第二十二話「ムーンリバー」
「内定、出ました。十一月から来てほしいそうです」
十月の半ばの木曜日、開店の三十分前だった。山﨑さんはスーツのまま店に来て、ネクタイも緩めずにカウンターの前に立っている。
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。面接官の人、最後までヤマザキさんって呼んでましたけど」
「ふふっ。直さなかったんですか」
「内定が出るまでは、ヤマザキでいいかなと思って」
山﨑さんは少し笑ってから、バックヤードのシフト表のほうへ目をやった。
「それで、ここなんですけど。僕が抜けたら、平日は橘さんだけになりますよね。月乃さんもまだですし、一ヶ月くらい待ってもらえないか、向こうに聞いてみようかと」
「行ってください」
考えるより先に、口から出ていた。
「でも」
「回せますから。大丈夫です」
私が強がっているのなんて、すぐに分かるだろう。山﨑さんは少しのあいだ私の顔を見てから、はい、とだけ言った。
山﨑さんの最後の出勤は、十月の最後の金曜日だった。閉店後、シフト表の自分の名前に、自分で線を一本引いて帰った。面接の日と同じ、まっすぐな線が走っている。
内定の話を聞いた頃から、瑠依のメッセージを開けなくなった。通知の一行目だけが、画面の上に出ては消えていく。ちゃんと食べてる? 今度ご飯行こ。事務所の話、また枠が空いたって。
一度だけ、大丈夫、と打って、送らずに消した。画面を伏せて、枕の横に置く。
十一月に入ると、平日の準備は全部私の仕事になった。閉店後に報告と発注を打ち終えると、四時を回っている。業者への電話と銀行の振り込みは、昼のうちにしか済ませられない。眠れるのは明け方から昼までの六時間がせいぜいで、銀行に寄る日はその半分になった。
隣の扉の前に置く袋と同じものを、自分のぶんにも一つ買う。ゼリーの飲み物なら、十秒で済むから。
十一月の最初の木曜日は、私一人だった。橘さんは大学の学園祭の準備で抜けられない。先週のうちに、何度も謝られていた。
「本当にすみません。実行委員なんです、焼きそばの。青のり、私が発注したら三キロも届いちゃって」
「……使い切ってね」
十七時に店へ入って、角氷の量を確かめ、グラスを並べた。一人の夜の手順は、去年の冬にはメモ帳を頼りにやった。今はメモ帳を開かなくても済む。
それから二十時に、扉の鍵を開けた。青果の配達はいつも開店の前後に来る。九月からはその注文を私が出している。
二十時十分になっても、箱は来なかった。スマホで注文の画面を開く。配達日の欄に、来週の木曜日の日付が入っていた。その数字を、三回読み直す。銀行に寄った日の明け方に打った注文だった。
「えっ……」
冷蔵庫に残っているのは、レモンが一個と、半分に切ったライム。トニックの瓶が二本。グレープフルーツの段は空だった。ジントニックも、スプモーニも、これでは一晩もたない。
西村さんにもらった伝票の裏の番号に電話をかけると、本日の営業は終了しました、という音声が流れた。駅前のスーパーまで、走れば往復で二十分。その間、店を閉めておくわけにはいかない。
二十時二十分に、扉が開いた。
「こんばんは」
蒼さんは、いつもの端の席に鞄を置きかけて、こちらを見た。
「何か、ありましたか」
大丈夫です、とは言わなかった。
「……発注、間違えてしまって。グレープフルーツが一つもなくて、ライムもレモンも、ほとんど。日付を、来週の木曜で入れちゃってたんです」
言い終える前に、蒼さんは鞄を床に下ろしていた。
「駅前のスーパー、零時までですよね。何が要りますか」
「でも、お客さんにそんなこと」
「大丈夫です。書いてください」
伝票を一枚取って、裏に書いた。ピンクグレープフルーツ。ライム。レモン。トニックウォーター。字が震えて、月乃さんの字より読みにくくなった。レジから一万円札を出して、伝票と一緒に渡す。
「レシート、もらってきてくれると助かります」
「はい」
蒼さんは扉を出たところで走り出した。路地に革靴の音が響いて、遠ざかっていく。
二人目のお客さんは、それと入れ違いに入ってきた。六十を過ぎたくらいの女の人で、えんじ色のコートを畳んで、カウンターの真ん中に座った。
「ムーンリバー、あるかしら?」
レジの横のメモ帳をめくると、後ろのほうのページに、その名前があった。
『ムーンリバー バーボン四十 ホワイト・キュラソー十 グレープフルーツ十 シェイク』
「申し訳ございません。ただいま、グレープフルーツを切らしておりまして。今、買いに行ってもらっているところなんです。……三十分ほど、お時間をいただけませんか」
彼女は扉のほうを振り返った。
