最終話「キール」
こんなに足元の悪い日に、わざわざ路地の突き当たりまで飲みに来る物好きはいない。入口の傘立てには、私と黒田さんの傘しかなかった。
「見事に誰も来ないねえ」
「この雨ですもんね」
カウンターの中で、黒田さんと苦笑いをする。橘さんは新学期の準備で、今週は入れない。
カウンターを拭く横顔を見ているうちに、意地の悪いことを思いついた。
「黒田さんこそ、早く帰らなくていいの。蒼くん、寂しがってるんじゃない」
黒田さんの肩が跳ねた。
「えっ、いや、そんなことないですよ。今日も『足元、気をつけて』ってメッセージくれましたし」
「へー。天気予報みたい」
「月乃さん、わざとやってますよね」
「わざとに決まってるでしょ。こんな暇な日に他に何すんの」
黒田さんは唇を尖らせて、ダスターで同じところばかり拭いている。からかうのをやめると、扉の向こうの雨の音が、また耳についた。
「月乃さん。冷蔵庫の一番奥の、ベルモットの小瓶。あれ、期限切れてますよね」
「あー、うん」
「私が入ってから、一年半そのままです。捨てたほうがいいのか、ずっと聞けなくて」
私はシンクの縁に腰を預けた。
「あれね、この店開ける前の日に買ったの。その晩、一人でマティーニ作ってさ。一口も飲まないで、シンクに流した」
黒田さんはダスターをカウンターに置いた。
「作ってから気づいたんだよね。私、あれ好きじゃないんだって。作れるところを、誰かに見せたかっただけ。会社にいた頃から、そんなことばっかり。なんか馬鹿らしくなっちゃって」
あの晩から、自分のために作って最後まで飲んだのは、レッドアイの一杯だけだ。
「じゃあ、瓶は」
「捨て損ねただけ」
「大晦日に、わざわざ奥に戻してましたよね」
「捨てるのも面倒だったの」
嘘であることくらい、黒田さんもたぶん分かっている。
「あのさ、なんでこの店の名前がメランコリアなのか、話したことあったっけ」
「憂鬱、ですよね」
「うん。憂鬱って書いてある店なら、憂鬱な顔で入ってきても、誰も変だと思わないでしょ。誰かの憂鬱を紛らわせる場所にしたかったんだ」
黒田さんは笑わなかった。真剣な目のまま私を見て、それから、冷蔵庫の前にしゃがんだ。
「月乃さん」
立ち上がった黒田さんの手には、白ワインのボトルと、クレーム・ド・カシスの瓶があった。
「一杯、作らせてもらえませんか」
「私に? 飲めないの、知ってるでしょ」
「知ってます。飲まなくていいです。匂いだけでも」
「……まあいいや。お手並み拝見といこうかな」
黒田さんは冷やしたグラスに白ワインを注いで、カシスのリキュールを落とした。赤い色が底のほうへ沈んでいく。バースプーンで一度だけ持ち上げると、グラスの中が淡い赤に揃った。
「キール、です」
差し出されたグラスを、私はすぐには取れなかった。
このカウンターで、何千杯作ってきたか分からない。カウンターの中にいて、誰かに一杯を選んでもらうのは、これが初めてだった。
「月乃さん?」
「……ああ、うん」
グラスの脚を持ち上げたところで、黒田さんが言った。
「キールのカクテル言葉、『最高のめぐり逢い』です」
黒田さんは、目を逸らさなかった。
「……ずるいなあ、そういうの」
声を立てて笑ったら、目の端が濡れた。グラスに鼻を寄せると、カシスの甘酸っぱい匂いの奥に、白ワインの冷たい匂いがした。
「何も言うことはないね。完璧」
「……ありがとうございます」
黒田さんの口の端が、遅れて持ち上がった。
店を任せきりにしていた半年のことを、私はまだ、ほとんど話していない。黒田さんが店を開けた夜は、夜更けに、隣の部屋の鍵が回る音がした。その音を、布団の中で聞いていた。
冷蔵庫の扉に目をやる。
「あと、あの瓶。捨てといて」
黒田さんが、えっ、という顔をした。
「いいんですか」
「もう置いとく理由ないでしょ。そんなに長いこと見られてたなんて、思ってなかったし」
「見ますよ。毎日開けるんですから」
黒田さんはしゃがんで、一番奥から小瓶を取り出した。シンクの上で傾けかけて、手が止まる。波打ったラベルを親指でなぞってから、こちらを見た。
「いいよ。流しちゃって」
黒田さんが瓶を傾ける。細い音がして、すぐに止んだ。グラスの匂いを、もう一度だけ吸い込む。
「今日はもう、上がっていいよ。どうせ誰も来ないし」
「閉店までいます。誰か来るかもしれないので」
黒田さんはダスターを取って、さっき拭いたばかりのカウンターを、また拭き始めた。
十二時を過ぎても、うちのシンデレラは帰らない。こんな日がずっと続けばいいと、柄にもなく思った。




