第二十五話「レッドアイ」
元日の昼、実家へ向かう電車は空いていた。窓際の席に座って、スマホを出す。瑠依とのトーク画面には、十月の半ばから読んでいないメッセージが溜まっている。一番古いところまで遡って、順番に眺める。
『ちゃんと食べてる?』
『お店、寒くなってきたでしょ』
十二月の最後の一通は、『よいお年を』だけだった。返信を打っては消すうちに、駅を三つ過ぎた。
『ずっと開けられなくて、ごめん。大丈夫じゃなかった』
送信を押すと、既読はすぐについた。返事が来るまでに、電車は一駅進んだ。
『うん』
もう一通、続けて届いた。
『今度、お店行ってもいい?』
しばらく待っても、続きは来なかった。
『来て』
送ってから、窓の外を見た。電車が川を渡るところだった。実家の玄関を開けると、出汁の匂いがした。母は私の顔を見るなり、お餅いくつ、と聞いた。
年が明けて、店を開ける最初の日。扉の前に立つと、中から、硬いものを叩く音が聞こえた。少し間をあけて、また鳴る。
ドアノブに伸ばした手を、一度下ろした。ピックの先が塊に入る音が何度か続いて、ごとりと重い音に変わる。
扉を開けると、カウンターの奥で、短い黒髪の頭が上がる。
「おはよう」
「……おはようございます」
月乃さんはまた塊にピックを入れた。エプロンの紐を結びながら、その手元を見ていた。かけらの角が、ピックの先で一つずつ落とされていく。
開店の十分前に、月乃さんはエプロンを外して帰っていく。
その日から、週に二日か三日、開店前の店で氷を割る音がするようになった。一月の終わりには、営業日を週五日に増やした。
月乃さんが土曜日に来ている日は、出勤してきた大野さんが、ブラックの缶コーヒーを一本、作業台の端に置いていく。月乃さんは塊から目を上げずに、ありがと、と言う。
橘さんは、久しぶりに月乃さんの顔を見た日に、製氷機の報告をした。毎日欠かさず挨拶をしてきたこと。月乃さんはピックを持ったまま、何の話、と言う。橘さんはそれでも満足そうに頷いていた。
一月の最後の金曜日、マンハッタンの人が、ミキシンググラスの中の氷に目を留めた。
「氷、戻ったんだね」
「はい。店長が、開店前だけ来るようになって」
「そう」
男性はマンハッタンを時間をかけて飲んだ。帰り際、勘定を置いて、こちらを見る。
「あの人に伝言。角の落とし方が、まだ雑だ、と」
その夜の報告にそのまま書くと、犬の代わりに文字が返ってきた。
『うるさい』
二月に入って最初の水曜日、閉店の一時間前に、瑠依が来た。撮影の帰りらしく、目元にだけ、落としきれていない色が残っている。テーブル席には一組だけ客がいて、瑠依はカウンターの一番奥に座った。
「来たよ」
「うん」
何にするか聞く前に、クレーム・ド・バイオレットの瓶を下ろした。
「私、まだ何も言ってないんだけど」
「いつものでしょ」
瑠依は頬杖をついて、シェイカーを振る私の手元を見ていた。
テーブル席の二人が会計を済ませて出ていくと、店には私と姉だけが残った。瑠依はコースターの縁を、指でなぞっている。
「事務所の話なんだけどさ。メイクの枠、春まで待ってもらえることになったの。社長も燈のこと覚えてて、瑠依ちゃんの妹さんなら、って」
シェイカーを洗い続けた。
「行かない」
瑠依がグラスを置いた。
「ちょっと、即答はないんじゃない?」
「ずっと考えてたから。ここにいるよ」
「バイトのままで?」
「分かんない。でも、ここがいいの」
瑠依はすぐには答えず、紫色の残りを、グラスの中で一度だけ回した。
「もったいないって思うよ、私は」
「うん」
「燈、メイクうまいもん。売り場の誰よりうまかったでしょ」
「誰より、は言いすぎ」
「言いすぎじゃないよ」
瑠依は真顔のままだった。上がりかけた口角を、私は元に戻した。
「もう一杯ちょうだい」
空のグラスがカウンターの上を滑ってきた。
