第一話「シンデレラ」①
新宿。大手百貨店の六階にある催事場。年に一度、香水のブランドをいくつも集める催しの日だった。什器がフロアいっぱいに並び、どこでも試香紙が配られている。通路を一往復するだけで、香水の匂いが、何重にも服に移った。
うちのブランドの売り場は、エスカレーターを上がって左の奥にある。催しのあいだだけ、一階のカウンターから、先輩と私と後輩の佐藤の三人が上がってきていた。朝の打ち合わせが終わると、先輩はシフト表を私の胸元に押しつけた。
「黒田さんは今日、裏ね。箱潰しと、テスター、サンプルの補充」
「え、接客は……」
「この忙しい時期に辞める人に、お客様は任せられないでしょ」
隣のブランドのBAが、聞こえないふりをして試香紙を扇いでいた。
昼過ぎ、催事限定のコフレを予約していたお客様が、受け取りに来た。棚に残っていた箱は、予約の数より一つ少ない。先輩は深く頭を下げ、明日のお渡しで納得してもらった。下りのエスカレーターに乗った背中が見えなくなるまで、先輩は笑顔を崩さなかった。
「本当に、申し訳ございませんでした」
私の口から滑り出たその言葉には、何の感情も入っていなかった。真紅のリップを不機嫌に歪めた顔の前で、深く頭を下げる。視界の端で、黒いパンプスが苛立たしげに床を叩いていた。
「黒田さん。あなた、もう四年目よね? なんでこんな初歩的なミスが起きるわけ?」
「はい。私の確認不足でした」
「ご予約のコフレが足りないって、どういうこと? 明日お渡しできなかったら、誰がどう責任取るの? それに、そのヘラヘラした態度、前から気になってたんだけど」
叱責は下げた頭の上に降り続けた。通路を行く靴が、私たちの前でだけ歩幅を緩めていく。
コフレの在庫を数え間違えたのは、私の後ろで小さくなっている後輩の佐藤だった。間違えた数字のまま、発注の画面で登録まで済ませていた。私が休憩に行っているあいだのことだ。それでも、先輩が責める相手に選んだのは、私のほうだった。裏の担当は私だったし、最近、私の売上が自分に追いつきかけていたのも面白くなかったのだろう。
佐藤のミスだと説明することは、もちろんできた。「私が入力したわけではありません」と一言言えば済む。そう言ったところで、先輩の矛先は佐藤に移り、最後には「後輩のダブルチェックもできないあなたの責任」になって、話がもっと大きくなるだけだ。
私は黙って、全部を被った。この時間を終わらせるには、それが一番早い。口角をかすかに下げ、眉間に浅く皺を寄せる。目は合わせず、顎を引いてうつむく。手は体の前で組む。新人研修では、これを正解の顔と教わった。三年かけて磨いた技術のなかで、一番醜くて、一番役に立つものだ。
「……もういいわ。他店から在庫回してもらうように手配したから。今日で最後だからって、気抜かないでよね。本当に迷惑」
そう吐き捨てて、先輩は什器の裏の通路へ消えていった。ねっとりとしたバニラの匂いが、まだ鼻の奥にこびりついている。
「黒田さん、すみません。私のせいで……私、本当のこと言ってきます」
背後で、佐藤の震える声がした。
「ううん、いいのいいの。気にしないで」
「でも、私が間違えたのに……」
「今更言ってもややこしくなるだけだし、佐藤さんが怒られるの見たくないからさ。それに、私、今日で辞めるんだし」
手のひらには、爪の跡がついている。ふざけるな、と叫びたかった。誰が悪いのか、分かっているくせに。
残りの時間は、裏で箱を潰し続けた。二十時に、会場の音楽が止まる。閉場のアナウンスが流れ、テスターの上に白い布が掛けられていった。潰した箱を台車に積んで、地下一階の集積所まで運ぶ。帰る前に、一階の自分のカウンターを見に行った。大理石の床が、残った明かりを白く照り返している。三年立ち続けた床なのに、私の靴の跡はどこにも残っていない。
