第三話「ジントニック」
メランコリアで働き始めて、三週間が経とうとしていた。私の仕事は、相変わらず洗い物と、水とおしぼりを出すことだけだ。空いたグラスを下げて洗い、布巾で拭き上げて棚に戻す。それを一晩に何十回も繰り返す。
月乃さんは、「もっと動け」とも「そこまでやらなくていい」とも言わない。それが、かえって落ち着かない。時給千八百円。深夜手当と賄いつき。前の職場と同じくらいの給料をもらっているのに。
洗い場に立っていると、カウンターの奥から、月乃さんが氷を割る音が聞こえてくる。アイスピックの先が塊に刺さる、乾いた短い音。同じ間隔で何度か続いたあと、ごとりと重くなる。塊が二つに割れたのだ。グラスを拭きながらその音を聞いていれば、月乃さんの手がどこまで進んだか、分かるようになっていた。
その日、私は三十分早く店に着いた。照明の落ちた店内で、月乃さんはカウンターの中に立ち、ボトルの列を眺めていた。私に気づくと、顎でカウンターの内側を指す。
「おはよ。暇なら、こっち入って」
「え?」
「洗い物、うまくなったよ。グラスの拭き跡、最近ないし」
褒められたのだと分かるまで、少し時間がかかった。
「あ……ありがとうございます」
「ってことは、次のことやってもいい頃でしょ」
月乃さんはシンクの下から、背の高いタンブラーを一つ取り出した。
「ジントニック、覚えて」
「……私が、ですか?」
「他に誰がいるの」
私は作る側の位置に立たされた。いつもは洗い場にいるから、ここから店を見たことがない。カウンターの木目の傷も、入口の扉も、見慣れたところより遠く感じる。
「まず、道具の名前ね」
月乃さんは目の前に三つの器具を並べた。
「これがバースプーン。長いスプーン。これがメジャーカップ。量る道具。大きいほうが四十五ミリで、小さいほうが三十ミリ。これがトング。氷を掴むやつ」
「トングは……トングなんですね」
「そう」
月乃さんは真顔だった。私は笑っていいのか分からず、曖昧に頷いた。
「ジントニックはね、材料が三つしかないの。ジンと、トニックウォーターと、ライム。これだけ。だからごまかしが利かないの。下手に作れば、下手なのが全部出る」
月乃さんはボトルを手に取り、ラベルを私のほうに向けた。
「逆に言えば、これが作れれば、全部作れる。……って、昔言われた」
「あの、私、お酒が飲めないんです。だから、味見ができなくて」
「知ってる」
「それでも、作れるんでしょうか」
「作れるよ。舌が使えないなら、他のを使えばいいだけ」
「他の、というと?」
「目と、鼻と、手」
月乃さんはグラスに氷を入れた。それから私の手を取って、グラスの側面に触れさせる。冷たさが指先にしみてくる。
「グラスの外側が、ここまで曇ったら十分冷えてる。トニックを注いだ時に泡がどう立つか、目で見る。ライムを搾ったら、香りを確かめる」
私は言われるままに、グラスを覗き込んだ。
「舌は、答え合わせに使うだけ。作ってる最中に舌は使わない。プロだって同じだよ」
そういうものなのか。できない、と最初から決めていたことを、こんなにあっさり取り上げられたのは初めてだった。
月乃さんは冷やしたグラスに氷を詰めて、ジンを量って注いだ。バースプーンで数回だけ回して、酒を冷やす。それからトニックウォーターを、氷に当てないよう、グラスの縁を伝わせて静かに注ぐ。
「最後に、一回だけ」
月乃さんはスプーンをグラスの底に沈め、氷を下から持ち上げるようにして、一度だけ動かした。
「混ぜるんじゃなくて、持ち上げるの。一回。それ以上は触らない」
仕上げにライムを搾り、そのままグラスに落とす。一分もかからなかった。
「はい、やってみて」
一杯目は手順を思い出しながら作った。メジャーカップの目盛りを二度確かめ、スプーンの持ち方が正しいかどうかで迷う。そのあいだにも、グラスの中で氷が痩せていった。
