第二話「カシスソーダ」
カーテンの隙間から、オレンジ色の光が差し込んでいる。夕方の五時過ぎに、私は重たいまぶたを開けた。百貨店にいた頃なら、まだ売り場で笑っている。起き上がってキッチンへ行くと、流しに、昨夜もらった賄いの容器が空になって置いてあった。中身は鶏と大根の煮物と白いご飯だった。夢ではなかったらしい。
メランコリアの営業時間は、二十時から翌日の午前三時まで。日が沈んでから働き、夜明け前に帰る。今の私の体には、そのほうが合いそうだった。シャワーを浴びて、すっぴんよりはマシな程度に顔を作ってから、クローゼットの前に立った。制服の指定は特になく、「白か黒のシャツと動きやすいパンツでいいよ。靴もスニーカーで構わない」と月乃さんからは言われていた。
ハンガーに並んだ服を眺める。毛玉のついたスウェットや、大学時代に着ていた色褪せたワンピースばかりで、夜のバーにふさわしい服など一着も持っていない。迷った末に、BA時代に指定のジャケットの下に着ていた白いブラウスを手に取った。もう二度とこの服に袖を通すことはないと思い、ゴミ袋に入れかけた。他人の前に出て働くための正解の服が、私にはこれしか見つけられなかった。
十九時四十分。扉の前に立つと、中から、硬いものを叩く音が聞こえた。間をあけて、同じ音が続いている。ドアノブを引くと、頭の上でベルが控えめに鳴った。
「おはようございます。本日からよろしくお願いします」
店内にはもう明かりが入り、ジャズピアノが小さく流れていた。音の正体は、カウンターの奥で月乃さんが割っている氷だった。両手で抱えるほどの塊に、アイスピックの先を何度も入れている。
「おはよう。着替えと荷物、そこのバックヤードに置いてきて。エプロンはそこのフックにかかってるの、適当に使って」
促されて入ったバックヤードは、人一人がやっと立てるほどの狭さだった。鞄をロッカーに押し込むと、横の壁に手書きのシフト表が貼ってあるのが目に入った。平日の欄に山﨑、土日の欄には大野という名前が並んでいる。平日の欄のところどころには、黒く塗りつぶされた名前がもう一つあった。今日の欄の山﨑には線が一本引かれ、横に小さく、面接、と書き足してある。
黒いエプロンの紐を、腰の後ろで結ぶ。結び終えたところで、胃が縮んだ。百貨店では、お客様が来店された際の「いらっしゃいませ」のトーンまで決まっていた。お辞儀の角度は常に三十度を保ち、両手は必ずおへその下で交差させること。口角はどんなに疲れていても、下げてはならない。下げていいのは謝る時だけで、その角度まで決まっていた。少しでもイレギュラーな対応をすれば、お局からバックヤードに呼び出され、人格を否定されるような叱責が飛んでくる。
「あの、月乃さん。私はまず、何をすれば……マニュアルなどはありますか?」
月乃さんは氷を容器に移し替えながら、不思議そうな顔で私を見た。
「マニュアル? そんなのないよ」
「ない、んですか? じゃあ、ご案内の手順とか、おしぼりを出すタイミングとか……」
「適当でいいよ。お客さんが座ったら、水とおしぼり出して。空いたグラスがあったら下げて、洗い物してくれればそれでいいから」
「適当、ですか」
私が返事に詰まっていると、月乃さんの口元がわずかに緩んだ。
「うん。お客さんは、静かに過ごしたい人が多いし。話しかけられたら答えるくらいで十分」
いつ「いらっしゃいませ」を言うべきか、どういう笑顔を作るべきか、何一つ指示がない。適当、というのが、今の私には一番難しかった。私はカウンターの隅で体を固くしたまま、時計の針が進むのを数えていた。
二十時半を回った頃、ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ!」
