第二十三話「アイリッシュコーヒー」
妹から、返事が来なくなった。その話を誰かにしたくて、十二月に入ってすぐ、私は小春を呼び出した。路地裏の、看板の小さい喫茶店。向かいの席で、小春がテーブルに突っ伏している。
「あー……もう無理。冬眠したい。本気でクマになりたい」
今では、テレビをつければこの顔が映らない日はない。昨日の番宣で白いドレスを着て笑っていた人が、パーカーのフードを被ったまま顔を上げない。
「お疲れさま。ほら、冷めないうちに飲んで」
小春は、のろのろと体を起こした。私たちの手元には、アイリッシュコーヒーが一杯ずつ置いてある。
「で? 深刻な話って、一体なにがあったわけ」
「それがさ、うちの妹のことなんだけど」
テーブルの上のスマホを、画面を下にして置き直した。
「最近、返事が来ないの。十月の半ばくらいから、既読もつかない」
「忙しいんじゃないの。夜の仕事なんでしょ」
「前はね、どんなに忙しくても、スタンプ一個は返ってきたの。それが、何送っても既読にならない。あのバーで、何かあったのかなって」
ああ、と小春が視線を天井へ上げる。
「五月に、瑠依が無理やり連れてったあのバー?」
「人聞き悪いな。まあそうなんだけど」
「で、何送ってるの」
「ちゃんと食べてる、とか。今度ご飯行こう、とか。あとは、うちの事務所の話。メイクの見習いの枠が、また空いたって聞いたから」
「それ、去年も言ってなかった?」
「言った。あの子、めちゃくちゃメイクうまいんだよ。売り場で三年やってたんだから」
小春は返事をせずに、カップの縁を指で拭った。
「重いことなんて、何も書いてないんだけどさ。なんか、急に遠くに行っちゃったみたいで。すっごい寂しいの。これって、お姉ちゃん引退ってやつ?」
両手で胸を押さえて、芝居がかった調子で嘆いてみせると、小春は、うわ、という顔をした。
「そういうの、大声で言わないでよ。聞いてるこっちが恥ずかしくなるから。っていうか、普通に重い」
「だってしょうがないでしょ。ずっと手のかかる可愛い妹だったんだよ」
「そう? あの子、手がかかるタイプには見えなかったけど」
私が五歳か六歳の頃だから、燈は三つか四つだったと思う。母が近所のバザーで、うさぎのぬいぐるみを一つだけ買ってきたことがあった。耳が片方だけ折れて、目の刺繍がほどけかけていた。
私も燈も手を伸ばして、母が困った顔をした。その時、燈が言ったのだ。お姉ちゃんのでいいよ、と。
三つか四つの子が、そう言った。母は「燈は優しいねえ」と言って頭を撫でる。父も「偉いぞ」と言った。燈はにこにこ笑っている。心の底から嬉しそうな顔で。
その夜、水を飲みに起きた私は、廊下から、居間の隅の暗がりに燈を見つけた。膝を抱えて、泣いている。泣き声は少しも漏らしていなかった。誰にも見つからないように、口を手で押さえて。
私は廊下に立ったまま動けなかった。声をかけたら、昼間の「優しいねえ」が全部嘘になってしまう気がして、そのまま部屋に戻った。
あのうさぎは、まだ私の部屋にある。引っ越しのたびに捨てようとして、毎回、捨てられずに箱に戻している。燈には一度も言ったことがない。
「あの子さ、昔から、何も欲しがらないんだよね。欲しがらないほうが得だって、知ってるだけなの」
小春はスプーンを置いて、私を見た。
「それ、本人に言ったことある?」
「言えるわけないでしょ、そんなの」
カウンターの奥で、豆を挽く音がしはじめた。
「店、知ってるんでしょ。行けばいいじゃん」
「行ったら、あの子、大丈夫って顔するもん」
言ってから、あの夜の廊下を思い出した。あの時も、声をかけずに部屋へ戻った。
「でも去年、あのお店で妹さん見つけた時は、安心したって言ってたじゃん」
「安心はしたよ。したけどね」
「なによ、はっきりしないな」
「……私さ、たぶん人のこと、けっこう間違えてる」
「今さら?」
目の前の小春の顔を見た。出会ってから十一年と少し、私は小春を隣に置いて、勝手に守っているつもりでいた。
「たとえばさ、まだ引きずってるんだけど。靴の話」
「まだ言ってる」
「私、あれから自分の記憶が信用できないんだよね」
小春は呆れた顔のまま、カップに口をつけた。上唇のふちに、生クリームが少しついた。
「別に、どっちが先でもよくない?」
「よくないよ。私、ずっと自分が拾ってあげたと思ってたんだから」
小春はクリームをつけたまま、真顔になった。
「……ごめん。言い方悪かった」
小春は紙ナプキンで口元を拭った。
「私はあの日、瑠依に拾ってもらった覚えはないけど。声かけたのも私だし」
「そうなんだよ。そこなんだよ」
「なにが」
「小春もさ、いつか私を置いて、どっか遠くに行っちゃうのかなぁ」
ドラマの主人公気取りで尋ねると、小春は眉を寄せた。
「ねえ、ウイスキー入ってるからって、酔っ払ってる?」
「酔ってないもん。もし小春まである日突然、既読つけてくれなくなったら、私、孤独死するからね」
「大げさすぎでしょ、ほんとに。っていうか、今の仕事で手一杯。どっか行く暇なんかないよ」
「じゃあ、私が一生面倒見てあげる」
「お断り。暑苦しい」
言い方のわりに、声が笑っていた。
「それにさ」
小春はカップの底に残ったコーヒーを、くるくると揺らした。
「もし万が一、そういうことがあったとしても、瑠依には一番最初にちゃんと言うから。急に連絡もつかなくなって遠くに行ったりなんてしないよ。だから」
小春は窓のほうを向いた。
「そんな、寂しそうな顔しないでよ」
ぼそっと放られた一言に、私は吹き出した。
「なにそれ、今のプロポーズ?」
「うるさい。冷めないうちに飲みなよ」
小春は耳まで赤くして、カップを持ち上げた。
「分かった分かった。ちゃんと飲む」
カップの縁に、もう一度唇を寄せた。コーヒーはすっかりぬるくなっていた。
二十二時を回った頃に、店を出た。小春がタクシーを拾い、窓を半分だけ下げてこちらを見た。
「今度、また二人で行こうよ。あのバー」
「……なんで」
「瑠依が、スマホ見ては伏せるから。何回も」
さっきの喫茶店のテーブルを思い出す。私はスマホをずっと気にしていた。
「またあのお酒、飲みたいし」
窓が上がり、テールランプが路地の先へ滑っていった。私はコートの襟を立てて、しばらくその場に立っていた。




