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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
第一章
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第一話「シンデレラ」②

 昼間はカーテンを閉め切った部屋で眠り続けた。起きていると余計なことを考えてしまうから、眠れるだけ眠る。目が覚めるのはいつも夕方だった。曜日はすぐに分からなくなった。カーテンの隙間から漏れる光の色が、時間を教えてくれる。白ければ昼で、橙になれば夕方、青く沈めば夜。それ以外に、一日を区切るものが何もなかった。


 食事は一日に一度あればいいほうだった。冷蔵庫にはゼリー飲料が数本と、いつ買ったのか思い出せないマヨネーズだけが残っている。空腹を感じても、キッチンに立つまでの数歩がどうしても億劫で、そのまま眠ってしまうこともあった。


 ベッドに寝転がったまま、スマホの画面を無心でスクロールするだけの時間が、何時間も続く。かつての同僚たちが、新しいコスメを顔の横に掲げて笑っている。タイムラインには、結婚式の写真や、転職先のオフィスから撮った窓の外が、次々と流れてきた。


『週末は夫と軽井沢へドライブに行きました』

『新しい職場のプロジェクト、無事にリリース! みんなでお祝いのディナーです』

 みんな、私が寝ているあいだに先へ進んでいる。同期だった佳奈(かな)のアカウントだけは、流れてきても見ずに飛ばした。スマホが震え、通知が表示された。


『燈(あかり)、元気?』

『最近連絡ないけど、ちゃんと食べてる?』


 姉の瑠依(るい)からのメッセージだった。瑠依は、黒川瑠依(くろかわるい)という芸名でドラマや映画に出ている女優だ。顔も要領も良くて、親戚が集まれば、先に名前を呼ばれるのはいつも姉のほうだった。


 私は既読をつけることすらできず、画面を伏せた。心配してくれているのは分かる。分かるから、返せない。


 静かすぎるのが嫌で、テレビをつけた。深夜の再放送枠で、一年前のドラマが流れていた。画面の中で姉が笑っている。白いワンピースを着て、誰かに向かって何かを言っている。口が動いて、目が細くなって、最後に首を傾げる。台詞は耳を素通りしていく。


 私はリモコンに手を伸ばさなかった。姉の顔を、こんなに長く見つめるのは久しぶりだ。テレビの中の瑠依は綺麗だった。悔しいくらいに、そしてつまらないくらいに綺麗で、優しそうな顔をしていた。


 画面が切り替わってコマーシャルが始まったところで、私は電源を落とす。部屋が元の暗さに戻った。


 辞めて一週間ほど経った日、ハローワークにだけは出かけた。番号札を取って、呼ばれるまでパイプ椅子で四十分ほど。同じように順番を待つ人が、周りにも十数人いた。誰も喋らず、誰もこちらを見ない。


 窓口の女性は、書類から顔を上げないまま話した。離職票がまだ届いていないと伝えると、先に求職の申し込みだけを済ませるように言われる。自分から辞めた人間の場合、給付が始まるのはすぐではないのだと、そこで初めて知った。


 しばらくは貯金を崩して暮らすしかない。受付表と、次に持ってくる書類の一覧を鞄に押し込み、私は逃げるように建物を出た。まだ午後の二時で、外の明るさに目の奥が痛む。通りには人が多く、みんなどこかへ向かって歩いていた。私は信号が二回変わるまで、横断歩道の手前に立っていた。


 部屋に戻って、スマホで銀行のアプリを開く。残高の数字は開くごとに小さくなっていた。家賃を引けば、あと何ヶ月もつのか。計算しかけて、画面を消した。こんな暮らしがいつまでも続くはずはない。どこかで、終わらせなければ。


 ある夜、午前二時を回った頃に、胃が鳴った。私はベッドの上で、重い体を起こす。


 マンションから歩いて数分のコンビニには、私と、レジでスマホを弄っている若い男性店員しかいなかった。私はカゴを手に取り、棚のあいだを当てもなく歩いた。手当たり次第に、カロリーの塊をカゴに放り込んでいく。