百貨店で叩き込まれた高い声が勝手に出て、腰は三十度きっかりに折れていた。店内に、私の声だけが響き渡る。
扉を押して、私と同じか少し年下くらいの青年が入ってきた。黒いゆったりとしたカーディガンを羽織り、長めの前髪が目元に影を落としている。彼は私の挨拶に驚いたのか、一瞬だけ足を止めたが、何も言わずにカウンターの隅へ座った。月乃さんは「いらっしゃいませ」とは言わず、ただ軽く顎を引いて会釈しただけだった。視線は彼の肩のあたりで止まって、顔までは上がらない。
私は慌てて、グラスに氷と水を入れて彼のもとへ運ぶ。
「失礼いたします。お冷とおしぼりでございます」
「……どうも」
声は思っていたよりも低く、最初の音が少し掠れた。
カウンターに置かれた彼の手が目に入る。指が長く、爪はどれも短く切り揃えられていた。右手の中指の第一関節に、硬いペンだこがある。目の下には、くっきりとクマがあった。
青年はメニューを見ることもなく、短く告げた。
「ウーロン茶、お願いします」
月乃さんが氷を入れたグラスにウーロン茶を注ぎ、コースターの上に置く。青年は鞄から文庫本を取り出し、無言でページをめくり始めた。背表紙が白く割れるほど読み込まれた本だった。天からは、色とりどりの付箋が何十枚もはみ出している。
私はカウンターに戻り、その横顔をちらちらと窺った。
……バーに来て、ウーロン茶だけ?
バックヤードでこっそりメニュー表を確認した時、ウーロン茶は一杯五百円と書かれていた。コンビニで買えば百数十円のものに、五百円。付き合いで来て飲めないのなら、まだ分かる。彼は一人で来ている。貯金を崩してギリギリの暮らしをしている私には、到底分からない金の使い方だ。
彼はそれから一時間ほど、グラスの氷が溶けるのに任せて本を読んでいた。時々水滴を指先でなぞるくらいで、誰とも口をきかない。やがて本に栞を挟むと、五百円玉を一枚カウンターに置いて立ち上がった。
「毎度。またね、蒼くん」
月乃さんがそう言うと、青年は軽く頭を下げて店を出て行った。空いたグラスを下げながら、私は月乃さんに聞いた。
「あの人、いつもウーロン茶なんですか」
「んー、そうだね」
「お酒、飲めない方なんですか?」
「さあね」
月乃さんはグラスを受け取り、シンクに沈めた。
「あの、余計なことかもしれないんですけど。ウーロン茶に五百円って、もったいなくないんでしょうか」
自分でも、意地の悪い言い方になっている自覚があった。月乃さんは気を悪くした様子もなく、布巾で手を拭いて、あっさりと答えた。
「あの子はここに、お茶を飲みに来てるわけじゃないから」
じゃあ何をしに来ているのか。聞き返そうとした時には、月乃さんはもう次のグラスを洗い始めていた。
初日の勤務を終え、賄いだというハムとチーズのサンドイッチを包んでもらって店を出たのは、午前三時半。誰も歩いていない道を帰りながら、自分の顔に両手を当ててみた。
痛くない。
百貨店では、仕事を終えてロッカーで着替える頃には、頬の筋肉が強張って引きつるほど痛んだ。今日は頬のどこも強張っていない。
あの青年にも、そのあと来た数人の客にも、私はグラスを下げておしぼりを出すほかは、ほとんど言葉を交わさなかった。月乃さんも、私のそっけない接客に何も言わない。
部屋に戻り、電気もつけずにキッチンに立ったまま、サンドイッチの包みを開ける。冷えたパンに厚切りのハム。チーズは塩気がちょうど良かった。一口食べて、二口目でようやく、自分がひどく腹を空かせていたことに気がついた。誰かが私のために作ったものを、二晩続けて食べている。そんなことは実家を出てから一度もなかった。
