スピンオフ①「ラスト・ワード」
錠剤カッターの蓋を押し込むと、白い錠剤が二つに割れた。中では細かい粉が散っている。
片方をピルケースに入れて、もう片方は小さな袋に戻す。ピルケースのほうは、店を閉めてから飲む。部屋に帰ってからにすると、飲む前に寝てしまう日があった。
半分にしようと医師に言われたのは、夏の初めだった。この先も、様子を見ながら少しずつ減らしていく。焦らなくていい、と医師は毎回言う。焦っているのは、私のほうだけらしい。
ピルケースをジーンズのポケットに押し込んで、部屋を出た。
その日は、店に私しかいなかった。黒田さんは休みで、橘さんは実家に帰っている。
日付が変わる少し前に、二人連れが帰った。洗ったグラスを伏せていると、扉が開く。
「まだ、やってますか」
女性がこちらを見ていた。茶色の髪が肩の下まであって、化粧はしていない。顔立ちは幼いのに、目の下にうっすらクマがある。黒田さんと同じくらいの歳に見えた。
「三時までやってますよ。どうぞ」
彼女はカウンターの真ん中に座ると、手元の灰皿を、指で少しだけ奥へ押しやった。トートバッグから、大学ノートとペンを出す。
「ラスト・ワードって、できますか」
「できますよ」
「よかった。名前で頼んじゃいました。最後の一行が、決まらなくて」
「お仕事ですか?」
「一応、小説書いてて。そんな売れてるわけじゃないんですけど」
彼女はノートを開いた。細かい字が、罫線を無視してページの端まで埋まっている。
棚の上の段から、グリーン・シャルトリューズを下ろす。ジンと、シャルトリューズと、マラスキーノと、ライム。同じ目盛りまで量って、シェイカーに入れていく。振るうちに、シェイカーの表面が白く曇った。
冷やしたグラスに注ぐ。濁りを含んだ淡い緑が、満ちていく。
「お待たせしました。ラスト・ワードです」
彼女は一口飲んで、口をすぼめた。
「なんというか……薬草っぽいですね」
「使ってるの薬草だからね」
彼女は笑って、もう一口飲んだ。ペンケースの中から、錠剤のシートを一枚出す。白い粒を一つ押し出して手のひらに載せ、もう片方の手でグラスを持ち上げた。
気づいた時には、カウンター越しに手首をつかんでいた。
「それで飲まないで」
グラスの中で、緑が大きく揺れた。彼女は目を丸くして、それから申し訳無さそうな顔をした。
「あ、違うんです。これ、偽物なので」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「偽薬です。プラセボってやつ。中身はただのお砂糖で、ちゃんとそういうものとして売ってるんですよ」
彼女は手のひらの錠剤を、私のほうへ傾けて見せた。真っ白な粒には何も刻まれていない。
「書く前に、一錠飲むことにしてるんです。飲んだら書ける、って体に覚えさせてて。偽物だって分かってても効くって、そういう研究もあるらしいですよ」
つかんでいた手首を、放した。無意識にジーンズのポケットの上から、ピルケースの角に触れる。こっちは、本物だ。
「偽物でも、酒で流すのはやめときな」
グラスに水を注いで出すと、彼女は素直に錠剤を口に入れて、それで飲んだ。
「すみません。びっくりさせちゃって」
「こっちこそ。手、ごめんね」
彼女は手首をさすって、首を横に振った。ノートに向き直ると、ペンの先が紙の上で止まっては、また動く。
棚に戻しかけたシャルトリューズの瓶を、カウンターの上に置き直した。
「これ、もとは薬なんだよ」
「え?」
「シャルトリューズ。修道院で作ってるお酒でね。長生きするための薬の処方から始まってるの」
彼女はグラスを目の高さに上げて、緑を透かした。
「じゃあ、私のより本物じゃないですか」
「年季が違うからね」
彼女は声を出して笑った。その笑い方だけは、年相応に見える。
そのあとの彼女は、ほとんど喋らなかった。グラスの中身が少しずつ減って、ノートのページがめくられる。私はグラスを拭いて、明日のぶんのライムを切った。
ペンを置く音がした。
「あの、これ」
彼女はシートから錠剤を一つ押し出して、紙ナプキンの上に載せた。
「止めてくれたお礼です。お守りに。効きますよ、信じれば」
受け取って、レジの横に置いた。飲めば、少しは楽になるのだろうか。彼女はノートを閉じて、トートバッグにしまった。
「決まりました。最後の一行」
「よかったね」
何が書いてあるのかは、聞かなかった。
会計を済ませて、お釣りを渡す。その上に、白い粒を載せた。
「これ、返す」
「効きますよ?」
「だから返すの。……私のは別のがあるから」
彼女は少しのあいだ私の顔を見て、それから、白い粒をお釣りと一緒に財布にしまった。
「ごちそうさまでした。また、書けなくなったら来ます」
「書けてても来ていいよ。ありがとうね」
扉が閉まると、店にはシャルトリューズの匂いが少しだけ残った。
三時に店の明かりを落として、レジを締める。シャルトリューズの瓶を、棚の上の段に戻した。
ピルケースを開けて、半錠を手のひらに出す。蛇口の水を汲んだグラスで、それを流し込んだ。
本物の薬は、苦い味がする。