「さっきすれ違った、走ってった人?」
「はい」
「お店の人じゃないわよね、あれ」
「……常連さんです」
彼女は声を出して笑った。
「いいわよ、待つ。それまで、柑橘の入ってないものを何か。バーボンのソーダ割りでいいわ。レモンはいらない」
ソーダ割りを出すと、彼女は一口飲んで、グラスをコースターに戻した。
「ムーンリバーって、映画の歌なの。知ってる?」
「えっと、曲の名前だけは」
「若い人はそうよね。主人公がね、アパートの窓の外の、非常階段に座って歌うの。洗った髪にタオルを巻いたまま、ギターを抱えて。上の階の男が、窓からそれを聴いてるのよ」
「それで、どうなるんですか」
「どうもならないの、その場面は。歌い終わるまで、聴いてるだけよ」
それきり映画の話はしなかった。昔、銀座の店でよく頼んだのだと言って、ソーダ割りをゆっくり飲んだ。
二十一時を少し過ぎて、蒼さんが戻ってきた。両手にスーパーの袋を提げて、額に汗が浮いている。十一月の夜なのに、シャツの襟が汗で濡れていた。
「すみません、走らせてしまって」
「いえ。ピンクのは、三つしかありませんでした。白いのを四つ足してます。ライムとレモンは、棚にあったぶんで全部です。足りなかったら、もう一回行きます」
袋の底で、トニックの瓶がぶつかって鳴った。渡されたレシートは二つに畳まれていて、間にお札が挟んであった。お釣りを数えるふりをして、顔を上げられずにいた。耳の後ろが熱い。
「ありがとうございます。本当に」
「手間賃は、ウーロン茶一杯で」
蒼さんは、カウンターの一番端に座り直した。
先に、待たせていたほうを作った。白いグレープフルーツを半分に切って、搾る。シェイカーに、バーボンを四十。ホワイト・キュラソーを十。搾ったばかりのグレープフルーツを十。氷を詰めて、振る。カクテルグラスに注ぐと、淡い琥珀色が照明の下で揺れた。
「お待たせいたしました。ムーンリバーです」
彼女は一口含んで、すぐには飲み込まず口の中で転がしていた。
「これこれ。待った甲斐があったわ」
彼女はカウンターの端の蒼さんに向けて、グラスを少しだけ持ち上げてみせた。蒼さんが、慌ててウーロン茶のグラスを持ち上げ返す。
蒼さんは閉店の十分前まで残っていた。鞄の中の原稿は一度も出てこない。鍵を閉めてから、報告を打った。
『今日、開けました。お客さん十三人です。青果の発注の日付を間違えちゃいました。蒼さんが買いに走ってくれました』
帰り道のコンビニで、水とゼリーの飲み物をかごに入れる。今夜は、鮭のおにぎりを一つ足すことにした。
マンションのエレベーターで、鏡の中の自分と目が合った。ファンデーションが小鼻の脇で浮いて、口紅は、とうに取れている。
外廊下に出ると、煙草の匂いがした。柵の前に、月乃さんが立っている。
グレーのスウェットの上に、カーディガンを羽織っている。柵に両肘をのせて、下を見ていた。
六月に気づいた髪の根元の黒が、指三本ぶんほどに伸びている。そこから先の金色は、蛍光灯の下で、乾いて白っぽく見えた。
「ひどい顔してますね」
月乃さんがゆっくりこちらを向いた。頬がこけて、切れ長の目の下が青い。私の顔を、一度だけ上から下まで見た。
「……そっちも」
月乃さんは、また下を向いた。隣へ行って、柵に背中を預ける。鉄の冷たさがコート越しに伝わってくる。見えるのは、並んだ扉と、廊下の蛍光灯だけだった。
煙を一つ吐いてから、月乃さんが言った。
「報告、読んだ。日付、打ち間違えたって」
「来週の木曜で、入れてました」
「やるよね、それ。私も一回、一ヶ月先で入れたから」
煙が廊下の明かりの中を昇っていく。
「蒼くん、走ったんだ」
「走りました。革靴で」
月乃さんの鼻から、短く息が抜けた。笑ったのかどうかは、分からなかった。
「朝がさ、分かるんだよね。カーテンの色が変わるから」
月乃さんは柵の下を見たまま言った。
「ああ、今日も何もしなかったなって思って、それで寝るの。起きたら夕方で、スマホ見て、黒田さんの報告で、今日が何曜日か分かる」
私は何も言わなかった。
「前にも、こうなったことあるんだよね」
煙草の灰が長くなっていた。
「だいぶ前に。……そん時は、もっと長かったな」
廊下の蛍光灯が小さく鳴っている。
煙草が指の近くまで燃えている。月乃さんはそれを携帯灰皿に押しつけて、蓋を閉めると、私の手元に目をやった。
「それ、ご飯?」
「ご飯です。ちゃんと食べてください」
袋を差し出して渡す。月乃さんは袋の口を開けて、中を覗いた。
「……鮭?」
「おいしいので」
月乃さんはポケットから煙草の箱を出した。一本くわえて、火をつける前に、こちらを見る。私は柵に預けた背中を動かさなかった。




