第二十六話「マルガリータ」
彼女が僕の右腕を枕にして眠っている。
肘のあたりから先が、すっかり痺れていた。寝返りを打った拍子に彼女の頭が乗って、そのまま朝になった。
時計を見るには腕を伸ばさなければならず、そうすれば彼女が起きてしまう。天井の隅の小さな染みを見ていた。カーテンの色からすると、まだ朝早い。
黒い髪が、僕の腕の内側に散らばっている。寝る前に浴びたシャワーの湿りが、腕にまだ少し残っている気がした。触っていいのか迷って、指を動かさずにいた。
シーツは、どこもかしこも寄っている。ベッドの脇の床には、彼女のカーディガンが落ちたままだ。
終わったあと、二人とも黙っていた。呼吸が落ち着くまで、並んで天井を見ていたと思う。
彼女が「電気、消しますね」と言って、枕元を手探りし始めた。僕が「そこにないです」と言うと、「じゃあどこですか」と返ってきて、探しているうちに、二人とも笑ってしまう。
付き合って二か月で、これが二度目になる。それが多いのか少ないのかも、僕には見当がつかない。比べる相手がいない。たぶん、彼女にも。
暗い中で、彼女が僕の名前を呼んだ。返事をしたつもりだったが、声になっていたかどうかは自信がない。
呼び方は、まだ決まっていない。店では黒田さん。初めて店の外で名前を呼んだ時、僕は「燈さん」と言った。言ってから、さん付けはおかしいだろうかと思った。彼女のほうも僕を蒼さんと呼び続けているので、たぶんお互い様なのだろう。
付き合うことになった夜、閉店後の路地で、彼女は僕を呼び止めた。マフラーの端を両手で握ってから、言った。何と言ったのかは、僕だけが覚えていればいいと思っている。
昨日の閉店後、彼女は路地から出て、そのままここへ来た。玄関で「おはようございます」と言われて、僕は「おかえり」と返す。どちらも間違っている気がしたが、直す言葉も思いつかなかった。
彼女の一日は、僕の一日と半周ずれている。店を閉めるのは夜中の三時で、眠るのは明け方。目を覚ますのは、僕が昼食を終えて会社に戻る頃だ。
僕は朝に家を出て、帰りはたいてい夜遅い。彼女が店に立つ頃、僕はまだ電車の中にいる。
二人とも起きていて、どこにも行かなくていい時間がどれだけあったか、数えてみたことがある。数えてもどうにもならないのは分かっていた。丸一日ぶんにも、届いていない。
初めて土曜が被ったと分かってから、昼の店を探し始めた。担当している作家に「この辺でいい店ありますか」と聞いたら、打ち合わせ向きの喫茶店を教えられた。聞き方を変えて、もう一度聞いた。
書店の雑誌コーナーで立ち読みをして、写真の載っている店をいくつか書き留める。気づくと鞄の中の付箋を探していて、隣にいた学生に二度見された。結局、駅から少し歩いたビストロを予約した。
「……何時ですか」
昼前、毛布の中から声がした。
「十一時、ちょっと過ぎです」
「嘘」
彼女は上体を起こして、それからまた枕に戻った。
「すみません、寝すぎました」
「いつもなら、まだ寝てる時間ですよね」
「それは、そうなんですけど」
言いながら、毛布の端を顎まで引き上げている。
「あの、私の服って」
「……床です」
僕が洗面所から出てくると、彼女は鞄からポーチを出して化粧を始めていた。それを仕事にしていた人だからなのか、迷いのない順番でものが顔の上を通っていく。見ているのを気づかれたくなくて、窓のほうを向いた。
ビストロでは、窓際の席に通された。春先の日差しが、テーブルの半分までまっすぐ入ってきている。
「うわ、明るい」
「席、変えてもらいますか」
「いいです、これで」
彼女は日の当たるほうへ手のひらを向けて、しばらくそのままにしていた。
前菜が来て、パンが来て、しばらく食べもののことを話した。店の話も、担当している本の話も、どちらからもあまり出ない。僕が前に話したことを、彼女はよく覚えていて、話はそこから続いた。
「あ、そうだ。あの本、三刷かかって」
「えっ」
彼女のフォークが皿に当たって、小さな音が鳴った。
「三刷って、三回目ってことですよね。すごい」
「刷る数は、そんなに多くないですけどね」
「部数とかいいんですよ、そういうのは」
彼女はパンをちぎって、それを持ったまま続けた。
「うちの店、置いてますよ。本棚に」
「知ってます」
「え、気づいてました?」
「毎回、座るたびに見てます。自分から言うのも、と思って」
