第二十四話「シンデレラ」
十一月の半ばから、報告にスタンプが返ってくるようになった。白い犬が、片目だけ開けて寝そべっている絵。お客さんの数を送った日も、発注を間違えませんでした、と書き足した日も、返事はその犬だけだった。三日続いたところで、読んだ、という意味だと思うことにした。
十二月の最後の配達の日、西村さんが伝票をめくりながら言った。
「そういえば、九条さんから電話ありましたよ。年明けのぶん、いつもより多めにって」
台車から下ろされた段ボールを数えると、二つ多かった。
大晦日の夜、一人で店へ向かった。今日から三日までは休みで、生ものは昨日のうちに使い切ってある。手に提げた袋には、ゴム手袋と、おろしたての布巾の束が入っている。
年に一度、冷蔵庫の中身を全部出して拭く。今年は私がやる。実家には明日帰ればいい。
路地の突き当たりまで来ると、重たい扉の下の隙間から、明かりが漏れていた。昨日は消して帰ったはずだ。
ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。扉を恐る恐る開ける。
床に、瓶が並んでいた。甘口のベルモット、ライムジュース、シロップの瓶。冷蔵庫の扉が開けっぱなしになっていて、その前に、誰かがしゃがみ込んでいる。灰色のパーカーの背中と、短い黒髪の後頭部。冷蔵庫の奥に、肘まで腕を突っ込んでいた。
泥棒だ。店の酒を、床に並べて選んでいる。袋の持ち手を握り直して、肩の高さまで振り上げた。軽い袋が頼りなくビニールの音を立てる。その音で、黒い頭がこちらを向いた。
「何してんの、黒田さん」
月乃さんの声だった。行き場のなくなった袋を、そろそろと下ろす。
「……泥棒かと思いました」
「泥棒が冷蔵庫拭く?」
月乃さんは手にした布巾を振ってみせた。
背中まであった金髪が、なくなっていた。耳が半分隠れるくらいの長さで、襟足はもっと短い。前髪は真ん中で分けて、額が出ている。染め直した黒は、地毛より少しだけ青みがかっていた。つい、毛先の切り口まで見てしまう。いい美容師に当たったのだろう。
「髪、切ったんですね」
月乃さんはふいと顔を背けた。冷蔵庫のほうへ向き直って、空になった棚板を引き抜く。
「もう金髪なんてやってられない歳だからさ。あと、乾かしやすい」
「似合ってます。すごく」
短くなった髪のせいで、耳の先が赤くなっていくのがよく見えた。
「なんで、いるんですか」
自分の声が少し掠れていた。月乃さんは棚板をシンクに立てかけた。
「大晦日でしょ。これやんないと、一年終わんないから」
袋をカウンターに置いて、コートを脱いだ。布巾の束から、一枚抜く。
月乃さんが差し出してくる瓶を受け取った時、パーカーの袖口から手首が見えた。骨の形がはっきりしていた。去年の今日、月乃さんはここで一人でこれをやっていたのだと思う。
瓶は、月乃さんが渡して、私が拭く。首を拭いて、栓の周りの砂糖の固まりを爪で落とす。ラベルの期限を読み上げると、月乃さんが、いる、いらない、と答える。
「スタンプ、分かった?」
ライムジュースの瓶を渡しながら、月乃さんが言った。
「読んだ、って意味だと思ってました」
「合ってる。犬は別に、意味ないから。最初に出てきただけ」
月乃さんは次の瓶に手を伸ばした。
「年明けから、ちょっとずつ来るから。開店前だけ。氷と仕込み。週に二日か、三日」
「氷、割ってくれるんですか」
「割るよ。店に出るのは、まだ無理。たぶん」
「……はい」
手の中のシロップの瓶を、拭き続けた。棚板を戻して、拭き終えた瓶を一本ずつ入れていく。
最後に、床に小さな瓶が一本だけ残った。ラベルの波打った、辛口のベルモット。私がここで働き始めた時から、冷蔵庫の一番奥にあったものだ。
拾おうとしたら、先に月乃さんの手が伸びてきた。手のひらの上で一度だけ転がして、冷蔵庫の一番奥へ元どおりに押し込む。期限は読み上げなかった。聞いていいことなのかどうか、私には分からない。
冷蔵庫の扉を閉めた時には、二十三時を回っていた。月乃さんが、足元に置いていたコンビニの袋を持ち上げた。カップのそばが二つと、オレンジとパイナップルの紙パックが一本ずつ。
「年越しくらい、しとこうと思って」
バックヤードの電気ケトルでお湯を沸かして、カウンターに二つ並べる。三分待つあいだ、月乃さんは蓋の上に割り箸を載せて、それをじっと見ていた。
月乃さんが何か食べているところを見るのは、半年ぶり。半分ほどで箸の動きが遅くなったけれど、汁は最後まで飲んでいた。
カップを片付けて戻ると、月乃さんがカウンターの内側に立っていた。紙パックを二本並べて、コンビニの袋の底から、レモンを一つ出している。
「座って」
言われるまま、カウンターの外側に回って、一番端の椅子に浅く腰かけた。
月乃さんはパーカーの袖をまくった。冷凍庫に残っていた角氷をグラスに入れてから、オレンジ、パイナップル、レモンの順に、シェイカーへ量り入れていく。
氷を詰めて蓋を閉めると、シャカ、シャカ、と乾いた音が続く。
淡い黄色が氷の上に注がれて、グラスが私の前に置かれた。
「はい、これ」
グラスに手を伸ばしたところで、縁が二重に見えた。止めようとすると、喉の奥で変な音が鳴る。そこからは、もう駄目だった。グラスを握ったまま、子どもみたいな声を上げて泣いた。
月乃さんは布巾を一枚取って、私のグラスの周りの濡れたところを拭く。拭き終わっても、私はまだ泣いている。月乃さんは同じところをもう一度拭いた。
「……氷、溶けるよ」
「分かって、ます」
しゃくり上げながら、一口飲んだ。オレンジの甘さの奥で、レモンが少しだけ尖っている。また、喉の奥が鳴った。
月乃さんはもう一つグラスを出して、シェイカーの残りを注ぐ。
「私も、しばらくはこっち」
自分のグラスを持ち上げて、私のグラスの縁に軽く当てる。一口飲んで、月乃さんは眉を寄せた。
「甘っ」
作った本人が、本気で嫌そうな顔をしている。泣いているのに、笑ってしまった。
「これ、私のいつものにしてもいいですか」
月乃さんはグラスを置いて、布巾をたたみ直した。
「最初からそうでしょ」
壁の時計の針が、二本とも十二のところで重なった。路地の向こうの通りで、誰かが大きな声で何か言って、笑い声が続いた。年が明けたらしい。
月乃さんが時計を見上げたまま言った。
「十二時過ぎたよ。シンデレラは、お家に帰んなくていいの?」
鼻をすすって、グラスを持ち直した。
「今、いいところなので」




