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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
終章
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28/31

最終話「キール」

 こんなに足元の悪い日に、わざわざ路地の突き当たりまで飲みに来る物好きはいない。入口の傘立てには、私と黒田(くろだ)さんの傘しかなかった。


「見事に誰も来ないねえ」

「この雨ですもんね」


 カウンターの中で、黒田さんと苦笑いをする。橘(たちばな)さんは新学期の準備で、今週は入れない。


 カウンターを拭く横顔を見ているうちに、意地の悪いことを思いついた。


「黒田さんこそ、早く帰らなくていいの。蒼(そう)くん、寂しがってるんじゃない」


 黒田さんの肩が跳ねた。


「えっ、いや、そんなことないですよ。今日も『足元、気をつけて』ってメッセージくれましたし」

「へー。天気予報みたい」

「月乃(つきの)さん、わざとやってますよね」

「わざとに決まってるでしょ。こんな暇な日に他に何すんの」


 黒田さんは唇を尖らせて、ダスターで同じところばかり拭いている。からかうのをやめると、扉の向こうの雨の音が、また耳についた。


「月乃さん。冷蔵庫の一番奥の、ベルモットの小瓶。あれ、期限切れてますよね」

「あー、うん」

「私が入ってから、一年半そのままです。捨てたほうがいいのか、ずっと聞けなくて」


 私はシンクの縁に腰を預けた。


「あれね、この店開ける前の日に買ったの。その晩、一人でマティーニ作ってさ。一口も飲まないで、シンクに流した」


 黒田さんはダスターをカウンターに置いた。


「作ってから気づいたんだよね。私、あれ好きじゃないんだって。作れるところを、誰かに見せたかっただけ。会社にいた頃から、そんなことばっかり。なんか馬鹿らしくなっちゃって」


 あの晩から、自分のために作って最後まで飲んだのは、レッドアイの一杯だけだ。


「じゃあ、瓶は」

「捨て損ねただけ」

「大晦日に、わざわざ奥に戻してましたよね」

「捨てるのも面倒だったの」


 嘘であることくらい、黒田さんもたぶん分かっている。


「あのさ、なんでこの店の名前がメランコリアなのか、話したことあったっけ」

「憂鬱(ゆううつ)、ですよね」

「うん。憂鬱って書いてある店なら、憂鬱な顔で入ってきても、誰も変だと思わないでしょ。誰かの憂鬱を紛らわせる場所にしたかったんだ」


 黒田さんは笑わなかった。真剣な目のまま私を見て、それから、冷蔵庫の前にしゃがんだ。


「月乃さん」


 立ち上がった黒田さんの手には、白ワインのボトルと、クレーム・ド・カシスの瓶があった。


「一杯、作らせてもらえませんか」

「私に? 飲めないの、知ってるでしょ」

「知ってます。飲まなくていいです。匂いだけでも」

「……まあいいや。お手並み拝見といこうかな」


 黒田さんは冷やしたグラスに白ワインを注いで、カシスのリキュールを落とした。赤い色が底のほうへ沈んでいく。バースプーンで一度だけ持ち上げると、グラスの中が淡い赤に揃った。


「キール、です」


 差し出されたグラスを、私はすぐには取れなかった。


 このカウンターで、何千杯作ってきたか分からない。カウンターの中にいて、誰かに一杯を選んでもらうのは、これが初めてだった。


「月乃さん?」

「……ああ、うん」


 グラスの脚を持ち上げたところで、黒田さんが言った。


「キールのカクテル言葉、『最高のめぐり逢い』です」


 黒田さんは、目を逸らさなかった。


「……ずるいなあ、そういうの」


 声を立てて笑ったら、目の端が濡れた。グラスに鼻を寄せると、カシスの甘酸っぱい匂いの奥に、白ワインの冷たい匂いがした。


「何も言うことはないね。完璧」

「……ありがとうございます」


 黒田さんの口の端が、遅れて持ち上がった。


 店を任せきりにしていた半年のことを、私はまだ、ほとんど話していない。黒田さんが店を開けた夜は、夜更けに、隣の部屋の鍵が回る音がした。その音を、布団の中で聞いていた。


 冷蔵庫の扉に目をやる。


「あと、あの瓶。捨てといて」


 黒田さんが、えっ、という顔をした。


「いいんですか」

「もう置いとく理由ないでしょ。そんなに長いこと見られてたなんて、思ってなかったし」

「見ますよ。毎日開けるんですから」


 黒田さんはしゃがんで、一番奥から小瓶を取り出した。シンクの上で傾けかけて、手が止まる。波打ったラベルを親指でなぞってから、こちらを見た。


「いいよ。流しちゃって」


 黒田さんが瓶を傾ける。細い音がして、すぐに止んだ。グラスの匂いを、もう一度だけ吸い込む。


「今日はもう、上がっていいよ。どうせ誰も来ないし」

「閉店までいます。誰か来るかもしれないので」


 黒田さんはダスターを取って、さっき拭いたばかりのカウンターを、また拭き始めた。


 十二時を過ぎても、うちのシンデレラは帰らない。こんな日がずっと続けばいいと、柄にもなく思った。

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