二日目の夜、開店の十分前に、スーツの上着とネクタイを紙袋に突っ込んだ男の人が駆け込んできた。私と同じくらいの年で、耳の上を刈ったばかりなのか、そこだけ地肌が白い。昼に会社の説明会があって、その足で来たのだという。
「昨日から入りました、黒田です。よろしくお願いします、ヤマザキさん」
「ヤマサキです。あの……濁らないほうでお願いします」
きっと何度も間違えられているのだろう。濁らないほう、のところだけ、少し強く言った。
「すみません」
「いえ、慣れてるんで。僕、履歴書にもふりがな振ってるのに、面接官にまで間違えられますから」
山﨑さんはそう言って笑うと、手を洗ってカウンターに入った。ハイボールやモスコミュールなら、手際よく作る。
大野さんとは最初の土曜に顔を合わせた。三十代の前半くらいで、深い赤に染めた髪を、首の後ろできっちりまとめている。家には小さい子どもがいて、土日の夜は旦那さんが見ているそうだ。
「黒田さんね。よろしく。私、もとはここの客なの。子どもができる前は、週に三回はウイスキー飲みに来てた。月乃さんとは、この店ができる前からの付き合い。あ、シェイカーは一応振れるけど、苦手。そこは期待しないで」
どこで知り合ったのかまでは言わずに、大野さんはエプロンの紐を結んだ。
一週間、二週間と経つうちに、洗い場の蛇口のひねり加減や、グラスを戻す棚の順番を、手が先に覚えた。常連客の顔と好みも、少しずつ覚えていく。
佐代子さんは、毎週木曜の二十二時きっかりに現れる。四十代くらいの女性客で、仕立てのいいスーツを着て一人で座り、ギムレットを二杯だけ飲んで帰っていく。そのギムレットだけは、山﨑さんがいる夜でも、必ず月乃さんがシェイカーを振った。月乃さんによれば、去年の暮れに夫と離婚したらしい。
「黒田さんは、お若いからいいわね。肌も綺麗だし。これから何にだってなれるわ」
ある夜、グラスを下げに行った私に、佐代子さんは自嘲気味に笑いかけてきた。私はどう返していいか分からず、トレーを胸の前で抱えたままだった。
「いえ、そんなこと……私なんて、本当に何もない人間ですから」
「若いってだけで、それはもう才能なんだから。……私みたいに、全部空っぽになってからじゃ遅いのよ」
佐代子さんは、底に少しだけ残ったグラスを回していた。私は慰めの言葉一つ見つけられず、「失礼いたします」と頭を下げて、カウンターへ逃げ帰った。
週末には、不動産の会社を経営しているという五十代の男が来る。連れている女性は、毎回違った。香水のきつい人の夜もあれば、女子大生のようなあどけない子の夜もある。
彼はカウンターに座るなりマッカランをロックで頼み、蘊蓄を語り始める。大野さんはメジャーカップを使わずにグラスへ注ぐが、量は毎回ほとんど変わらない。
「ここの酒はね、他とは氷が違うんだよ。マスターが手で割ってる純氷だから、溶けにくくて酒の味が薄まらない。ね、嬢ちゃん?」
得意げに、わざわざ私にまで同意を求めてくる。ギラギラと脂の浮いた額が目に入ると、私は胸の内で舌打ちをした。口のほうは、三年間で染みついた癖のまま動いた。「そうですね、こだわってますから。さすが、お詳しいですね」と、愛想笑いまでつけておだててしまう。
男が帰ったあと、大野さんがロックグラスを下げながら言った。
「あの人、氷の話はするのに、中身の話は一回もしないのよね。ダサいわ、ホント」
私は吹き出しかけて、慌ててうつむいた。
木曜はギムレットを二杯、週末はマッカランのロック。注文を一つ覚えるたびに、売り場のことを思い出す。百貨店にもいた。椅子に腰かけるなり、「いつものね」とだけ言うお客様。ファンデーションの色番号も、リップの品番も、私は何十人分と頭に入れていた。自分のいつものは、一つもない。唇に塗る色さえ、ブランドがその季節に決めたものだった。
