第四話「アレキサンダー」
木曜日の二十二時。重い扉が押し開けられて、常連の佐代子さんが姿を見せた。いつも辛口のギムレットを頼む大人の女性だ。
しかしその夜の彼女は、椅子に深く腰掛けると同時に、肩が落ちて背中が丸まった。髪が乱れ、アイラインが滲んでいる。
「いらっしゃいませ、佐代子さん」
私がおしぼりとお冷を差し出すと、彼女は力なく頬を緩めた。
「……こんばんは、黒田さん」
「お荷物、お預かりしましょうか」
「いいの、ここで。ごめんなさいね、なんだか今日、すごく格好悪い顔してるでしょ」
佐代子さんは鞄を足元に置いて、月乃さんのほうを見上げた。
「マスター。今日は……甘いものを」
その一言に、私は目を見張った。
「なんでもいいわ。とにかく、とびきり甘くて、濃厚なやつをちょうだい」
今にも泣き出しそうな声だった。月乃さんは彼女の顔を正面から見た。
「……かしこまりました」
月乃さんはバックバーから、ブランデーのボトルと、ブラウンのカカオリキュール、それから冷蔵庫の生クリームを取り出した。
蓋を外したシェイカーを、月乃さんはひょいと宙へ放った。
「えっ」
銀色のシェイカーは、頭の高さでくるりと回って落ちてくる。見もせずに、片手で受け止めた。目はカウンターの上のメジャーカップに向いている。
今度はブランデーのボトルだった。首を持って軽く放ると、ボトルは空中で縦に一回転して、また首から手の中に戻ってくる。そのまま傾けると、細い流れがメジャーカップに落ちて、ちょうど縁のところでぴたりと止まった。カカオリキュールと生クリームも、同じように手早く量って、シェイカーに入れていく。
氷は、すくうなり宙に放り上げた。ばらばらに落ちてくる氷を、月乃さんはシェイカーの口で一つ残らず受け止める。
うるさいくらいに派手な動きだった。この店の照明にも、流れているジャズにも、少しも合っていない。私は拭きかけのグラスを持ったまま、月乃さんの手を目で追っていた。いつの間にか、佐代子さんの背筋も伸びている。
月乃さんは蓋を閉めると、シェイカーを胸の前で構えた。タタタタタッ、と、普段の倍は速い音が店内に響く。銀色のシェイカーが、みるみる白く曇っていった。最後に、シェイカーを高く持ち上げてカクテルグラスへ注ぐ。ミルクティーのような色の液体が、一滴もこぼれずにグラスを満たした。
「アレキサンダーです」
グラスを佐代子さんの前に置く時には、月乃さんはもう涼しい顔に戻っていた。佐代子さんは口をぽかんと開けたままだった。
「すごい。マスター、そんなことできたのね」
「昔、ちょっと遊んでいただけですよ。ぬるくならないうちに、どうぞ」
佐代子さんはグラスの脚を持ち、そっと口をつけた。一口含んだところで、彼女の目の縁から涙が落ちた。
「おいしい……」
佐代子さんはグラスを置かないまま続けた。
「やだ、もう。あんなの見せられたら、泣くに泣けないじゃない」
彼女は足元の鞄からハンカチを取り出し、涙と崩れたメイクを拭った。鼻をすすって、小さく笑う。
「夏の初めにね、ずっと準備してきたプロジェクトを、後輩に横取りされちゃって。上司も見て見ぬふり。そのプロジェクトが今日、社内で表彰されたの。壇上で花束をもらってたのは、その子」
佐代子さんはグラスに残ったクリームを傾けた。
「離婚のこともあって、消えてしまいたい気分だったの」
私は何か言わなければと思った。よくあることですよ、とか、佐代子さんは悪くないですよ、とか。そういう言葉が喉のあたりに浮かんできて、どれも口の外へ出ていかない。
佐代子さんは、時間をかけてアレキサンダーを最後の一滴まで飲み干した。
「ごちそうさま。……ごめんなさいね、お騒がせして」