二杯目を作るあいだ、瑠依はもう事務所の話をしなかった。帰り際、扉の前でマフラーを巻き直して、こちらを振り返る。
「社長には、私から言っとく。燈が自分で断ったって」
「うん。ありがと」
「あと、今日のは抜け駆けだから。次は小春も連れてくる。また飲みたいんだって」
扉が閉まった。閉店作業を終えてから、報告を打つ。
『今日、開けました。お客さん九人です。姉が来ました』
しばらくして、白い犬が返ってきた。
二月の二週目、月乃さんは来なかった。火曜に、『今週無理』とだけ届いた。開店前の店から、また音が消えた。帰り道のコンビニに寄って、水とゼリーを買う。袋は、隣の扉の前に置いて帰る。
犬のスタンプは、木曜から返ってこなくなった。その週、蒼さんは来るたびに、原稿の束をめくりながら閉店まで残っていた。
金曜の夜、袋を置こうとすると、扉の向こうでシャワーの音がした。
翌週の木曜、店を閉めてマンションへ戻ると、エレベーターの扉が開いた先に、月乃さんがいた。外廊下の柵に片方の肘を預けて、こちらを向いている。下は見ていなかった。パーカーの上にコートを羽織って、煙草も持っていない。
「お疲れ」
「……お疲れさまです」
「先週、ごめんね」
いえ、と言って、提げていた袋を持ったまま隣に立った。柵の冷たさが、コート越しに肘に来る。
「黒田さんにさ、ちゃんと言っとこうと思って」
月乃さんは廊下の蛍光灯のほうを見ていた。
「私、うつなんだよね」
袋の持ち手が指に食い込んだ。
「前の会社にいた時に、一回なってる。辞めたのも、それ。辞めてから一年くらい、部屋から出られなかった」
月乃さんの吐いた息が、蛍光灯の下で白く広がった。
「薬で外に出られるようになって、よその店で洗い物して、ここ開けて。もう終わったんだと思ってた。医者には、また来ることがあるって言われてたんだけどね」
月乃さんは柵の上で指を組んだ。
「何かあったわけじゃないの。黒田さんがギムレット作れるようになったからでも、佐代子さんが福岡に行ったからでもない」
ずっとそのことを考えていた。誰にも言っていないのに、月乃さんには分かっていたらしい。
「今も薬飲んでる。だから、お酒はしばらく飲めない」
月乃さんは柵の上で、組んだ指を組み替えた。
「黒田さんと初めて話した、あの晩さ」
黙って頷いた。
「店、早く閉めたでしょ。あれ、私のほうが駄目な日だったの」
月乃さんは組んでいた指をほどいて、柵の手すりを、軽く二回叩いた。
「ここ、私も立ったことあるんだよね」
廊下の奥で、どこかの部屋の換気扇が回り始めた。何か言わなきゃ、と思うのに、言葉が出てこない。
「……あの夜の煮物、おいしかったです」
急な言葉に月乃さんが、ぱちぱちと瞬きをした。
「それ、今言う?」
「ずっと言ってなかったので」
「鶏と大根でしょ。あれ、残りものだよ」
月乃さんは少しだけ笑って、手すりから肘を離した。
「寒いね。もう入る」
袋を差し出すと、月乃さんは中を見ずに受け取って、自分の扉の前で振り返った。
「おやすみ」
次の日、扉の前に立つと、中から硬いものを叩く音がした。扉を開けると、月乃さんは割りかけの塊の前で、右の手首を振っていた。
「固いんだよ、今日の氷」
月乃さんはピックを置いて、作業台の端のコンビニの袋から缶を二つ出した。ノンアルコールのビールと、小さいトマトジュース。背の高いグラスに、トマトジュースを缶の半分だけ注ぐ。そこへビールをゆっくり足すと、赤い液体の上に、薄い泡の層ができた。
「レッドアイ。ノンアルだけど」
月乃さんはグラスを持ち上げた。月乃さんはグラスの半分を一息に飲んで、口の端についた泡を手の甲で拭った。缶に残ったトマトジュースを、私のほうへ滑らせる。
「黒田さんは、こっちね」
缶のまま一口飲んだ。冷たくて、少ししょっぱい。月乃さんは残りを飲み干してグラスを置くと、もう一度アイスピックを握った。