メインの皿が下げられた頃から、彼女の瞬きが遅くなった。返事が少しずつ遅れて、相づちが短くなる。
「蒼さん。今、二時なんです」
「なにがですか」
「体感が……深夜で」
言い終わる前に、彼女の頭がかくんと落ちた。
「あ」
「大丈夫ですか」
「大丈夫です。今の、寝てないので」
コーヒーが運ばれてくる頃には、彼女は窓のほうに首を傾けて動かなくなっていた。手はテーブルの上で、ナプキンを軽く握ったままになっている。
鞄に手を入れた。打ち合わせのない日でも、文庫本が入っている。開いて読み始めたが、いくらも進まないうちに、店員が皿を下げに来た。手つかずのコーヒーと彼女の顔を見比べて、少し困った顔をする。
「もう少しだけ、置いておいてもらえますか」
声を落として言うと、店員は笑って下がった。
窓の外を、自転車が通る。犬を連れた人が通る。テーブルの上の日差しが少しずつずれて、彼女の指にかかった。
本を閉じて、その手を見ていた。ずいぶん前に、あの店で月乃さんに言われたことがある。削っちゃいけないところを削ると、誰の記憶にも残らない、という話だった。
店に入ってから、何も起きていない。調べて選んだ店で、彼女は昼を食べて、眠った。削るなら、真っ先に削られる場面だと思った。
しばらくして、彼女が目を開けた。どこにいるのか分からない顔をしたあと、勢いよく背筋を伸ばす。
「すみません!」
「おはようございます」
「え、私、どのくらい」
「三十分くらいですかね」
彼女は自分の手元を見て、僕の手元の本を見た。
「最悪だ……」
「どうしてですか」
答える代わりに、彼女は両手で顔を覆った。指の隙間から見える頬まで、色が変わっている。
「三日前から楽しみにしてたのに」
言ってから、言わなければよかったという顔をした。僕は僕で、水を飲んだ。
「コーヒー」
「あー……」
「淹れ直してもらいますか」
「いいです。飲みます」
彼女は冷めたコーヒーを一口飲んで、はっきり顔をしかめた。
店を出ると、日が傾き始めていた。駅までの道を並んで歩いたけれど、何を話したかは、あまり覚えていない。
途中で彼女が立ち止まって、ショーウィンドウの中を覗いた。気づくのが遅れて、少し先で振り返った。
「今日、私、寝ただけでしたね」
「そんなことは」
改札の手前で、人が二人のあいだを抜けていった。彼女は少し横にずれる。
「次、ちゃんとします」
「別に、ちゃんとしなくても」
「します」
「じゃあ、次は僕が寝ます」
「なにそれ」
敬語が抜けたことに、彼女は気づいていないようだった。
夜、路地の突き当たりの扉を引いた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中に、白いシャツに黒いエプロンの彼女が立っていた。端の席に座ると、おしぼりと水が出てくる。おしぼりは、僕の手から少し遠いところに置かれた。
「こんばんは」
「今日は、手ぶらなんですね」
「休みですから」
「あ、そうか。そうですよね」
駅で別れてから、まだいくらも経っていない。彼女がグラスを拭き終えるのを待って、言った。
「マルガリータをお願いします」
「お強くないですよね」
「一杯だけなら」
「へえ、テキーラいけるんだ」
奥のほうから、月乃さんの声が飛んできた。
「いけるかどうかは、これからです」
「ふうん」
それきり、奥はまた氷を割る音だけになった。彼女が時々、そちらへ目をやる。
彼女はグラスを出し、縁をライムで濡らした。塩を敷いた皿の上にグラスを伏せて、くるりと回す。持ち上げると、縁に白い線がついていた。
シェイカーを構えて、短く振る。注がれた液体は、うっすらと濁った白だった。
「どうぞ。マルガリータです」
一口飲んだ。塩が先に来て、そのあとに酸味が来た。強いが、飲める。
「どうですか」
「思ってたより、塩ですね」
「感想、それだけですか」
彼女は笑って、グラスの位置をほんの少し直した。口を開きかけて、閉じる。
「なんですか」
「いえ。なんでもないです」
布巾を取って、彼女は手元を拭き始めた。言おうとしてやめたのだと、僕には分かった。彼女は僕にカクテル言葉の話をする時、少しためらう。狙っているみたいだから、と前に言っていた。
僕はそれを、もう知っている。昼の店を探している時に、ついでに開いたページに載っていた。僕も、口には出さなかった。
グラスの縁の塩が、飲むたびに少しずつ減っていく。