立ち上がった彼女の目は、まだ赤かった。ハンカチで押さえた目元のあたりだけ、ファンデーションが取れて、素の肌の色が見えている。
「また来週、来るわ」
佐代子さんは鞄を肩にかけながら言った。
「今度は、いつものをいただきに」
「お待ちしております。お気をつけて」
丸まっていた肩が、店に入ってきた時より少しだけ上がっている。
扉が閉まる。ベルの余韻が消えるまで、私はカウンターの内側で立っていた。
午前三時を過ぎて店を閉めると、通りのシャッターはどれも下りていた。湿り気を含んだ冷たい夜風が、火照った体に心地よい。
「月乃さん、さっきの本当にすごかったです! ボトルが宙でくるくる回って、シェイカーがポンって飛んで、映画でも見てるのかと思いました」
帰り道、私が興奮気味に言うと、月乃さんは両手をポケットに突っ込んだまま、気だるそうに答える。
「ああ、フレア? 昔いた店で、ちょっとかじっただけ。指、折れるかと思った」
「ほんとすごかったです。佐代子さん、感動して泣いてましたし……」
「まあ、落ち込んでる人にしかやらないよ」
「どうしてですか」
「疲れてる時にさ、無駄に派手なもの見せられると、なんか、どうでもよくなるでしょ」
あまりに素っ気ない言い方だったので、私は笑ってしまった。
「アレキサンダーのカクテル言葉って、何なんですか」
「それ、毎回聞くつもり?」
「気になるじゃないですか」
月乃さんは少し考えて、それから首を振った。
「忘れた。カクテル言葉なんて、あとから誰かが付けたおまけだよ」
私は少し黙ってから聞いた。
「あの人、何も解決してないですよね」
「してないよ」
「じゃあ、私たちは何をしたんですか」
月乃さんはしばらく答えなかった。信号が青に変わって、私たちは横断歩道を渡った。
「あの人が来週の木曜まで、もてばいいの」
「はい?」
「来週になったら、また来るでしょ」
それきり、月乃さんはその話をしなかった。ビルの合間を抜けて、私たちはコンビニに寄った。
「私、チキン買っていこうかな……」
空腹に負けて、保温ケースを覗き込む。
「ちょっと待って」
月乃さんの声が急に低くなった。
「え? どうしたんですか?」
「今の時間のホットスナックは、危険だよ」
月乃さんが、ケースの中のフライドチキンを真剣な目で覗き込んでいる。
「危険、ですか」
「いい? 深夜のホットスナックはね、揚げられてから放置されて、衣のサクサク感が完全に死んでる可能性が高い。特にあのフライドチキン。油の濁り方から推測するに、完全に酸化してる」
「は、はあ……」
「買うなら、さっき補充されたばかりの肉まんか、衣が厚くて油の影響を受けにくいアメリカンドッグの二択。いや、あのアメリカンドッグも軸のあたりを見ると……」
真剣な表情で熱弁を振るう月乃さんを、私は呆気にとられて見ていた。
「あの、月乃さんって、ホットスナック好きなんですか?」
「好きというか、妥協ができないだけ」
月乃さんはケースから目を離さずに聞いた。
「黒田さんのいつもは?」
私はケースの中を、もう一度見た。
「……ないです」
「ふうん」
月乃さんはそれ以上聞かずに、レジの店員に肉まんを二つ頼んだ。彼女の厳正な審査を通った肉まんを持って、店先の小さなベンチに二人で並んで座る。包みを破ると白い湯気が上がり、豚肉と椎茸の匂いが夜風に広がった。
「熱っ」
ふうふうと冷ましながらかぶりつくと、肉汁が舌を焼いた。
「ね、正解でしょ」
月乃さんは肉まんを頬張りながら、得意げに鼻を鳴らす。その子どもっぽい横顔を見ているうちに、私も笑っている。
ほんの一ヶ月ほど前、私は同じ灯りの下で、手当たり次第にカゴを埋めていた。あの夜の私には、この店の明るさが、自分を責めているようにしか見えなかった。