更衣室で私服に着替えて、銀色の名札を外す。ロッカーの中には、思っていたほど物がなかった。私物と呼べるものは、使いかけのハンドクリームと、予備のストッキングが一足きり。紙袋一つで足りてしまった。
裏口から外に出ると、十月に入っても、新宿の夜風はまだ生ぬるかった。今日で辞めたというのに、体は少しも軽くならない。この三年で覚えたのは、人の機嫌の取り方と、言いたいことの飲み込み方くらいだ。
一度だけ、そうでない日もあった。入社して一ヶ月ほど経った、ある日の夕方。まだ自分の力で何一つ売れたことがなく、先輩の後ろで在庫を運ぶくらいしかできずにいた頃だ。
二人連れの客が、私の立つカウンターの前で足を止めた。母親と娘。母親のほうは、どこにもロゴの入っていないジャケットを着ていた。四つのしつけ糸だけだからこそ、それが何なのか分かってしまう類の服だ。娘は小柄だった。白いシャツにデニムという飾り気のない格好で、マスクをしている。高校生ぐらいだろうか。制服ではないので学年までは分からないが、目の据わり方がどこか大人びていた。
「香水がほしいんです」
娘のほうがそう言った。
「初めて買うので……何も分からなくて」
私は先輩の顔色を窺った。先輩は「新人の練習台にちょうどいい」とでも言いたげに、顎で棚を指した。買わない客だと踏んでいる。私は棚の端から接客を始めた。試香紙に一つずつ吹きつけ、香りを説明していく。柑橘、石鹸、バニラ、薔薇。娘はそのたびにマスクを少し下げ、真剣な目で鼻を近づける。「これは違います」「これは、少しだけ好きです」と、正確に感想を返してきた。母親は一言も口を挟まず、通路のほうに立って、ただ見ていた。
時計を見ると、一時間近くが経っている。試香紙はカウンターの端で束になり、私の鼻は混ざり合った香りで利かなくなりかけていた。棚の反対の端で、娘の手が止まった。
メゾン・ソルビエの『ネージュ・ダヴリル』。
四月の雪、という意味だと研修で教わった。ライムと、マグノリア。青く弾ける柑橘の奥から、白木蓮がゆっくりと立ち上がってくる。試香紙を鼻先に近づけた瞬間、彼女の肩から力が抜けた。その香りは娘の立ち姿に似合っていた。
「これに、します」
棚の一番上の列に並ぶ、六万円の香水。その列の箱が売れていくのを、私はまだ見たことがなかった。値段を告げる前に、私は母親の顔を盗み見た。高校生が香水一本に出す金額ではない。娘は、こちらが何か言う前に、自分のバッグから財布を出していた。
「自分のお給料で買うって、決めてたので」
お給料。十代の子の口から出るには、固い言葉だった。アルバイトなら、ふつうはバイト代と言う。モデルか、子役か。私の知らない世界のどこかで、彼女はもう働いているのだろうか。母親は、当たり前のものを見る顔で、娘の手元を眺めていた。
「よくお似合いだと思います」
言ってから、しまった、と思った。マニュアルに載っている言葉で、売れたあとに言えば、どうしたって営業に聞こえる。本心だったのに。
「ありがとうございます」
マスクの上の目が、そこで初めて笑った。紙袋を渡し、エスカレーターのほうへ歩いていく二人に頭を下げる。顔を上げた時には、もう人混みに紛れて見えなくなっていた。名前は聞かなかった。顔も、正直、よく覚えていない。覚えているのは白い花の香りだけだ。あの一時間、私は一度も先輩のほうを振り返らなかった。
ハンドクリームとストッキングしか入っていない紙袋を抱えて、満員電車に揺られた。駅からマンションまで歩き、暗い玄関に入る。背中でドアが閉まる音を聞いた。
トートバッグを床に投げ捨てた。中から化粧ポーチや財布が転がり出たが、拾う気にもなれない。靴を脱ぎ捨て、ベッドまで這い、倒れ込んだ。
「あーっ……!」
自分の声とは思えない音が出た。私は髪を掻き毟って、ベッドに顔を押し付ける。シーツに染み込んだ数日分の汗の匂いと、香水の匂いが混ざり合って、吐き気がした。
その日から、私は外に出なくなった。




