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憂鬱とシンデレラ  作者: 水瀬 結
終章
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25/31

第二十四話「シンデレラ」

 十一月の半ばから、報告にスタンプが返ってくるようになった。白い犬が、片目だけ開けて寝そべっている絵。お客さんの数を送った日も、発注を間違えませんでした、と書き足した日も、返事はその犬だけだった。三日続いたところで、読んだ、という意味だと思うことにした。


 十二月の最後の配達の日、西村さんが伝票をめくりながら言った。


「そういえば、九条(くじょう)さんから電話ありましたよ。年明けのぶん、いつもより多めにって」


 台車から下ろされた段ボールを数えると、二つ多かった。


 大晦日の夜、一人で店へ向かった。今日から三日までは休みで、生ものは昨日のうちに使い切ってある。手に提げた袋には、ゴム手袋と、おろしたての布巾の束が入っている。


 年に一度、冷蔵庫の中身を全部出して拭く。今年は私がやる。実家には明日帰ればいい。


 路地の突き当たりまで来ると、重たい扉の下の隙間から、明かりが漏れていた。昨日は消して帰ったはずだ。


 ドアノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。扉を恐る恐る開ける。


 床に、瓶が並んでいた。甘口のベルモット、ライムジュース、シロップの瓶。冷蔵庫の扉が開けっぱなしになっていて、その前に、誰かがしゃがみ込んでいる。灰色のパーカーの背中と、短い黒髪の後頭部。冷蔵庫の奥に、肘まで腕を突っ込んでいた。


 泥棒だ。店の酒を、床に並べて選んでいる。袋の持ち手を握り直して、肩の高さまで振り上げた。軽い袋が頼りなくビニールの音を立てる。その音で、黒い頭がこちらを向いた。


「何してんの、黒田(くろだ)さん」


 月乃さんの声だった。行き場のなくなった袋を、そろそろと下ろす。


「……泥棒かと思いました」

「泥棒が冷蔵庫拭く?」


 月乃さんは手にした布巾を振ってみせた。


 背中まであった金髪が、なくなっていた。耳が半分隠れるくらいの長さで、襟足はもっと短い。前髪は真ん中で分けて、額が出ている。染め直した黒は、地毛より少しだけ青みがかっていた。つい、毛先の切り口まで見てしまう。いい美容師に当たったのだろう。


「髪、切ったんですね」


 月乃さんはふいと顔を背けた。冷蔵庫のほうへ向き直って、空になった棚板を引き抜く。


「もう金髪なんてやってられない歳だからさ。あと、乾かしやすい」

「似合ってます。すごく」


 短くなった髪のせいで、耳の先が赤くなっていくのがよく見えた。


「なんで、いるんですか」


 自分の声が少し掠(かす)れていた。月乃さんは棚板をシンクに立てかけた。


「大晦日でしょ。これやんないと、一年終わんないから」


 袋をカウンターに置いて、コートを脱いだ。布巾の束から、一枚抜く。


 月乃さんが差し出してくる瓶を受け取った時、パーカーの袖口から手首が見えた。骨の形がはっきりしていた。去年の今日、月乃さんはここで一人でこれをやっていたのだと思う。


 瓶は、月乃さんが渡して、私が拭く。首を拭いて、栓の周りの砂糖の固まりを爪で落とす。ラベルの期限を読み上げると、月乃さんが、いる、いらない、と答える。


「スタンプ、分かった?」


 ライムジュースの瓶を渡しながら、月乃さんが言った。


「読んだ、って意味だと思ってました」

「合ってる。犬は別に、意味ないから。最初に出てきただけ」


 月乃さんは次の瓶に手を伸ばした。


「年明けから、ちょっとずつ来るから。開店前だけ。氷と仕込み。週に二日か、三日」

「氷、割ってくれるんですか」

「割るよ。店に出るのは、まだ無理。たぶん」

「……はい」


 手の中のシロップの瓶を、拭き続けた。棚板を戻して、拭き終えた瓶を一本ずつ入れていく。


 最後に、床に小さな瓶が一本だけ残った。ラベルの波打った、辛口のベルモット。私がここで働き始めた時から、冷蔵庫の一番奥にあったものだ。


 拾おうとしたら、先に月乃さんの手が伸びてきた。手のひらの上で一度だけ転がして、冷蔵庫の一番奥へ元どおりに押し込む。期限は読み上げなかった。聞いていいことなのかどうか、私には分からない。


 冷蔵庫の扉を閉めた時には、二十三時を回っていた。月乃さんが、足元に置いていたコンビニの袋を持ち上げた。カップのそばが二つと、オレンジとパイナップルの紙パックが一本ずつ。


「年越しくらい、しとこうと思って」


 バックヤードの電気ケトルでお湯を沸かして、カウンターに二つ並べる。三分待つあいだ、月乃さんは蓋の上に割り箸を載せて、それをじっと見ていた。


 月乃さんが何か食べているところを見るのは、半年ぶり。半分ほどで箸の動きが遅くなったけれど、汁は最後まで飲んでいた。


 カップを片付けて戻ると、月乃さんがカウンターの内側に立っていた。紙パックを二本並べて、コンビニの袋の底から、レモンを一つ出している。


「座って」


 言われるまま、カウンターの外側に回って、一番端の椅子に浅く腰かけた。


 月乃さんはパーカーの袖をまくった。冷凍庫に残っていた角氷をグラスに入れてから、オレンジ、パイナップル、レモンの順に、シェイカーへ量り入れていく。


 氷を詰めて蓋を閉めると、シャカ、シャカ、と乾いた音が続く。


 淡い黄色が氷の上に注がれて、グラスが私の前に置かれた。


「はい、これ」


 グラスに手を伸ばしたところで、縁が二重に見えた。止めようとすると、喉の奥で変な音が鳴る。そこからは、もう駄目だった。グラスを握ったまま、子どもみたいな声を上げて泣いた。


 月乃さんは布巾を一枚取って、私のグラスの周りの濡れたところを拭く。拭き終わっても、私はまだ泣いている。月乃さんは同じところをもう一度拭いた。


「……氷、溶けるよ」

「分かって、ます」


 しゃくり上げながら、一口飲んだ。オレンジの甘さの奥で、レモンが少しだけ尖っている。また、喉の奥が鳴った。


 月乃さんはもう一つグラスを出して、シェイカーの残りを注ぐ。


「私も、しばらくはこっち」


 自分のグラスを持ち上げて、私のグラスの縁に軽く当てる。一口飲んで、月乃さんは眉を寄せた。


「甘っ」


 作った本人が、本気で嫌そうな顔をしている。泣いているのに、笑ってしまった。


「これ、私のいつものにしてもいいですか」


 月乃さんはグラスを置いて、布巾をたたみ直した。


「最初からそうでしょ」


 壁の時計の針が、二本とも十二のところで重なった。路地の向こうの通りで、誰かが大きな声で何か言って、笑い声が続いた。年が明けたらしい。


 月乃さんが時計を見上げたまま言った。


「十二時過ぎたよ。シンデレラは、お家に帰んなくていいの?」


 鼻をすすって、グラスを持ち直した。


「今、いいところなので」

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