翌日の昼過ぎ。枕元に置いたスマホが、短い振動を繰り返していた。画面を覗き込むと、そこには見慣れた名前が表示されている。
『瑠依』
退職して引きこもり始めてからずっと、姉からの着信やメッセージはすべて無視し続けていた。今日だけで、もう四回目の着信だった。胸の中で三つ数えてから、通話ボタンをスワイプする。
「……もしもし」
『あ、燈? よかった。やっと出てくれた』
電話越しに聞こえる瑠依の声は、相変わらず通りが良く、テレビの画面から流れてくるものと全く同じだった。後ろで、人の声や機材の音がかすかにしている。
『全然連絡取れないから、心配したんだよ? お母さんからも「燈と連絡がつかない」って電話があってさ。仕事辞めちゃったんだって? 大丈夫?』
「別に。大丈夫だよ」
自分でも驚くほど、平たい声が出た。
「返信しなくてごめん。忙しかったから」
『忙しいって、何か新しいこと始めてるの?』
「うん。アルバイト。夜の仕事だけどね」
あえて「夜の仕事」という、誤解を招くような言い方をした。くだらない意地だった。
『夜の仕事……? 燈、それって』
瑠依が一瞬、言葉に詰まる。すぐに声を立て直して、優しく諭すように続けた。
『どんな仕事でもいいけど、無理だけはしないでね。燈がちゃんとご飯食べてて、元気でいてくれるなら、私はそれでいいんだから』
「……無理なんてしてないよ。夜から仕事だから、切るね」
『あ、うん。また連絡してね』
通話を切り、スマホをベッドの上に放り投げた。膝を抱えて、シーツの皺に目を落としたまま、私は長いあいだ動けなかった。
無理なんてしてない。自分の声がまだ耳に残っていた。涙が落ちて、スウェットの膝に濃い染みを作っていく。
その夜も、私は三十分早く店に着いた。電話のあとの部屋に、一人でいたくなかった。
「おはようございます」
店内はまだ照明が落ちていた。月乃さんはバックヤードで片付けをしているらしく、奥から物音がする。私はエプロンを着けて、濡らしたダスターでカウンターを拭き始めた。手を動かしていると、少し落ち着く。
レジの横にある小さな引き出しが、半開きになっていた。いつもはきっちりと閉まっているのに。閉めようとして、手を伸ばす。
閉めるだけなら、中を見る必要などない。そう思っているのに、指が縁にかかったところで、私は隙間を覗き込んでいた。
何枚かの領収書と一緒に、一枚の古い名刺が無造作に放り込まれていた。端が少し折れ曲がり、薄く黄ばんでいる。一度濡れて乾いたのか、紙の表面が細かく波打っていた。誰もが一度は耳にしたことがある企業のロゴが、そこに印刷されていた。
『東央証券株式会社』
名刺の真ん中には、はっきりとこう印字されていた。
『第一営業部 九条月乃』
閉めなければ、と思った。名刺の四つの角は、どれも丸くすり減っている。捨てられたものにしては、触られた跡が多すぎた。
「……見ちゃった?」
振り返ると、月乃さんが、壁に背中を預けてこちらを見ていた。
「すみません! 覗き見するつもりじゃなかったんです。ごめんなさい」
月乃さんは肩をすくめて笑った。
「いいよ、別に隠してるわけじゃないし。ただの捨て忘れたゴミだから」
月乃さんは引き出しを開け、その名刺を指先で弾いた。角の丸さには触れずに、独り言のように言う。
「向いてない場所にずっとしがみついてるとね、少しずつ歪んでいって、最後には壊れるんだよ」
月乃さんは名刺を引き出しに戻して、指の先で押して閉めた。
「……さ、開店準備しようか。ライム、切っといてくれる?」
「はい!」
二十時きっかり。今夜の最初の客が足を踏み入れる。