あの青年は相変わらず二日に一度やってくる。メニューは見ずにウーロン茶を頼み、文庫本を開く。私はグラスの水滴を拭くふりをしながら、カウンターの端から彼を眺めるのが癖になっていた。彼は同じ本を、何度も初めから読み直しているようだった。付箋は前に見た時より増えている。
名前を藤代蒼さんといった。
金曜の夜。山﨑さんは面接が重なったとかで休みで、カウンターの中は月乃さんと私の二人だけだった。日付が変わった一時過ぎ、よそで飲んできたらしい三人組のサラリーマンが、テーブル席でずっと大きな声で管を巻いていた。
「おい、姉ちゃん! こっちの水、なくなってんだけど! 早く持ってきてよ!」
テーブルを叩く音に、肩がびくりと跳ねた。足元が一瞬で、あの大理石の床に変わる。
「大変申し訳ございません! すぐにお持ちいたします!」
「姉ちゃん、可愛いねえ。学生?」
水を運んでいくと、一番年配の男が、アルコールと煙草の臭い息で絡んできた。
「いえ、あの……フリーター、です」
「へえー。こんな暗い店で働いてて楽しいの? 彼氏いるの?」
私は両手を握りしめ、口角を目いっぱい引き上げた。
「あはは……ありがとうございます。今は仕事が楽しいので。お褒めいただいて光栄です」
「んだよ、つれないなぁ。一杯どう? マスター、この子に何か飲ませてやってよ。俺の奢りでさ」
月乃さんはカウンターの中から、「従業員の飲酒は禁止してますので」とだけ返した。男たちは舌打ちをして、今度は私に文句を言い始めた。
「申し訳ございません。申し訳ございません」
同じ言葉を繰り返す私を、月乃さんはカウンターの中から見ているだけで、助け船は出さない。
午前二時になって、彼らはようやく会計を済ませて出ていった。「じゃあな、姉ちゃん」と肩を叩かれ、扉が閉まった途端に膝から力が抜けて、私はその場に座り込んでしまった。
床の木目を見ていると、さっきの自分の声が耳に戻ってくる。お褒めいただいて光栄です。売り場で何百回と口にした台詞が、そのまま出ていた。
エプロンの裾を握ったまま立ち上がれずにいると、頭の上で、カチャッ、とグラスを置く音がした。顔を上げると、カウンターの中から月乃さんが見下ろしている。
「黒田さん。こっち来て」
叱られるのだと思った。「あんな安っぽい接客をするな」「キャバクラみたいな媚び方をして店の雰囲気を壊すな」、と。
重い足でカウンターの前に立つ。月乃さんは無言で、私の目の前に一つのグラスを滑らせた。薄張りのグラスの中で、紫色の液体がはじけている。
「これ、なんですか?」
「カシスソーダ。賄い」
「でも、私、お酒は……それに、勤務中ですし」
「炭酸とシロップだけだから酔わないよ。メニューには出してない、うちの賄い。飲みな」
私はグラスを両手で持って、口をつけた。炭酸が舌の上で細かく弾けて、甘酸っぱさがあとから来た。
「今日一日、良い顔してたよ」
私は顔を上げた。怒られると思っていたのに。あんな最低な接客をしたのに。
「でもね」
月乃さんの切れ長の目が、まっすぐに私を見ていた。
「全員に好かれようとしなくていい。辛いでしょ」
見ていたのだ。私があの三人にまで謝り続けていたのを。
「だって」
言い返すつもりはなかったのに、声が先に出ていた。
「接客業って、そういうものじゃないんですか? お金を払ってくださるお客様を不快にさせないように、笑顔を作って……」
言いかけて、口をつぐんだ。私はもうBAじゃないのだ。存在しないマニュアルで自分の首を絞め続けている。
「ここは、百貨店じゃないよ。無理して笑わなくていいし、嫌な客にまで頭下げなくていい」
月乃さんは、空になった私のグラスを取って、洗い場へ下げた。
「あがろうか。今日もお疲れ様」




