第二十一話「スプモーニ」
八月の終わりの夜、二人連れの女の人の、背の高いほうにスプモーニを頼まれた。
タンブラーに氷を詰めて、カンパリを注ぐ。ピンクグレープフルーツを半分搾り、トニックウォーターで満たした。バースプーンで一度持ち上げると、赤とピンクが混ざって、コーラルのチークみたいな色になる。
女の人は、グラスの三分の一ほどを一息に飲んだ。
「これこれ。この苦味がいいのよ」
閉店後に調べると、スプモーニのカクテル言葉は愛嬌だった。
カンパリを抜けば、残るのはグレープフルーツとトニックだけになる。甘くないノンアルコールが、これで一つ作れる。八月の半ばに車で来たお客さんには、ウーロン茶しか出せなかった。
九月からは、青果とトニックの注文も、私が業者に出すことにする。八月までは、足りないぶんを昼のスーパーで買い足していた。その分、眠る時間が削れていく。
九月に入って二度目の木曜日、開店して十分も経たないうちに、扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
グレープフルーツに包丁を入れたまま、顔を上げた。扉を半分開けたところに、女性が立っている。生成りのシャツに、紺のカーディガン。肩にかけたトートの持ち手を、両手で握っている。
肩の上で切りそろえた髪のせいで、一瞬、分からなかった。売り場では、いつも後ろで一つにまとめていた。
「……佐藤さん?」
「お、お久しぶりです」
佐藤は、扉の外に片足を残したままだった。
「どうしたの。よく分かったね、ここ」
「小林さんに、聞いて。あの、急にすみません。開いたばっかりですよね」
「いいよ、誰もいないし。入って入って。外、暑いでしょ」
佐藤はカウンターの真ん中に、浅く腰を下ろした。トートは膝の上に載せたままで、棚に並んだ瓶を端から目で追っている。おしぼりと水を出すと、両手で受け取って、小さく頭を下げた。
「黒田さんがそっち側にいるの、なんか変な感じです」
「私もまだ、ちょっと変な感じ」
「あ……私、明日も早番で。お酒が入ってないのって、ありますか」
メニューを開いて、ノンアルコールの欄を見せた。
「この二つは甘いんだけど。甘くないのがよければ、グレープフルーツで作れるよ。メニューには、まだ載せてないけど」
「じゃあ、それでお願いします」
切りかけのグレープフルーツを、そのまま半分に割った。タンブラーに氷を詰めて、搾った果汁を注ぎ、トニックで満たす。
「スプモーニっていうカクテルから、お酒を抜いたの。ほんとは赤い色が入るんだけど」
佐藤はグラスを両手で包んで、一口飲んだ。
「苦っ。あ、でも、おいしいです。すごい爽やか」
「ちなみに、スプモーニのカクテル言葉は愛嬌なんだって」
佐藤は、カンパリの入っていないグラスを見下ろした。
「じゃあこれ、愛嬌抜きってことですね」
言ってから、自分で吹き出している。つられて笑うと、佐藤の肩から力が抜けた。
「佳奈とどこで会ったの」
「売り場に来たんです、七月に。今、メーカーの人なんですよね」
「うん、マーケの」
「スーツで来たから、最初、誰か分からなくて」
「さっきの私と一緒だ」
佐藤は、切りそろえた髪の先を指でつまんだ。
「それで、ここの話を聞いて。店長さんがお休みで、黒田さんがカウンターの真ん中に立ってたって」
「店長が休みだから、真ん中が空いてただけだよ」
「来るの、すごい迷ったんです。駅から二回くらい、引き返しそうになって」
佐藤はグラスをコースターに戻した。
「あの日のこと、ちゃんと謝れてなかったので」
「あ、うん。ごめんね」
「えっ。なんで黒田さんが謝るんですか。謝りに来たの、私なんですけど」
「だって、止めたの私だし。佐藤さん、言いに行こうとしてたのに」
まな板の上の、グレープフルーツの皮を端に寄せた。
「数え間違えたの、私です。すみませんでした」
佐藤は、カウンターに額がつきそうなくらい頭を下げた。
「次の日、先輩に言いに行ったんです。私が数え間違えましたって。そう、って言われて、それで終わりでした」
「あの人らしいね」
「その先輩、春に別のお店に異動になったんです」
不機嫌に歪んだ、あの人の真紅のリップを思い出す。
「じゃあ今、人、足りてないでしょ」
「足りてないです、全然。だから私、在庫も発注も、全部自分で見るようになって。もう、誰にもかばってもらわなくていいように」
佐藤はグラスの水滴を、指で拭った。
「そしたら、なんか……副店長の話が来て」
「え、副店長?」
「まだ打診なんですけど。十月から、って」
「すごい。すごいじゃん、佐藤さん」
自分の声が、店の奥の壁まで届いた。頬が勝手に上がって、口元に手をやるのも忘れていた。
「黒田さん、声、大きいです」
「だって副店長だよ」
佐藤も笑って、目の端を指で押さえた。グラスが空になるまで、佐藤は売り場の話をした。新しく入った子が、テスターの蓋をよく閉め忘れること。今年のクリスマスコフレの案内が、もう届き始めていること。
帰り際、佐藤はトートの中から、小さな紙袋を出した。
「これ、よかったら」
袋の中には、手のひらに収まるくらいの箱が入っていた。十ミリの、香水の小瓶だった。
「ジャズが流れるバーをテーマにした香水なんです、それ。友達のブランドで買いました。いまの黒田さんに合うかなって」
「開けていい?」
「私が帰ってからにしてください。恥ずかしいので」
扉のところで一度振り返って、佐藤は胸の前で小さく手を振った。
閉店作業を終えて、報告を打った。
『今日、開けました。お客さん十六人です。百貨店の時の後輩が来ました』
送ってから、紙袋の箱を開けた。キャップを外して、手首の内側に一度だけ吹きつける。
最初に、甘いラムの匂いが来た。少し遅れて、乾いたたばこの葉と、古い木の匂いが上がってくる。ここの匂いと、よく似ていた。