 カップの油そば、生クリームの詰まったシュークリーム、レジ横のフライドチキン、特大サイズのエナジードリンク。


 夜中にこんなものを食べたら、絶対に太る。肌も荒れる。頭の片隅で、元美容部員の私がそう言っている。分かっていても、手は止まらない。油と砂糖という心の麻酔が欲しかった。


 マンションに戻り、エレベーターに乗り込む。壁の鏡越しに目があった自分は、目の下のクマが青黒く沈んで、唇の皮が白く浮いていた。


 外廊下に出ると、夜風が吹き抜けていく。自分の部屋の扉の前を通り過ぎて、気づくと、私は柵の前に立っていた。下を覗くと、街灯に照らされたアスファルトがずっと遠くにあった。見下ろしているうちに、その遠さが分からなくなっていく。


 自分の体が自分のものではないみたいだ。足の裏の感覚が遠く、音が薄い。悲しくも、苦しくもなかった。


「あんまり下ばっかり見てると、本当に落ちるよ」


 柵から身を乗り出そうとしたその時、声が聞こえた。顔を向けると、廊下の先に一人の女性がいた。隣の部屋の住人だ。何度か廊下ですれ違ったことがある。煙草の匂いが、そこでようやく鼻に届いた。


 廊下の蛍光灯の下で、背中まで伸びたブロンドの髪だけが明るかった。私より頭一つ分背が高く、黒いシャツに細身のパンツを合わせている。切れ長の目には中性的な色気があって、指に挟んだ煙草の先が、小さく赤く光っている。


 綺麗な人だな、とぼんやり思った。自分が何をしようとしていたのかも、忘れていた。


「……こんばんは」


 口から出たのは間の抜けた挨拶だけだった。柵から一歩、体を離す。彼女は煙草の火を携帯灰皿で消すと、ゆっくりと私のほうへ歩いてきた。


「ひどい顔してるね。それ、ご飯?」


 反射的に袋を隠そうとしたが、遅かった。


「あ、えと、はい。なんか、無性に食べたくなって……」

「嘘だね」


 顔を上げると、彼女はもう袋の中を覗いていた。


「それ全部食べて、気持ち悪くなって吐いて、また泣くつもりなら、やめといたほうがいいよ」


 何も言い返せず、私はうつむいた。足が震え出しそうになるのを堪えているうちに、彼女は私の腕を軽く掴んでいた。


「降りるよ」

「え?」

「ちょっと付き合って。その袋の中身よりは、マシなもの出してあげるから」

「いや、でも、私、こんな格好ですし、お金も……」

「いいから。ほら、行くよ」


 逆らう気力もなく、私は袋を提げたまま、彼女に引かれてもう一度エレベーターに乗り込んだ。マンションの裏手の、いつもは通らない路地を入った先に、重たそうなアンティーク調のドアがあった。横の壁に、細い筆記体で店名が刻まれている。


『Melancholia』


 メランコリア。憂鬱。


 今の私みたいだな、と心の中で毒づく。ドアノブには、本日は早じまいします、と手書きした紙が下がっていた。彼女はそれを外して、ポケットに入れた。鍵を出し、ドアを開ける。


「入って」


 促されて中に入る。彼女が壁のスイッチを押すと、明かりがついた。小さなバーだった。カウンターに六席と、奥にテーブルが二つ。琥珀色の間接照明が、壁一面の棚に並んだ洋酒のボトルを下から照らしている。古い木と柑橘の匂いがする。


「適当に座って」


 彼女はカウンターの中に入ると、髪を後ろで一つに束ね、シャツの袖をまくった。私は一番端の席に浅く腰かけた。


「何にする?」


 聞かれて彼女の後ろの棚を見上げたけれど、並んだボトルのラベルは、一つも読めなかった。


「……あの、私、お酒あんまり飲めないんです」


 バーに連れてきてもらって、お酒が飲めないなんて、迷惑でしかない。彼女はグラスに丸氷を一つ落としてから答えた。


「知ってる。飲めなさそうな顔してるから」


 彼女はオレンジ、パイナップル、レモンの果汁を、順にシェイカーへ量り入れていく。氷を詰めて蓋を閉めると、シャカ、シャカ、と乾いた音が続いた。淡い黄色の液体が丸氷の上に注がれ、カラン、と氷が鳴る。グラスが私の前に置かれた。


