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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
終章
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26/31

第二十五話「レッドアイ」

 元日の昼、実家へ向かう電車は空いていた。窓際の席に座って、スマホを出す。瑠依(るい)とのトーク画面には、十月の半ばから読んでいないメッセージが溜まっている。一番古いところまで遡って、順番に眺める。


『ちゃんと食べてる?』

『お店、寒くなってきたでしょ』


 十二月の最後の一通は、『よいお年を』だけだった。返信を打っては消すうちに、駅を三つ過ぎた。


『ずっと開けられなくて、ごめん。大丈夫じゃなかった』


 送信を押すと、既読はすぐについた。返事が来るまでに、電車は一駅進んだ。


『うん』


 もう一通、続けて届いた。


『今度、お店行ってもいい?』


 しばらく待っても、続きは来なかった。


『来て』


 送ってから、窓の外を見た。電車が川を渡るところだった。実家の玄関を開けると、出汁(だし)の匂いがした。母は私の顔を見るなり、お餅いくつ、と聞いた。


 年が明けて、店を開ける最初の日。扉の前に立つと、中から、硬いものを叩く音が聞こえた。少し間をあけて、また鳴る。


 ドアノブに伸ばした手を、一度下ろした。ピックの先が塊に入る音が何度か続いて、ごとりと重い音に変わる。


 扉を開けると、カウンターの奥で、短い黒髪の頭が上がる。


「おはよう」

「……おはようございます」


 月乃さんはまた塊にピックを入れた。エプロンの紐を結びながら、その手元を見ていた。かけらの角が、ピックの先で一つずつ落とされていく。


 開店の十分前に、月乃さんはエプロンを外して帰っていく。


 その日から、週に二日か三日、開店前の店で氷を割る音がするようになった。一月の終わりには、営業日を週五日に増やした。


 月乃さんが土曜日に来ている日は、出勤してきた大野さんが、ブラックの缶コーヒーを一本、作業台の端に置いていく。月乃さんは塊から目を上げずに、ありがと、と言う。


 橘(たちばな)さんは、久しぶりに月乃さんの顔を見た日に、製氷機の報告をした。毎日欠かさず挨拶をしてきたこと。月乃さんはピックを持ったまま、何の話、と言う。橘さんはそれでも満足そうに頷いていた。


 一月の最後の金曜日、マンハッタンの人が、ミキシンググラスの中の氷に目を留めた。


「氷、戻ったんだね」

「はい。店長が、開店前だけ来るようになって」

「そう」


 男性はマンハッタンを時間をかけて飲んだ。帰り際、勘定を置いて、こちらを見る。


「あの人に伝言。角の落とし方が、まだ雑だ、と」


 その夜の報告にそのまま書くと、犬の代わりに文字が返ってきた。


『うるさい』


 二月に入って最初の水曜日、閉店の一時間前に、瑠依が来た。撮影の帰りらしく、目元にだけ、落としきれていない色が残っている。テーブル席には一組だけ客がいて、瑠依はカウンターの一番奥に座った。