月乃さんは一口飲んで、グラスを置いた。
「薄いかな」
「……すみません」
「氷が溶けるのはね、迷ってる時間の分だけだよ」
月乃さんはそう言って、残りをシンクに流す。
二杯目は急いだ。勢いよく注いだトニックウォーターが氷に当たって、炭酸が一気に泡になって浮き上がる。
「炭酸、殺しちゃってるね」
これも、一口で流された。
三杯目ではライムを搾る指に力が入りすぎた。皮の油が液体に落ちたのが、鼻を近づける前から分かる。
「んー、苦い」
また流された。シンクの排水口に、三杯目が吸い込まれていく。縁を握った手が、なかなか離れなかった。
顔を上げると、月乃さんの目はもう次の氷に向いている。三杯のどれにも、月乃さんはグラスの中身のことしか言わなかった。限定コフレの数が足りなかったあの日、先輩は、私のヘラヘラした態度の話までした。
私は四杯目のグラスに手を伸ばす。迷わずに動いた。目盛りの確認は一回で済ませた。スプーンの持ち方が正しいかどうかは、もう考えない。トニックの瓶を傾け、グラスの縁を伝わせる。細く、音を立てないように。泡が内側から立ち上がってくる。
スプーンを底まで沈め、一度だけ持ち上げる。ライムは、皮を握らないように指の腹だけで挟んで搾った。鼻を近づけると、青い匂いがした。苦みの気配はなく、グラスの側面が白く曇っている。
「できました」
月乃さんはグラスを取り上げ、明かりに透かしてから、口をつけた。一口、二口。月乃さんはグラスを置かなかった。喉が動いて、氷が寄って、また動く。そのまま最後まで飲み干すと、残った氷が、カラン、と鳴った。
「……どうですか」
月乃さんは空になったグラスを私の前に置いた。
「うん。これなら、お客さんにも出せるかな」
私はカウンターの内側に立ったまま、その空のグラスから目を離せなかった。鼻の奥が、痛かった。
その夜、零時半を回った頃に、スーツ姿の女性が一人で入ってきた。三十代くらいだろうか。髪が少し乱れていて、コートの肩が湿っている。
「終電、逃しちゃって」
彼女は誰に言うでもなくそう呟くと、カウンターの真ん中に座った。
「なんか、軽いのください。強いのは無理」
月乃さんは私のほうを見なかった。
「うちの新人が、今日ジントニックを覚えまして」
「えっ」
声が出たのは私だった。女性が顔を上げ、私を見ている。
「じゃあ、それでお願いします」
心臓が耳のすぐ後ろで鳴っている。私はグラスを冷やし、氷を詰めた。指が震えていたが、手順は覚えていた。ジンを量る。注ぐ。冷やす。トニックを、縁から静かに。一回だけ、持ち上げる。ライム。
「お待たせいたしました。ジントニックです」
女性はグラスを手に取って一口飲み、それから、スマホの画面に目を落とした。
「ん、おいしい」
彼女はスマホをいじりながら、三十分ほどかけてグラスを空にした。代金を置いて、タクシーを拾いに出ていった。
グラスの底には、搾ったライムと、溶けかけた氷が残っている。私はそれを、いつもより時間をかけて洗った。
閉店後、照明を落としてエプロンを外していると、月乃さんが煙草をくわえたまま、思い出したように言った。
「ジントニックのカクテル言葉、知ってる?」
「カクテル言葉、ですか? 花言葉みたいな?」
「そう。誰が決めたのか知らないけどね」
月乃さんは火をつけずに、煙草を指で回した。
「『いつも希望を捨てないあなたへ』」
私は顔をしかめた。
「……なんか、こう、ちょっと」
「ふふっ。臭いでしょ」
「はい」
「私も思う」
月乃さんはそこで煙草に火をつけ、細く煙を吐いた。
「でもね。何回も失敗した子がようやく作れるようになる酒に、それ以上ふさわしい言葉ってある?」
ありがとうも、そんなことないですも違う気がして、何も返せなかった。月乃さんは、もう少しここで吸ってから帰るという。先に路地へ出ると、吐く息が白くなっていた。