「はい、これ。うちでは、お酒が飲めない人のことを『シンデレラ』って呼ぶんだよね。これも同じ名前。お酒は入ってないから」

「なんで、そんな名前なんですか」

「十二時になる前に、お家に帰らなきゃいけないからね」


 そう言って、彼女はようやく目元を緩めた。壁の時計の針は、とっくに二時を回っている。私に魔法なんて、かけられていない。


「私は、九条月乃(くじょうつきの)。ここの店主」

「黒田燈(くろだあかり)です。あの、ご近所なのに、ちゃんと挨拶もしていなくて、すみませんでした」


 名乗ったあと、恐る恐るグラスに口をつけた。弾けるような酸味の後に果汁の甘さが来て、爽やかな香りが鼻を抜けていく。


「美味しい……」

「そりゃどうも」


 月乃さんは自分のグラスに炭酸水を注ぎ、煙草に火をつけた。


「で? さっきは何しようとしてたわけ?」

「……えっと」

「どうせ、一人で鬱々としてたら死にたくなった、とかそんなところでしょ」


 図星すぎて、私はグラスを持ったまま固まった。


「なんで、分かるんですか」

「バーテンダーやってるとね、毎日嫌でもいろんな人間の顔を見るの。限界迎えてる人間の顔なんて、見飽きてる」

「……最近、仕事辞めたんです。美容部員、してたんですけど。向いてなかったみたいで」


 叱られたまま辞めた日のことと、テレビの中で笑っていた姉のことを、ぽつぽつと話した。月乃さんは口を挟まず、シェイカーを洗いながら聞いている。話し終えると、グラスの中のシンデレラはもう空になっていた。月乃さんは煙草を灰皿に押しつけて、口を開いた。


「黒田さんさ。うちでアルバイトでもしてみる?」

「え?」


 自分でも情けない声が出た。さっきまで死のうとしていた人間にかける言葉ではない。


「昨日、新人くんが飛んじゃってさ。洗い物と、簡単な接客ができる人が欲しいんだよね。私一人じゃちょっと回らなくて」

「は……」


 はい、と言いかけて、口を閉じた。売り場では、どんな頼まれごとにも、まずそう答えていた。答えてから、どうするかを考える。


 一人じゃ回らない、と聞いて、ドアノブに下がっていた紙を思い出す。


「でも……私、お酒のことなんて全然詳しくないですし」

「今すぐ立派なバーテンダーになってくれなんて言ってないよ。お酒は働きながら覚えればいいし、合わなかったらすぐ辞めてもいいから」


 月乃さんは、洗い終わったシェイカーを棚に戻し、同じ調子で続ける。


「前の会社、月何万ぐらい貰ってた?」

「えっと、手取りで二十三万ぐらいです」

「あー、うちでもシフト次第で同じぐらいは出せるかな。時給千八百円スタートでどう? もちろん残業代も深夜手当も出すし、賄いもつける。仕事探しの繋ぎでもいいからさ」

「……お客さんの前に出るのは、まだ無理だと思います」

「じゃあ、最初は洗い物と、お冷とおしぼりだけ。お客さんの顔は見なくても出せるでしょ」


 空のグラスの底に、溶けかけた丸氷が残っていた。私はそれをしばらく見ていた。


「……洗い物からで、いいなら」


 月乃さんは驚いたように目を瞬かせて、それから、薄く口角を上げた。


「オッケー。じゃあ、採用で。明日から来れる?」

「……はい」

「よし。じゃあ今日はもう帰りな。賄いあげるから、それ食べて寝な」


 月乃さんが奥のキッチンへ入っていく。一つに束ねた金色の髪が、背中で揺れていた。私はその後ろ姿を見つめていた。

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