「来たよ」

「うん」


 何にするか聞く前に、クレーム・ド・バイオレットの瓶を下ろした。


「私、まだ何も言ってないんだけど」

「いつものでしょ」


 瑠依は頬杖をついて、シェイカーを振る私の手元を見ていた。


 テーブル席の二人が会計を済ませて出ていくと、店には私と姉だけが残った。瑠依はコースターの縁を、指でなぞっている。


「事務所の話なんだけどさ。メイクの枠、春まで待ってもらえることになったの。社長も燈(あかり)のこと覚えてて、瑠依ちゃんの妹さんなら、って」


 シェイカーを洗い続けた。


「行かない」


 瑠依がグラスを置いた。


「ちょっと、即答はないんじゃない?」

「ずっと考えてたから。ここにいるよ」

「バイトのままで?」

「分かんない。でも、ここがいいの」


 瑠依はすぐには答えず、紫色の残りを、グラスの中で一度だけ回した。


「もったいないって思うよ、私は」

「うん」

「燈、メイクうまいもん。売り場の誰よりうまかったでしょ」

「誰より、は言いすぎ」

「言いすぎじゃないよ」


 瑠依は真顔のままだった。上がりかけた口角を、私は元に戻した。


「もう一杯ちょうだい」


 空のグラスがカウンターの上を滑ってきた。


 二杯目を作るあいだ、瑠依はもう事務所の話をしなかった。帰り際、扉の前でマフラーを巻き直して、こちらを振り返る。


「社長には、私から言っとく。燈が自分で断ったって」

「うん。ありがと」

「あと、今日のは抜け駆けだから。次は小春(こはる)も連れてくる。また飲みたいんだって」


 扉が閉まった。閉店作業を終えてから、報告を打つ。


『今日、開けました。お客さん九人です。姉が来ました』


 しばらくして、白い犬が返ってきた。


 二月の二週目、月乃さんは来なかった。火曜に、『今週無理』とだけ届いた。開店前の店から、また音が消えた。帰り道のコンビニに寄って、水とゼリーを買う。袋は、隣の扉の前に置いて帰る。


 犬のスタンプは、木曜から返ってこなくなった。その週、蒼(そう)さんは来るたびに、原稿の束をめくりながら閉店まで残っていた。


 金曜の夜、袋を置こうとすると、扉の向こうでシャワーの音がした。


 翌週の木曜、店を閉めてマンションへ戻ると、エレベーターの扉が開いた先に、月乃さんがいた。外廊下の柵に片方の肘を預けて、こちらを向いている。下は見ていなかった。パーカーの上にコートを羽織って、煙草も持っていない。


「お疲れ」

「……お疲れさまです」

「先週、ごめんね」


 いえ、と言って、提げていた袋を持ったまま隣に立った。柵の冷たさが、コート越しに肘に来る。


「黒田(くろだ)さんにさ、ちゃんと言っとこうと思って」


 月乃さんは廊下の蛍光灯のほうを見ていた。


「私、うつなんだよね」


 袋の持ち手が指に食い込んだ。


「前の会社にいた時に、一回なってる。辞めたのも、それ。辞めてから一年くらい、部屋から出られなかった」


 月乃さんの吐いた息が、蛍光灯の下で白く広がった。


「薬で外に出られるようになって、よその店で洗い物して、ここ開けて。もう終わったんだと思ってた。医者には、また来ることがあるって言われてたんだけどね」


 月乃さんは柵の上で指を組んだ。


「何かあったわけじゃないの。黒田さんがギムレット作れるようになったからでも、佐代子(さよこ)さんが福岡に行ったからでもない」


 ずっとそのことを考えていた。誰にも言っていないのに、月乃さんには分かっていたらしい。


「今も薬飲んでる。だから、お酒はしばらく飲めない」


 月乃さんは柵の上で、組んだ指を組み替えた。


「黒田さんと初めて話した、あの晩さ」


 黙って頷いた。


「店、早く閉めたでしょ。あれ、私のほうが駄目な日だったの」


 月乃さんは組んでいた指をほどいて、柵の手すりを、軽く二回叩いた。


「ここ、私も立ったことあるんだよね」


 廊下の奥で、どこかの部屋の換気扇が回り始めた。何か言わなきゃ、と思うのに、言葉が出てこない。


「……あの夜の煮物、おいしかったです」


 急な言葉に月乃さんが、ぱちぱちと瞬きをした。


「それ、今言う?」

「ずっと言ってなかったので」

「鶏と大根でしょ。あれ、残りものだよ」


 月乃さんは少しだけ笑って、手すりから肘を離した。


「寒いね。もう入る」


 袋を差し出すと、月乃さんは中を見ずに受け取って、自分の扉の前で振り返った。


「おやすみ」


 次の日、扉の前に立つと、中から硬いものを叩く音がした。扉を開けると、月乃さんは割りかけの塊の前で、右の手首を振っていた。


「固いんだよ、今日の氷」


 月乃さんはピックを置いて、作業台の端のコンビニの袋から缶を二つ出した。ノンアルコールのビールと、小さいトマトジュース。背の高いグラスに、トマトジュースを缶の半分だけ注ぐ。そこへビールをゆっくり足すと、赤い液体の上に、薄い泡の層ができた。


「レッドアイ。ノンアルだけど」


 月乃さんはグラスを持ち上げた。月乃さんはグラスの半分を一息に飲んで、口の端についた泡を手の甲で拭った。缶に残ったトマトジュースを、私のほうへ滑らせる。


「黒田さんは、こっちね」


 缶のまま一口飲んだ。冷たくて、少ししょっぱい。月乃さんは残りを飲み干してグラスを置くと、もう一度アイスピックを握った。

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