「ふうん」


 月乃さんはそれ以上聞かずに、レジの店員に肉まんを二つ頼んだ。彼女の厳正な審査を通った肉まんを持って、店先の小さなベンチに二人で並んで座る。包みを破ると白い湯気が上がり、豚肉と椎茸(しいたけ)の匂いが夜風に広がった。


「熱っ」


 ふうふうと冷ましながらかぶりつくと、肉汁が舌を焼いた。


「ね、正解でしょ」


 月乃さんは肉まんを頬張りながら、得意げに鼻を鳴らす。その子どもっぽい横顔を見ているうちに、私も笑っている。


 ほんの一ヶ月ほど前、私は同じ灯りの下で、手当たり次第にカゴを埋めていた。あの夜の私には、この店の明るさが、自分を責めているようにしか見えなかった。


 翌日の昼過ぎ。枕元に置いたスマホが、短い振動を繰り返していた。画面を覗き込むと、そこには見慣れた名前が表示されている。


『瑠依(るい)』


 退職して引きこもり始めてからずっと、姉からの着信やメッセージはすべて無視し続けていた。今日だけで、もう四回目の着信だった。胸の中で三つ数えてから、通話ボタンをスワイプする。


「……もしもし」

『あ、燈(あかり)? よかった。やっと出てくれた』


 電話越しに聞こえる瑠依の声は、相変わらず通りが良く、テレビの画面から流れてくるものと全く同じだった。後ろで、人の声や機材の音がかすかにしている。


『全然連絡取れないから、心配したんだよ? お母さんからも「燈と連絡がつかない」って電話があってさ。仕事辞めちゃったんだって? 大丈夫?』

「別に。大丈夫だよ」


 自分でも驚くほど、平たい声が出た。


「返信しなくてごめん。忙しかったから」

『忙しいって、何か新しいこと始めてるの?』

「うん。アルバイト。夜の仕事だけどね」


 あえて「夜の仕事」という、誤解を招くような言い方をした。くだらない意地だった。


『夜の仕事……? 燈、それって』


 瑠依が一瞬、言葉に詰まる。すぐに声を立て直して、優しく諭すように続けた。


『どんな仕事でもいいけど、無理だけはしないでね。燈がちゃんとご飯食べてて、元気でいてくれるなら、私はそれでいいんだから』

「……無理なんてしてないよ。夜から仕事だから、切るね」

『あ、うん。また連絡してね』


 通話を切り、スマホをベッドの上に放り投げた。膝を抱えて、シーツの皺に目を落としたまま、私は長いあいだ動けなかった。


 無理なんてしてない。自分の声がまだ耳に残っていた。涙が落ちて、スウェットの膝に濃い染みを作っていく。


 その夜も、私は三十分早く店に着いた。電話のあとの部屋に、一人でいたくなかった。


「おはようございます」


 店内はまだ照明が落ちていた。月乃さんはバックヤードで片付けをしているらしく、奥から物音がする。私はエプロンを着けて、濡らしたダスターでカウンターを拭き始めた。手を動かしていると、少し落ち着く。


 レジの横にある小さな引き出しが、半開きになっていた。いつもはきっちりと閉まっているのに。閉めようとして、手を伸ばす。


 閉めるだけなら、中を見る必要などない。そう思っているのに、指が縁にかかったところで、私は隙間を覗き込んでいた。


 何枚かの領収書と一緒に、一枚の古い名刺が無造作に放り込まれていた。端が少し折れ曲がり、薄く黄ばんでいる。一度濡れて乾いたのか、紙の表面が細かく波打っていた。誰もが一度は耳にしたことがある企業のロゴが、そこに印刷されていた。


『東央証券株式会社』


 名刺の真ん中には、はっきりとこう印字されていた。


『第一営業部 九条月乃』


 閉めなければ、と思った。名刺の四つの角は、どれも丸くすり減っている。捨てられたものにしては、触られた跡が多すぎた。


「……見ちゃった?」


 振り返ると、月乃さんが、壁に背中を預けてこちらを見ていた。


「すみません! 覗き見するつもりじゃなかったんです。ごめんなさい」


 月乃さんは肩をすくめて笑った。


「いいよ、別に隠してるわけじゃないし。ただの捨て忘れたゴミだから」


 月乃さんは引き出しを開け、その名刺を指先で弾いた。角の丸さには触れずに、独り言のように言う。


「向いてない場所にずっとしがみついてるとね、少しずつ歪んでいって、最後には壊れるんだよ」


 月乃さんは名刺を引き出しに戻して、指の先で押して閉めた。


「……さ、開店準備しようか。ライム、切っといてくれる?」

「はい!」


 二十時きっかり。今夜の最初の客が足を踏み入れる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。